■日本経済新聞 2017年11月4日 評者:吉川凪(翻訳家)
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日本経済新聞 2017年11月4日
韓国で「登壇」は、文壇デビューを意味する。登壇には、各新聞社が主催する「新春文芸」というコンクールに作品が入選する、既成作家の推薦を受けて文芸誌に作品を発表する、文芸誌の新人投稿欄に作品が掲載されるなどの方法があり、このプロセスを経ないと作家や詩人と認められない。伝統的に「文人」を尊敬してきた韓国において、それは名誉なことなので、SNS全盛の現代でも登壇したがる人は少なくない。数年前、韓国の某有名大学教授を勤める知人が、「恥ずかしながら齢五十を過ぎて登壇した」と詩集を送ってきた。名の知れない詩誌で推薦されたらしかったが、詩があまりにヘタで返事を書く気にもなれなかった。
『ライティングクラブ』は、都市の片隅で文章を書き続ける平凡な人たちの物語だ。主人公の少女の母親は、綴(つづ)り方教室を経営して生計を立てるシングルマザーで、ろくな経歴もないくせに、作家然とふるまっている。彼女の教室に集まる大人たちの書く文章も、クズ同然だ。「私」は、時には恋敵にもなる、母性の希薄な母を「キム作家」(韓国ではこんな呼称が使われる)と呼ぶことで、その距離感を表す。しかし「私」もまた、小説家になりたいと願っている。それは家庭環境にも容姿にも恵まれない少女がちゃんとした小説家として名を上げ、母や社会を見返してやりたいという気持ちから来る強迫観念のようだ。
男にもてない「私」は、同性愛の恋人と同じ本を読んで語り合い、後にダメ男と同棲したりもする。高校卒業後は職業を転々としながら小説を書こうとするが、何をどう書けばいいのかわからない。やがて結婚してアメリカに渡った「私」は、離婚した後にネイルアーティストとして働きながら、在米同胞のライティングクラブを結成する。そこでさまざまな経歴を持つ人々が、自分の思いを書き表したいと切実に願っていることを知った「私」は、登壇を目的としない、書くという行為自体の意味に気づき、母を見直すようになる。
シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』など「私」が読む本からの引用が随所に挿入され、読書体験を通じて主人公が成長するようすも描いている。書くことの意味と同時に、読むことの意味も問いかける作品だ。
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