京都刑務所における受刑者に対する凌虐

若松芳也(京都弁護士会)


一、はじめに

刑務所内における刑務官による受刑者に対する虐待、凌虐の行為は、洋の東西を問わず、監獄制度が創設されて以来現在に至るまで受刑者によって報告されているところである。
自由な市民社会の経済的文化的な生活が発展向上している先進国においても、全く進化のない封建的な懲罰的処遇を維持している刑務所の中の旧態依然たる受刑者の生活は、極めて異様というほかない。日本の監獄の中は、文明から取り残された唯一の未開地の異常な空間というべきところである。そこには形式的法律はあるが、法律は常識的な機能を発揮するところではなく、刑務官の権力のみが絶対的な威力を以って圧政というほかない受刑者に対する統治がなされている。これが受刑者の処遇に関する二件の国家賠償請求事件を闘っている私の率直な感想である。そして、訴訟の現場では、刑務所において殴る蹴る等の凌虐を受けたと訴える悲痛な受刑者の供述と、その様な凌虐は存在しないと否認する刑務官の空疎な証言との図式のような対立が、空中戦の如く展開されているのである。私が担当している二件の受刑者の国家賠償請求事件は次のようなものである。

二、受刑者Aの例は次のとおりである。

1、Aは、平成3年9月4日午前10時頃、受刑者用「しおり」を居房において一人で読んでいると、刑務官が「こら、出てこい」と叫んで、いきなり居房の中に入って来て、Aを居房の外へ引っ張り出し、保安課の通称「ビックリ箱」にAを閉じ込めて、数人の刑務官が足蹴りしたり、ファイルで頭部を殴ったりした。
2、Aは、平成3年11月3日頃の午前中、軽屏禁のため居房に座っていると、刑務官より目が動いたと因縁をつけられて、動いていないと弁明すると、いきなり、保安課に連行され二人の刑務官から頭部をファイルで殴られたり、平手で殴られたりした。
3、Aは、平成4年6月2日午後3時頃、室内体操の時間中に、体操しないでいると、保安課に連行されて、そこでビックリ箱に閉じ込められ、数人の刑務官がAの腹部を安全靴で蹴り上げたり、ファイルで右側頭部を殴ったり、さらに手拳で殴る足で蹴る等の暴行を受けたうえ、更に取調室に入れられ、Aが弁明していると、突然10人位の刑務官が集まって来て、いきなりAを床面に倒して、頭を安全靴で踏んで押さえつけ、胴体、腰部、両下肢をこもごも踏んだり、足蹴りしたりした。
その後、なんら抵抗していないのにAをうつ伏せに床に寝かせて、両手を背後に回して結ぶようにして皮手錠をかけ、強烈にしめつけて息苦しくなるほど胴体を圧迫して拘束した。そしてAは保護房に連行され放置されたが、息苦しいので足を伸ばしていると、中央に引きずり出された。Aが保護房に収容されてから、二人の刑務官が保護房に食事を持参して入室した際、約10分間にわたりAの両頬を平手で何回も殴り、床面に転ぶと足で蹴る等の暴行を執拗に加えた。
その後、右二人の刑務官は、6月5日までの4日間にわたり、巡視や食事の時となると、右と同様の殴る蹴るの暴行を加えた。Aは保護房から出た6月7日まで食事をしていない。 Aは6月7日までは大便をしていなかったが、6月4日の食事時間以降股サキのズボンをはかされたために排尿はできていた。6月6〜7日は右二人の刑務官が欠勤していたため暴行はなかった。
Aは、皮手錠で背後に両手を固定されたまま、6月2日より7日まで保護房に収容され、全く無抵抗の状態におかれたままで、前記刑務官らに執拗に暴行凌虐を受け、徹底的に愚弄され、用便・食事も満足にできずに放置された。 本件は1993年4月26日に訴訟を提起したが、現在もなお、Aの両手は感覚を失って冷たくなっており、腰部腹部に皮手錠による傷跡が残っている。

