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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ベトナムをめぐって、過去と現在を往還する旅


映画『石川文洋を旅する』公式パンフレット(大宮映像製作所+東風、2014年6月21日発行)掲載

1965年に米国が北ベトナム爆撃を開始してから、来年2015年で50年目になる。半世紀が経つということである。その65年から、解放勢力が占領米軍をサイゴン(現ホーチミン)をはじめ全ベトナム領土からの撤兵にまで追い込んだ75年までの10年間、私はほぼ20歳代の人生を送っていた。当時の私から見て、世界はベトナムを軸に動いているかのようだった。超大国=米国の巨大な軍事力を相手に、貧しい小国=ベトナムのたたかいぶりは際立っていた。南米ボリビアの山岳部で、反帝国主義のゲリラ戦の展開を図っていたチェ・ゲバラは「二つ、三つ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」とのメッセージを発した。米国の侵略とたたかうベトナムは、これを支援すべき中国とソ連の対立で悲劇的に孤立しているが、世界各地の民衆が「ベトナムのように」たたかうならば、敵=帝国主義の力は分散され、われわれの勝利の時が近づくのだ、というのがこのメッセージの趣旨だった。世界各地では、ベトナム反戦闘争が激しくたたかわれていた。米ソの対立によって規定された東西代理戦争の枠組でベトナム戦争を意味づける考え方もあったが、それは、第三世界解放闘争の主体性を無視した暴論だと、私には思えた。私は、不可避的なたたかいのさ中にあるベトナムの民衆が軍事的に勝利することを心から願い、祈っていた。75年4月30日、ベトナムは勝利した。蟻が巨象を前に立ちはだかった事実に、世界じゅうが沸き立った。

それから40年が経とうとしている。残酷な時間の流れの中で、65~75年当時には想像もつかなかったことが、ベトナムをめぐって起こった。また、当時のベトナムのたたかい方をめぐって新たな解釈が現われた。いくつかを任意に挙げてみる。米国に対して「盟友国」としてたたかった隣国カンボジアに、ベトナムは軍事侵攻した。同じく「同盟国」中国と、ベトナムは戦火を交わした。それは、2014年のいまなお、西沙および南沙諸島をめぐる領有権争いとして続いている。65~75年当時のベトナムと米国の政治・軍事指導者たちは、1995年からベトナム戦争をめぐる総括会議を開き、互いの政策路線や軍事戦略を検討し合った。これに参加した、当時の米国国防長官、マクナマラは「ベトナム戦争は誤りだった」と『マクラマナ回顧録――ベトナムの悲劇と教訓』(1997、共同通信社)に記した。単一支配政党であるベトナム労働党大会では、党幹部や政府幹部の汚職や職権乱用をいかに食い止めるかが、もっとも重要な議題となって久しい。

磯田光一という文芸批評家は、ベトナムの解放勢力が米国と妥協点を見出し、米国の「占領政策を通じてベトナムの復興を意図したほうが、勝つにさえ値しない戦争に勝つよりも、はるかに賢明だったのでは」と論じた。300万人に及んだ「あの膨大な死者たち」を背景に置きながら。ベトナム戦争の真っ只中で、日本の「国民的な」作家・司馬遼太郎はここまで書いた――戦争は補給如何がその趨勢を決するが、自前で武器を製造できないベトナムは、他国から際限もなく無料で送られている兵器で戦っている。大国は確かによくないが、この「環境に自分を追いこんでしまったベトナム人自身」こそ「それ以上によくない」として、世界中の人類が「鞭を打たなければどう仕様もない」。北ベトナム軍の兵士としてたたかった経験をもつバオ・ニンは、その後作家となり、『戦争の悲しみ』(1997、めるくまーる。現在は河出書房新社)と題する作品を書いた。そこでは、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の兵士が、戦闘時にとったふるまいのなかには、戦争に疲れ慣れきってしまったがゆえに、他者のことを気遣ったり同情したりする余裕もないままに自暴自棄の行動に走る場合もあったことが、実録風に明かされている。

昨年10月、元ベトナム人民軍ボー・グェン・ザップ将軍の死の報に接した。ディエンビエンフーのたたかいの指揮ぶりや『人民の戦争・人民の軍隊――ベトナム解放戦争の戦略・戦術』(1965年、弘文堂新社、現在は中公文庫)という著作で、忘れがたい印象を残す人物だった。1911~2013年の生涯で、102歳という長命だった。この年号を見てふと思いつき、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユの生没年を調べた。1909~1943年であった。ザップとヴェーユは、少なくとも前半生は同時代人だった。早逝したヴェーユは、最後まで社会革命に心を寄せ、その実現を願いながら、恒久的な軍隊・警察・官僚組織が革命の名の下に永続することへの批判と警戒を怠らない人であった。このふたりの生涯と思想を、同一の視野の中に収め、今後の課題を考えることが重要だと思える。

すぐれた「戦場カメラマン」である「石川文洋」を「旅する」とは、ベトナム戦争がたたかわれていた65年から75年にかけての、この狭い時間軸の中に彼を閉じこめてしまっては、できることではない。映画が描いているように、石川はいまもなお、ベトナムへの旅を続けている。「ベトナムから遠く離れている」私たちも、過去と現在を往還するそれぞれの旅を、万感の思いを込めてなお続けなければならない。