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朝日新聞 2020年9月19日 評者:戸邉秀明(東京経済大学教授)
図書新聞 2020年8月29日 評者:佐川亜紀(詩人)
 特集:〈文学〉を極めて、〈研究〉をも超えてー作家/作品研究から新たな地平へと導く五冊
河北新報 2020年8月16日 特集:東北の本棚
山形新聞 2020年7月19日 評者:森岡卓司(山形大人文社会科学部教授)
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朝日新聞 2020年9月19日 評者:戸邉秀明(東京経済大学教授)

20世紀の山形に生き、民衆詩の詞華集(アンソロジー)『詩の中にめざめる日本』を編んだ農民詩人、真壁仁(まかべじん)。彼の言葉に学びながら、反アパルトヘイト運動などアフリカに長く関わってきた教育学者が評伝を書き下ろした。

真壁の未公刊の日記まで読み解いた著者は、傾倒の深さゆえに、彼の「弱さ」にも踏み込む。なし崩しに進む戦時の転向、戦後の社会運動での仲間内の優先。家や組織にしばられ、そのたびに詩は批評性を失う。

戦後、地域の教育文化運動に力を注いだのは、詩人なりの戦争責任の取り方だった。半面、詩を書けなくなるが、戦時中に始めた民俗文化の探究は、「農のエロス」を詠(うた)い、農政による「稲の〈非運〉」に憤る最晩年の詩作に活(い)かされた。

生活・表現・実践の統合という不可能を追い求め、「敗北」をくり返して、なお成熟に至る。「傷だらけの沃野(よくや)」と著者がよぶその生き方の全体が、形は変われど、しがらみの続く今に手渡された意味は大きい。
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図書新聞 2020年8月29日 評者:佐川亜紀(詩人)
特集:〈文学〉を極めて、〈研究〉をも超えてー作家/作品研究から新たな地平へと導く五冊

〈多くの教示をはらむ労作
野の中央の狭間にいた真壁仁の実存を浮き彫りにする〉


著者・楠原彰がアフリカ滞在時に真壁仁を再認識したという逸話は、意味深い。「1966年の終わり、ぼくは東アフリカのケニアで、心身ともに苦しい一人旅をつづけていた。そこへ、刊行されたばかりの真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(岩波新書)が」送られてきた。その詩集は〈干天の慈雨〉のように内面に染み込んできたそうだ。地球的に見れば、中央のヨーロッパに対して、アフリカは「地域」だ。アフリカも魅力的な伝統文化にあふれているが、大国に侵略され続けた。真壁仁が「地域」を語るようになった時期は、実は、東北でも都市化が進行し、地域の暮らしや文化が脅かされていた。民衆詩人の目覚めはアフリカの覚醒と重なるところがあるだろう。

現代詩において、真壁仁の評価をめぐっては、幾度か変化していると思う。同じ山形県人の詩人・黒田喜夫が世界政治に対峙した先鋭性と下層農民の原点からの批判性で注目されたのにくらべ、意義づけは不十分だった。真壁仁が特に取り上げられるようになったのは、本書でもたびたび触れられている民俗学者・赤坂憲雄が発行人となった『真壁仁研究』(第1号・2000年12月1日発行)からだろう。赤坂憲雄は「創刊に寄せて」で以下のように述べている。「二つの「野」が刻印されてあることで、真壁仁とその仕事が西欧に評価されることは、あまりに稀であった」。黒田喜夫は東京に出て京浜工業地帯の労働者となり、新しい階級思想の詩が焦点化されたが、イデオロギー論争の衰退後、真壁仁は、構造主義的、文化人類的な観点から再浮上した。

本書の題名にある「野」とは、楠原彰も説くように、〈東北・山形で百姓であり続けた野〉と〈思想としての在野〉の意味をふくんでいる。しかも、さらに進んで、緻密な調査と分析、全人生の把握により、むしろ、野と中央の狭間にいた真壁仁の実存を浮き彫りにしたのが重要な成果だろう。1932年刊行の第一詩集『街の百姓』の表題からすでに狭間の自己認識が見られる。「「街の百姓」は文化の狭間、思想の狭間、生産と消費の狭間、「貧しさ」と「豊かさ」の狭間、(略)様々な異質なものが交錯し合ったり、対立し合ったりする〈場〉〈境界、〉に生きる農民である」と楠原は指摘する。詩「街の百姓(一)」では、堆肥の臭いが「隣人の抗議にふれる」様子が出てくる。当時から山形市でも農業に格別の矜持を持たなければ続けられないほどの生活と文化の変容が起こっていた。「おれたちはやめない/豚を飼ひ 堆肥を積み 人間の糞尿を汲むのを/高い金肥が買へないからだ/土のふところに播いて育てる天の理法しか知らないからだ」。戦後も農業は衰退し、地域は観光地化した。真壁は、詩作を「血みどろなアソビ」とし、百姓でありつつ詩人である自己の二重性と葛藤した。

副題に「その表現と生活と実践と」と記すように、文学表現を詳しく広く取り上げ、かつ、人生を綿密にたどり、当時の社会動向や関与した平和運動や教育実践まで網羅し、文学鑑賞、伝記、社会批評等の多方面から読みごたえがある。木村迪夫ら優れた詩人を育てた功績も特筆すべきだ。農民芸能の黒川能を復権させた意義も大きい。詩作だけではなく、全業績として復活させたい熱意がこもる。

ただ、地域の中心となり続けた公人的性格が、戦中の天皇制翼賛や、戦後の朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席賛美にいたる権力的言説に時として陥る弱点も認めている。

