『天皇と神道の政治利用:明治以降の天皇制の根源的問題』(思索者 、2019)

本書は「思索者」というグループによる共同研究の成果ということだが、これは法学者である土屋英雄筑波大学名誉教授を中心とする研究会のようだ。

安倍政権などによる天皇利用による復古、それに対して護憲の立場から危惧する天皇という図式は、もはやありふれた道具立てである。本書の立場も明らかにそうで、いちいち引っかかる点が多く、楽しい読書ではなかった。ただ、それ以外の部分については、国家神道の歴史についても政教分離や主権在民原則についても、オーソドックスともいえる整理が続く。そのほとんどは整理にとどまり、著者たちの主張が前面に出ているとはいえない(学生のレポートを読んでいるようだという感想もあった)が、その点だけは「使える」部分はある。

政治権力と天皇との関係の説明は、明治維新以来の「天皇を利用の道具と見るのは長州系の伝統」という、かなり雑な根拠によっている(安倍も長州系であるとか)。明治維新で、討幕派が天皇を玉として使ったというのはその通りだろう。「制度としての政治利用」が構造化されたのが近代天皇制であるといいたいのかもしれない。だが、そうであればなお、近代天皇制国家における天皇という存在は、国家の外にある操作可能な道具とはもはや別物であることが意識されてもいいのではないか。

本書の主張でいけば、象徴天皇制とは、天皇の政治利用の余地を断つものとなるべきということになろう。しかし、天皇の行為を「内閣の助言と承認」で縛ったことが、逆に天皇の政治利用の回路を保持することになったと整理され、天皇の「代替わり儀式」が登極令に基づいて行われたのも、神権政治への復古を図る政治による天皇の利用だという。それだけでなく、生前退位をめぐる天皇の発言は、憲法を擁護し尊重するものであって憲法九九条に則った行為である、自民党の憲法草案で天皇の憲法尊重義務を外したのは、そういう形で天皇が憲法に加担することを阻止するためではないかと推測するに至っては、もうねじれ切っているという感想しかもてない。

書名にある「天皇」と「神道」という近代国家の統合装置のありようは、それぞれ位相も異っていよう。そのそれぞれが近代国民国家においてどのように機能してきた(きている)のかということは、具体的に問われるべきである。「政治利用」を出発において、結論的にそのことを確認しているだけではすまないのではないか。

(2020年1月学習会報告/北野誉)

*初出:『反天皇制運動 Alert』no.44,2020.2(反天皇制運動連絡会)

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