ペルーにおける監獄の状況


以下は、
THE HUMAN RIGHTS WATCH GLOBAL REPORT ON PRISONS
copyright June 1993 by *Human Rights Watch の中のPERUの項目からの抄訳(CPR事務局による仮訳)です。
(原本は、上記のタイトルで、ISBN 1-56432-101-0)


目次

【序】

 ヒューマンライツウォッチは、リマのLurigancho刑務所を1990年に、Chorrillosの Santa Monica女子刑務所を1987年と1992年の5月と7月に、そしてCanto Grandeの最 重要刑事施設(the maximum-security facility)を1987年に訪問した。1993年に、ペ ルー政府が国際団体に拘置施設の見学を許可すると公表したのを受けて、Punoにある 新しい刑務所の見学を申し入れたが、断られた。以来、何度もの要請にも関わらず、 ペルー政府はわれわれの訪問を受け入れていない。

 ペルーの*刑務所には多くの問題がある。食料、薬品、水などの不足は生命を脅か すほどだし、マットレスや毛布といった最低限必要な品物も極度に足りない。その結 果、結核やコレラなどの伝染病の危険も小さくない。看守と囚人の間に流血が絶えず 、ときには集団的な殺害もおこっている。囚人同士の暴行事件も発生している。汚職 が蔓延し、貧困な囚人は法的な支援がまったく受けられない状態にある。警察や看守 による拷問もしばしば報告されている。精神病患者の取り扱いは残虐で非人道的(cru el and inhumane)である。社会復帰のためのプログラムはほとんどなく、運動や家族 との面会、医療へのアクセスは厳しく制限されている。
 反逆罪(the Treason Law)に問われた人々は、軍の基地内に収容されている。
   刑務所は、ペルー国家警察(Nationa Police)の一部である保安警察(Security Poli ce)によって警護されている。

【未決拘禁】

 保安部隊(the security forces)も、しばしば大量逮捕を行っているが、たとえば 身分証明書の不携帯というような、直接には犯罪とならないような場合にまで逮捕拘 禁を行っている。法に従えば、これらの被逮捕者は24時間以内に裁判官による(釈放 か拘留続行かの)決定を受けなければならないことになっているが、実際にはどこか 場所もはっきりしない拘置所に入れられ、「消失」してしまうことがしばしばである 。これは、警察、軍の双方が関与している。
 こうした環境下で、しばしば拷問が行われるのは怪しむにたりない。激しい殴打、 手・顔・性器への電気ショック、強姦、汚水の中につけて窒息させる("the submarin e")後ろ手にしばってつるす、睡眠・食事・水を取り上げる、殺すと脅したり、家族 を脅迫する、といったことが行われている。
 首都リマでは、反逆罪以外の罪に問われた囚人は、"La Carceleta"と呼ばれる司法 省の建物(Palace of Justice)の地下に入れられ、反逆罪に問われた人たちは軍の留 置所に移送される。"La Carceleta"の収容定員は300名だが、過剰拘禁は日常的に行 われている。運動も十分な食事も与えられないまま、ここで裁判を待っている。何人 かの囚人がヒューマンライツウォッチに語ったところによれば、食事や衣服を家族か ら差し入れてもらうためには、看守に賄賂を渡す必要がある。
 リマ以外の所には、このような未決拘禁施設はなく、裁判官による、釈放か正式な 逮捕かの決定を待つ間は、警察の留置所に入れられる。
 検察が求刑したり、裁判官が言い渡したりできる刑期よりも未決拘禁のほうが長期 にわたることもめずらしくない。

【生活環境】

 過剰拘禁が、ペルーの刑務所でのもっとも大きな問題の一つである。109カ所ある 稼働施設のうちの25カ所に、69パーセントの囚人が収容されている。そのほとんどは リマにある。Lurigancho刑務所は、1200の定員にたいして、1991年には、少なくとも 5000名が入れられていた。Miguel Castro Castro (Canto Grande)刑務所は、800人の 収容能力しかないのに、2500名も収容されている。1992年8月の調査では、Santa Mo nica女子刑務所は230名の定員にたいして650名の収容が確認されている。
 ヒューマンライツウォッチは、現在建設中もしくは完成した3カ所の新しい刑務所 の存在に気づいている。これらはいずれもテロおよび反逆罪に問われた囚人用のもの である。Santa Monica女子刑務所では、1992年の半ばまでに、テロリスト容疑の未決 ・既決囚のための新しい監房棟が完成している。Callao海軍基地も、武装グループの リーダーの収容に使用されている。PunoにあるYanamayo刑務所の近くにも、新しい施 設が建設されつつある。(テロ容疑者、反逆罪容疑者以外の)一般の囚人の収容施設 に関しては、われわれの知る限りでは新しい施設の建設はない。