詩の特質として、真壁仁の代表作「稲(オリザ)」に「農のエロス」を受け取る感性に着目した。「この稲の〈不運〉〈非運〉の表現には、先祖代々稲とともに生きてきた百姓・真壁仁兵衛の愛着感情〈農のエロス〉」と、「律令国家体制以降の権力への抵抗の精神が、錯綜しあいながら溶け込んでいるのではなかろうか」という読解は、示唆に富む。真壁仁の個性は、感情移入やおおらかさにある。同じ農の詩人の井上俊夫のような即物的な緊迫感より、農作物や農民文化をいとおしむ抒情性が強い。

だが、また一方で、詩「朝鮮の米について」では植民者としての想像力が欠落しているとの指摘も見逃してはならない点だ。「かれらの多くもまた日本本土出自の「優良品種米」食べることはできず、粟や雑穀を食べるほかなかった」。「真壁のアジア認識の曇り〈他者の欠落〉」とは、今の日本に問われるところである。このように真壁仁の掘り起こすべき豊かな実りと、蹉跌や錯誤についても率直に明示し、全体像に迫っているところが貴重だ。

現在の新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延は、自然と人間との関係を問い直している。農業の大切さが身に染みるが、日本の食料自給率は激減し、危機をナショナリズムと巨大資本に利用しようとする動きも高まる。真壁仁が、「野の詩人」として生き、書こうと懸命に格闘した軌跡は多くの教示をはらむと知らせてくれる労作だ。
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河北新報 2020年8月16日 特集:東北の本棚

〈「農の精神」不屈の人生〉

1907年山形市に生まれ、戦中、戦後を生き、84年に77歳でこの世を去った農民詩人、真壁仁(じん)。江戸時代から続いた農家の長男で、幼名は常吉(つねきち)、6歳で先祖名の仁兵衛(にへえ)を襲名し、10代後半に詩文を発表、筆名に仁を名乗った。

一貫して「百姓(ひゃくしょう)」を自称した生粋の農民真壁は、家督の宿命で進学を断念して14歳で農民となり、独学で詩を創作する。向学心あふれた「野の詩人」の誕生から始まる本書は、77年間の生涯を描いた評伝だ。

「真壁仁は、詩人・思想家であると同時に、平和運動、文化・教育運動の実践者であった。そして何よりも農民であった。<農の精神>を生きた生活者であった」。真壁を簡潔、的確に表現する序文で始まり、「戦前編」「戦後編」各4章、終章「農のエロス、<不運>の稲−真壁仁へのオマージュ」で締めくくる。

各章で代表的な詩を取り上げ、時代背景や周囲の反応などを盛り込みながら真壁の創作意図を解説する。人生の節目節目を時系列で追い、真壁という人物自体に焦点を当てている。

国学院大名誉教授(教育学)の著者は、東大大学院時代に真壁に出会った。東北の地に根を張り、多方面の社会活動に尽力していた真壁に大きな影響を受け「私(し)淑(しゅく)」したという。仰ぎ見る「師」へのまなざしは優しくも厳しい。

第7章「さまよう詩人の魂−組織としがらみのなかで」は、筆者があえて1章設けた特別の章だという。原水爆禁止運動で山形県の代表を務めた真壁が政治、組織の論理に翻弄(ほんろう)されて分裂を招き挫折した事態を例に、真壁の弱さ、曖昧さを批判的にあぶり出す。

地域独特のしがらみの中で、農民として生計を立て、社会、教育、政治運動に関わりながら、詩をはじめ数多くの著書を残した農民詩人への最大の賛辞を贈っている。
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山形新聞 2020年7月19日 評者:森岡卓司(山形大人文社会科学部教授)

〈葛藤を生きた姿に支えを見いだす〉

本書は、真壁仁という巨大な存在を、筆者固有の観点からトータルに描き切った評伝である。

巨大な存在である、ということは、非の打ち所がない、という意味ではない。むしろその逆に、熱烈な称賛と苛烈な批判との双方をたえず惹起し続ける、一筋縄ではいかない複雑さこそが、真壁という存在の大きさを証明する。

本書が捉えようとするのも、そうした矛盾を抱えた真壁像である。著者の着眼は、本書のタイトルにも端的に示されている。真壁は、地域に生活を営む者として「野にあること」と表現に生きる「詩人であること」とを両立しようとし、加えて社会的な行動を志す「実践者」でもあろうとした。もちろん、1人で3役を生きることなど、誰にもできはしまい。そこに待つのは消耗と挫折、そして厳しい報いでもあるだろう。しかし、真壁が行ったのは、そうした「決して成功などありえない、表現・生活・実践のアポリア(難題)を抱えて生きることの選択」だったのだ、と著者は述べる。本書を通じて描き出されるのは、しばしば過ちを犯し、手ひどい傷を負いながらも「野の詩人」としての葛藤を生きていく真壁の姿にほかならない。

著者の真摯さは、今日から見れば過誤を指摘せざるを得ないような真壁の「弱さ」についても、筆鋒が鈍ることを許さない。政治的、倫理的な問題についてはもちろん、創作理念に伴った限界に触れようとする文章には、緊張感が漂う。しかしその上で著者は、「弱さ」を恐れずに矛盾と葛藤を生きた真壁の生にこそ、人間が「トータルに生きる」ことの支えを見いだすのである。

細部において、さらに確認や検討が必要な部分はあろうし、多くを個人の内面の劇に回収する傾向もやや気になる(評伝という性質上仕方のないことかもしれないが)。が、それらは本書の価値をいささかも減じるものではなく、ここに、真壁研究におけるひとつの到達点が示されたことは疑い得ない。今後、繰り返し参照されるべき書物である。



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