よりよい日本の人権保障制度を目指して
- 国家裁量型人権ビジョンから共生社会型人権ビジョンへ -


窪 誠(大阪産業大学助教授;規制・救済部会作業部会)

◎ 経済と人権に対する政府の姿勢の違い

 21世紀を目前にして、日本は、今、あらゆる分野における意識改革を求められている。IT革命や遺伝子革命といった技術面のみならず、相次ぐ金融市場の創設、よき企業ガバナンスの要請など、経済社会の枠組みやルール自体が急速に変化しているからである。このような動きは、日本のみならず、世界全体を巻き込むグロバリゼーションと呼ばれているが、その根底にあるのは、市場経済を最優先とする熾烈な利益獲得競争である。この競争に勝ち抜くための意識改革の必要性は、政府によっても民間によっても、マスコミを通じて日々報じられている。ところが、その競争の犠牲者に対する配慮は、必ずしも十分に払われていない。毎年、交通事故で亡くなる人はおよそ1万人いるが、自殺者の数はその3倍に達する。さらに、都会の公園は、ホームレスの人々が寝泊りするテントやダンボール箱で埋っている。人々の生存の権利自体が脅かされているのである。日本政府は、利益獲得競争に勝ち抜くための意識革命には積極的だが、人権保護のための意識革命には消極的である。この7月、日本政府は沖縄サミットを主催し、IT憲章が採択された。ところが、国連規約人権委員会は「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に関する日本の人権状況を審査した後、こう述べている。「委員会は、(5年前の)第3回定期報告書の審査後に出された勧告の大部分が履行されていないことを遺憾に思う。」このように、人権に対する日本政府の姿勢は、グロバリゼーションへの対応とは正反対に、消極的どころかむしろ膠着したものであることがわかる。このような態度を生み出した日本政府の人権ビジョンとは、どのようなものなのか。


◎ 国家裁量型人権ビジョン

 それは、国家裁量型人権ビジョンと呼ぶにふさわしいものである。戦後、日本の復興は、強力な行政指導の下に行われた。官僚が公益の判断者として、通商、産業、教育などあらゆる分野を指導したのである。このような国家の裁量判断の下に、人権もおかれた。つまり、国家裁量型人権ビジョンのものもとでは、国の裁量によって認められる範囲が人権ということになる。その裁量の表現が、社会権においては「措置」であり、自由権においては、「公共の福祉」である。いいかえると、社会権とは、国が全体的利益を配慮して、特定個人に行うサービスに過ぎない。また、自由権とは、公共の福祉という名の行政裁量によって制限されうるものにすぎない。

 そして、憲法第8章が明記する地方自治原則にもかかわらず、中央行政が地方行政にたいして、圧倒的な優位を誇っている。さらに、国家の裁量判断を最善と考えるこの人権ビジョンは、二重の閉鎖性を持つ。ひとつは、上に述べた規約人権委員会の勧告を無視する日本政府の態度に見られる対外的閉鎖性である。もうひとつは、行政のセクショナリズムや縦割主義に象徴される体内的閉鎖性である。

 このような上意下達の国家裁量型人権ビジョンの論理的帰結は、責任の拒否すなわち無責任である。実際、多くの差別問題について、国は、その解決のための行政責任、立法責任を認めてこなかった。逆に、市民の要求する人権が措置または裁量の範囲外であると国家が判断する場合には、そのような要求を「身勝手」とか「わがまま」として退けた。これによって、市民の要求する人権全般が、「身勝手」とか「わがまま」と見る風潮が助長された。実際、1996年に人権擁護推進審議会が法務省内に設置された際、法務省は、警察職員や裁判官など、公権力に携わる者への人権教育については、審議会の審議事項の中に含めなかった。その後の1999年に政府に提出された答申自体が、「人権が不可侵であるということは、歴史的には、主として、公権力によって侵されないという意味で理解されてきた」ことを認めながら、公務員に人権教育をおこなうという、最も重要な国家の責任を拒否したのである。こうして、この答申は国の責任は放棄しつつも、市民に対しては、「一方で、本来、正当に主張すべき場面での権利主張が必ずしも十分に行われていないという問題があり、他方で、人権を主張する上で、他人の権利にも十分配慮することができない者も少なくないという問題がある」として、「権利の行使に伴う責任を自覚」するよう呼びかけている。


◎ 共生社会型人権ビジョン

 こうした上からの一方的な国家裁量型人権ビジョンに対して、市民はまず何よりも人権に関する国の責任を認めさるために努力してきた。たとえば、同和行政は、当初サービスとしてしか見なされていなかったが、当事者の粘り強い運動によって、1965年「同和対策審議会答申」によって、国の責任を認めさせる。男女平等についても、1999年「男女共同参画社会基本法」法制定によって、初めて国の責任を認めるようになったのである。しかし、それらはまだ十分なものではなく、人権に関する新たな法制度の確立が求められている。

 それでは、どのようにして、市民は行政の責任を認めさせてきたのだろうか。それは、地域レベルと国際的レベルというふたつのレベルから、国家をはさみこむようにして働きかけたのである。まずは、地域生活に最も密接なかかわりを持つ地方自治体に対する取り組みによって、条例が制定され、地域でのさまざまな行政措置がとられるようになった。つぎに、国際的なNGOと協力して、国連をはじめとする国際機関に働きかけた。こうして、日本政府に人権に関する諸条約の批准を促し、条約批准後は、日本政府の定期報告審査にあたって、いわゆるカウンターレポートを提出したのである。とはいえ、地方自治も国際主義も、実は、日本国憲法に明記されていることであり、政府はこれを遵守することが本来求められているのである。

 このように、我々は、共に生きる人々の参加と合意形成の広がりを人権ととらえる。これを共生社会型人権ビジョンとよぶことにする。その制度的イメージを概観すると以下のようになる。
 まず、教育・啓発法の制定および差別禁止法の制定をはじめとする人権関連諸法の整備によって、人権の促進と保護に関する国家の責任を明確にする。政府から独立した国内人権委員会を設置する。これは、対内的機能としては、人権教育・啓発、人権侵害・差別を受けた者の救済、人権政策提言をその主な任務とする。また、対外的機能としては、国連をはじめとする国際的人権機関ならびにアジア・太平洋地域を中心とする諸外国の人権機関とNGOとの間の情報と経験のインプットとアウトプットを行う。とりわけ、救済窓口として、人々が身近で容易に利用できる人権相談委員、人権促進市民ボランティアを配置する。人権委員会の活動は、つねにNGOとの密接な共働と住民参加のもとでおこなわれるものとする。国会内に人権問題を審議する常設委員会を設置する。さらに、縦割行政の弊害を防ぎ、行政の窓口を一本化するため、総合調整機能をもつ人権官庁を設置する。

 このビジョンにおいては、ある人権の要求が「身勝手」「わがまま」とみなされることはない。なぜなら、本当に「身勝手」なのか、それとも「正当な主張」なのかは、ある機関や個人によって一方的に判断されるのではなく、定められた参加の場における合意形成の中で判断されるからである。

 我々は、人を切り捨てるのではなく、共にたすけあう社会を建設する。それに向けた歩みが「人権文化」の確立である。これは国内にとどまらず、アジア・太平洋地域における地域的人権保障システムの確立にむけた国際貢献も展望する。ここに提示するのは、我々の人権ビジョンを制度化するための原則と提言である。


 

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