【収容者の分類】

 ペルーの法律によれば、囚人は、以下のような分類によって、別々に収容されなけ ればならないことになっている。すなわち、男と女、未決囚と服役囚、初犯者と累犯 者、21歳未満と成人。しかし、実際はこの規定は有名無実化している。たとえばCast ro Castro刑務所やAyacucho刑務所では、男女がしばしば一緒に収容されている。Chi clayo's Picci刑務所では、未決囚が、既決の累犯者と一緒に収容されている。未成 年も、しばしば成人と同じ区画に入れられ、同じように処遇されている。
 ペルー憲法233条には「刑事施設に拘禁されるものは、健康で適切な処遇を受ける 」と明記されているが、それが実行されている例は見られない。しばしば、囚人がど んな取り扱いを受けるかは、どれだけ賄賂をわたせるかにかかっている。規定以上の 食事、テレビ、電話、調理、身辺警護等々の特権をうるためには賄賂が必要である。 こんな金のない人たち、農民とか貧しい犯罪者とか都市貧民とか精神障害者などは、 生命すら保証されない状況下におかれている。

【食事】

 食料の極度の不足も深刻な問題である。Lurigancho刑務所では、過剰拘禁は、その まま食料と水の慢性的不足および、おびただしい数の死を意味している。餓死した囚 人の例がいくつも報告されている。長年にわたり、貧困な囚人達は、"La Pampa" と 呼ばれるオープンエリアで生活してきた。1990年に、その"La Pampa"を訪ねた記者に よると、一日の食事として囚人が与えられていたのは、8グラムの米と2切れのパン だけだった。それでは足りないので、囚人達は犬などの動物を捕まえたり、ゴミをあ さったりしていた。

【日常活動】

 教育や労働の機会はほとんど与えられていない。作業所や教育施設は、無いに等し い。作業用に寄付された機械などが、おそらく看守達が売り払うためと思われるが、 消えて無くなることがしばしばある。
 ヒューマンライツウォッチの受けている報告によれば、Lurigancho刑務所では、「 1987年以来、、看守達は外に持ち出せるものなら何でも奪って売り払っており、刑務 所の工場区画にあった作業所は、解体状態にある」さらに、警察官による強奪の例も ある、と報告されている。
 収容者が、自分たちで藁などを使った民芸品を作り、家族の面会の機会を利用して それを売り、わずかな収入を得ている例もある。

【懲罰】

 略

【外部交通】

 略

【女性】

 女性用の刑務所は、リマ、Chiclayo、Cuzco、Arequipa、Tacna、Punoの6カ所にあ る。他の刑務所にも、女性区がある。
 報道によれば、女性刑務所における、保安警察によるセクシュアル・ハラスメント 、性的暴力、強姦が多発している。いくつかの例では、食事、電話、禁止されている 酒類やドラッグとひきかえに、性的奉仕を強要される場合もある。
 ヒューマンライツウォッチは、警察の拘留施設における強姦が、しばしば女性への 拷問として行われていることをレポートしてきた。こうした強姦は、警官達が、犠牲 者にたいして、衣服を着替えさせたりシャワーを使わせることで証拠隠滅をはかるの で、証明することが困難な場合が多い。警官達が刑事訴追を受ける例は、きわめて稀 である。
 法によれば、母親である囚人は3歳までの子どもといっしょにいることができると 定めているが、これも実際は名目だけのものとなっている。

