死刑執行に抗議する

 95年12月21日、宮澤弘法相(当時)の命令により、3名の死刑囚が執行された。村山政権(当時)は合計8名の死刑囚の生命を奪ったことになる。言葉にならない怒りと悔しさで、胸が詰まる。死刑制度は 誰の救いにもならないことを多くの人に知らせたい。そして、一日も早い死刑廃止に向けて努力したいと 思う。
名古屋拘置所で執行された木村修治さんの支援を粘り強く続けてこられた対馬さんより報告していただ いた。(編集部)

嗚呼、刑務官


対馬 滋(木村修治さん救援会議)


 95年も押し迫った12月21日、東京、名古屋、福岡の3カ所の拘置所で「死刑」が執行された。
 わたしは87年に死刑が確定した、木村修治さんの救援を続けてきた。彼の死刑が確定して8年、次に執行があれば彼の可能性は高い。救援会は、夏頃から可能な限りの手段で執行を食い止めようとした。恩赦請求の補充書を毎月出し続ける、助命嘆願署名、法務大臣への直訴(これは実現できなかったが、母親が心情を訴えた手紙は法務大臣に届けられた)……。 しかし、彼への執行を止めることはできなかった。

親切だった刑務官が…

 葬儀の場で、彼の義姉・日方ヒロコが声を振り絞りながら、当日の模様を話した。その日の朝、彼女と母親は連れだって面会に行った。待合室で、いつもより長めに待たされたふたりは、面会担当の刑務官に呼ばれた。
「いまちょっと立て込んでいるので、午後に来て欲しい」
「午後に来たら会えるんですか」
 日方も執行の可能性を知っている。ちらりと不安がよぎった。
「はい、会えます」
 刑務官の言葉を頼みに、ふたりは修治さんが受洗した「聖マルコ教会」で午後の面会時間を待つことにした。
 木村修治さんの死亡時刻は、午前9時31分。この時、彼はすでに事切れていた。
「午後に来たら会えるっていった刑務官の人は、お母さんにもとっても優しくしてくれた人なんです。お母さんの具合が悪くって面会になかなか来れなかったときなんか、本当に心配してくれて、元気になったお母さんが来ると、『よかったね』と声をかけてくれる、そんな人だったんです。
 その刑務官に、あんなむごい嘘を言わせた。修治さんは殺されているのに、午後に来たら会えるって……。」

最敬礼

 わたしは、母親に付き添って修治さんの遺品を引き取った。段ボール箱14箱。それが、彼の「獄中15年」のすべてだった。引き取りには、加藤毅弁護士も立ち会った。
 刑務官は、遺品の段ボール箱を指差し、言った。
「ここにすべて入っています」
 そして、受取証に署名を求めた。
「領置品の目録を見せて欲しい。間違いがないか確認するには、目録がなければできない」  加藤弁護士が要求した。94年に東京で執行されたAさんのケースがわたしの頭にあった。引き渡された遺品を改めると、ノートが何冊か無くなっていたというのだ。弁護士に立ち会いを求めたのは、こうしたトラブルを予想していたからだった。
「お見せできません」
 刑務官の答えは予想通りだ。加藤とわたしは、中身の確認をするのが当然であること、確認できないなら受取証に署名は出来ないと、交互に詰問した。むろん、刑務官の答えが変わるとは思っていない。だが、筋道だけは通しておかねばならない。
 受取証に「領置品目録との照合はしていない」と書き加えることで、決着させた。このあと加藤は別室に招かれ、修治さんが書き残した弁護士宛の遺書を手渡された。刑務官は、加藤に「おっしゃることはその通りです。でも、お見せすることはできません。申し訳ありません」と詫びたという。
 わたしは、二度とここに来ることはない母親の手を取り、ゆっくりと玄関を出た。背後で、10名ほどの刑務官が、最敬礼をして母親を見送った。

彼からの年賀状

 1月15日。救援会は遺品を改めた。書籍の目録を作り、段ボールごとに収納されていた品目をすべて記録した。その中に、96年の年賀状が10枚あった。弁護士、民事訴訟の共同原告宛だった。拘置所の検閲済みを示す「さくら」マークも捺されていた。

「謹んで新春の御祝詞を申しあげます
 皆様に支えられて新しい年を迎えられたことに感謝し新たな日々に向き合っていきたいと思っています。
 本年も宜しく御願い申しあげます。
            1996年1月1日