三、受刑者Bの例は次のとおりである。

1、Bは、平成4年5月14日午後1時頃、新入者教育の際、刑務官より「どこの組か」と聞かれたので「N組の者だ」と答えると、その刑務官は、「N組の者と思って偉そうにさらすなよ」と語気鋭く言い、続いて他の刑務官は直立しているBに対し、背後から突然、両下肢を二回足蹴りした。
2、Bは5月18日午前9時過ぎ頃、行動訓練のため居房より廊下に出て数歩行進したところ、刑務官より「手を高くあげりゃええもんと違うぞ、そこへ立っておけ」と怒号された。Bがその場の廊下に直立不動の姿勢で立っていると、間もなく、他の刑務官が現場に来て「こっちへ来い」と怒号して、胸ぐらをつかんで近くの担当台までBを引っ張って移動しつつ、いきなり足払いをかけて廊下に転倒させた。Bがすぐに起き上がって刑務官の方に向かって立ったところ、非常ベルが鳴らされて、直ちに警備保安要員が十数名現場に参集して、Bを廊下に倒して殴る蹴るの暴行を加えて痛めつけたうえ、両腕を背後にまわしてねじ上げ、押さえつけたまま保安課の部屋まで連行した。
右刑務官らは、その部屋において、Bがなんら暴行的言動に及んでいないのに、Bを台の上にうつ伏せに寝かせて、両手を背後に回して結ぶように金属手錠をしたうえに皮手錠をかけ、強烈にしめつけて息苦しくなる程胴体を圧迫して、固くBを拘束した。そしてBは保護房に収容された。
保護房に収容されて間もなく、二人の刑務官が保護房に入室し、皮手錠をされて正座しているBに対して、「こら、このアホ」と怒号しながら、こもごも約10分間にわたり両頬を手拳で約50回も殴り、床面に転ぶと足で蹴る等の暴行を執拗に加えた。同じ5月18日午後2時にも右両名より同様の暴行を受けた。
3、5月19日午前10時頃、Bが皮手錠をされたまま正座をしていると、右刑務官両名は保護房に入室して、全く同様の殴る蹴るの暴行を加えたうえ、さらに便器のふちにBの顔面をこすりつけたり、靴で踏みつけたりして「殺したろうか」と脅迫した。
その後、さらに保安課長も加わりBの皮手錠のベルト部分を背後から何回も持ち上げてゆすったため、Bは糞尿を失禁した。同日午後2時頃においても、Bは右同様の暴行を受けた。
4、5月20日午前10時頃、Bは右刑務官両名より前記同様の執拗な殴る蹴るの暴行を受けた。
5、Bは、皮手錠で背後に両手を固定され、ダルマの如くされたまま、5月18日より5月20日まで保護房に収容され、全く無抵抗の状態で前記刑務官らに執拗に暴行凌虐を受け、Aと同様に、徹底的に愚弄され、用便・食事も満足にできずに失禁しても放置されて一睡もできなかった。
このような状態で、1993年4月1日に提訴に踏み切った。現在においても右足の指が感覚を失って冷たくなっており、腰部腹部に皮手錠による傷跡が残っている。

四、訴訟のなかで

本件では、国際人権法・憲法・監獄法等に照らして保護房収容自体の違法性、特にその収容の方法と程度、に違法性が無いかどうか、を主要な論点としている。しかし、その前提として大きな障害物の如く、主張事実の存否の問題がそびえ立っているのである。
前記ABの例は、それぞれ本人の供述に基づくものである。決して悪夢ではない。これに対してABに暴行したとされている二人の刑務官は、法刑者に対する暴行の事実は全くなく、受刑者が勝手に暴行されたと言っているだけだと断言している。皮手錠によるABの腰部の生々しい傷跡については、見てもおらず、知らない、と刑務官はウソぶくのである。
すべては、保護房という密室の中での出来事である。刑務官以外の目撃者はいるはずもない。徹底的に否認すれば暴行の事実は証明されることはない、と刑務所側は確信しているのであろう。
保護房内に収容されたABの動静は15分ごとに観察されている。視察表には、いかにも悪態をついて反抗していた如く記録されている。その記録たるや、AB本人の説明とは余りにも食い違っており、虚偽文書としか思われないものである。
訴訟はすでに証拠調べが終了し、最終準備書面作成の段階になっている。

五、おわりに

刑務所内での凌虐と、裁判所での組織的な事実隠蔽。しかも裁判所の事実認定には決して期待できたものではない。しかし、以上のような実情が日本の刑務所であるということは、冷静に受け止める必要がある。正に、日本の刑務所は、憲法前文が最も嫌悪している「専制と隷従、圧迫と偏狭」に充ちた世界というべきである。
本件訴訟には、刑務所という場においても最低限度の人権を保障させること、そのことを刑務所と裁判所に知らせるという意義があるであろう。今後も受刑者処遇の改善に取り組んでいきたいと思う。
(この項了)