【公安関係の囚人】

 反テロリズム法および反逆罪に問われた囚人は、他の囚人とは明確に異なる処遇を 受けている。一般囚も、ひどい扱いを受けているとはいえ、それはサボタージュや管 理の不手際や汚職によってもたらされたものであって、法で定められているわけでは ない。これと反対に、反テロリズム法および反逆罪に関しては、ひどい処遇は、法に よって定められたものである。
 一例をあげると、公安関係の容疑者(suspects in security-related crimes)は、 判事の前に連れて行かれるまでに、最大15日間、警察によって拘禁できる。判事が同 意すれば、さらに30日間、警察での拘禁が認められる。こうした状況では、拷問は日 常的に行われている。この間、弁護士とも家族とも面会は一切許されない。
 この拘禁期間の後、容疑者はしばしば縞模様の囚人服を着せられて、まだ裁判官の 前に行ってもおらず、正式な起訴もされておらず、弁護士との面会の機会も与えられ ないまま、「まぎれもない破壊活動家」として記者会見にのぞまされる。
 有罪判決を受けた者も、囚人服で記者会見させられる。これは屈辱を与えるために 企画されたものである。一般の囚人の場合には、こうしたことは行われていない。
   「輝ける道」のリーダーとして有罪判決を受けたAbimael Guzmanは、こういう服装 で、動物用の檻に入れ、2度にわたって報道関係者の前に引き出された。
    反テロリズム法と反逆罪に関する法律の規定によれば、容疑の内容いかんに関わら ず、すべての容疑者にたいして裁判前の拘禁を認めており、人身保護(habeas corpus )の適用またはamparo(私には意味不明--訳者)の権利は、裁判が終了するまで許され ない。この結果、証拠の不十分な、あるいはまったく証拠すらない人たちまで相当数 収容され、新しい刑務所の収容者数は跳ね上がっている。こうした中には、15歳の容 疑者もいる。
 テロリズムの容疑者あるいは確定囚は、とくに厳しい拘禁状態におかれる。刑務所 規則によれば、食事の配給は、朝は2切れのパンとお茶またはスープとなっており、 一日分は、これ以外には、小麦のシチューか米と野菜および、わずかの肉ということ になっている。この貧弱な食事を補うための、家族からの差し入れは厳しく制限され ている。
 1992年11月にアムネスティー・インターナショナルが行った緊急行動によればテロ 事犯としてSanta Monica刑務所に入れられていた女性とCastro Castro刑務所の男性 は、一日に一回しか食事を与えられず、ラジオも読み物も筆記用具も一切禁じられて いた。一日24時間監房から出ることができず、何ヶ月もすごさざるをえなかった。報 道によれば、Callao海軍基地では、ゲリラ・リーダーのために一切自然光のささない 特別の監房を地下に作った。
 5月にSanta Monica刑務所を視察したわれわれのミッションは、数週間前におこっ た刑務所の騒動(the prison disturbances)以来、女性の囚人達が家族の面会を禁じ られ、外部からの衣服、食料、医療品の差し入れを受けられずにいるのを見いだした 。彼女たちは、誰も弁護士との面会を許された者はいなかった。
 Castro Castroでの水の不足はしばしば深刻である。数日間にわたって水を少しず つためて、ようやく洗濯をしている。
 医療を受けることも厳しく制限されている。心臓に持病のあるテロ事犯の囚人は、 医者に会うまで2ヶ月待たされた、と報告している。あげくに、医者は、テロ犯の治 療をすると、自分もテロ協力者と見なされて逮捕される恐れがあるので、これ以上の 診療は断る、と彼に告げた。
 Santa Monicaでは、夜中に頭巾をかぶった男達が、屈辱的な言葉を浴びせながら女 性の囚人達を襲撃し、持ち物や食料を奪ったり、暴力を振るったりしている、と収容 者の女性が訴えている。
 面会の際にも、テロと反逆罪事犯については、特別な規則が設けられている。テロ 事犯については、一月に一度30分、直系の親族が2名だけ会うことができる。だが、 実際に面会した人の話によれば、保安のチェックを通り抜けたり、囚人が面会場所に 来るのを待っている時間をのぞけば、15分足らずしか、実質的な面会時間はない。面 会室では、二重のガラスで囚人と隔てられているので、大声を出さないと互いに聞こ えず、また一つの部屋に二人の囚人が入れられるので、話はつつぬけで、プライバシ ーはありえない。
 反逆罪で、起訴または有罪となった者は、一年間、完全な独房に入れられ、面会も 認められない。しかし、その期間を過ぎた場合に、どうなるのかも明らかではない。  明らかに、政治犯への強硬政策の一貫として、1992年の7月、ペルー司法省は、定 期的に政治犯を訪問している国際赤十字との接触についても、新しい条件をつけ始め 、9月までには、国際赤十字の権限は新しい規制によって奪われてしまった。国際的 な大きな非難をあびて1993年に再開されるまで、国際赤十字による囚人の訪問は行え なかった。
 ヒューマンライツウォッチも、1992年にSanta MonicaとAyacuchoの収容施設を視察 して以降は、今日まで刑務所へのアクセスを拒絶されつづけている。

【暴力】

 ペルーでは、記録上もっとも悲惨な流血の刑務所暴動がおこっている。1985年に、 Lurigancho刑務所の「輝ける道」に属する囚人達は2度にわたって暴動を起こし、人 質を取って要求項目を示した。この暴動は悲劇を引き起こした。
 1986年6月18日、「輝ける道」の囚人達は、EL Fronton島のLurigancho刑務所と、 CallaoのSanta Barbara女性刑務所で、計画された蜂起を起こした。当時のAlan Garc ia大統領は、力でもって応えた。戦争状態を宣言し、軍隊を導入した。判事も検事も 刑務所当局者も、さらに政府の平和委員会のメンバーも、これらの刑務所へのアクセ スを妨害され、平和解決のためのネゴシエーションさえ許されなかった。4人の看守 が、囚人によって殺害された。暴動は一日で鎮圧された。Santa Barbaraではいち早 く制圧され、2名の囚人が死亡した。Luriganchoでは、約20名の囚人が暴動の中で殺 され、110名以上が、降伏した後、殺害された。囚人や人質がまだ中にいるのに、軍 隊は爆薬で建物を破壊した。生きたまま降伏した者も、軍に連れ去られて、その後行 方が分からない者も多い。
 死者の総数は200を越えると見られる。

 フジモリ大統領が1992年4月5日に*議会と裁判所から権力を奪ってから最大の悲劇 は、5月6日に始まり、4日間つづいたCastro Castro刑務所の騒動である。この厳 重な警備の施設の収容者のほとんどは、ペルーの二つのゲリラ組織、ペルー共産党「 輝ける道」とトゥパク・アマル革命運動(MRTA)のメンバーとみなされていた。5月6 日、保安部隊が何人かの女性収容者を新しい刑務所に移送するためにやってきた。彼 女たちは抵抗し、男の囚人も数人がそれに加わった。3人の警官と10人の囚人が殺害 された。政府は、第三者機関の仲裁を拒み、5月10日に、正面攻撃をかけた。39名の 囚人が死亡し、多くが負傷した。政府は、いっさいの過剰攻撃はなかった、と発表し ているが、ヒューマンライツウォッチは、少なくとも行きすぎた攻撃があったと信じ るに足る証拠をもっており、いく人かの囚人は、降伏した後に、処刑されたと確信す る証拠をもっている。このレポートを書いている時点では、いかなる内部調査の結果 も公表されておらず、また外部機関による調査の機会も与えられていない。

  ----------抄訳 終わり---------

*注 Human Rights Watch ヒューマンライツウォッチ
 1987年、アフリカ、南北アメリカ、アジア、中近東において、人権の国際基準が守 られているかどうかを監視し、その遵守を促進する目的で、ヘルシンキ協定の締約国 によって設立された国際人権NGOです。いくつかのセクションをもっていますが、こ のレポートをまとめたPRISON PROJECTは、国際基準に満たない世界中の刑事施設の状 況についてレポートし、その克服に努力するために、1988年に作られました。
 1995年には、日本の刑事拘禁施設の状況を視察に訪れましたが、他の国々では可能 であった、囚人との(当局者の)立ち会いなしのインタビューや、施設内で制限を設 けずにどの場所でも見ることができる、といった視察方法について法務省が厳しい制 限をしようとしたため、抗議の意志表示をして視察を途中で取りやめた経緯がありま す。このときのレポートは「監獄における人権/日本 1995年」(現代人文社 1545円  ISBN 4-906531-02-4)として刊行されています。

*注 原文では、未決拘禁施設(detention center)と刑確定者が服役する刑務所をあ わせてprisonという同一の用語で語っている部分があります。日本語では刑務所は後 者の意味で、前者は拘置所ですが、prisonの訳語として、区別せずに刑務所と訳した 部分もあります。

*注 フジモリ大統領は、このとき憲法を停止する措置をとった。現在は解除されている。