日本の刑務所を訪問して考えたこと

ロド・モーガン


多 くのセミナーに出席するなど日本での多忙な日程をこなして帰国されたロド・モーガン教授がCPR宛に新潟での警察署・刑務所訪問の感想を寄せて下さいましたので、あわせてご紹介します。(編集部)


私は多くの国の刑事手続と刑務所の状態に関して、訪問し、研究し、書いてきましたが、ほんの数日間日本に滞在し、一つの警察署と一つの刑務所を少し訪問したくらいではあまり多くのことを言う資格はないでしょう。更に、私が受けた大変なもてなしを悪く言うようなことはしたくありません。私を招待しすべてを見せてくれた日本の警察と刑務所当局に対し、本当に感謝しています。それゆえ、以下はほんの第一印象に過ぎません。この報告がみなさんに興味をもっていただけるかどうかは、私にはわかりません。

1.日本の刑事司法制度は著しく「閉じた」制度で国際的にも比較的孤立しているように見えます。新潟刑務所において、私は外国人で最初の訪問者であり、私の会った幹部職員の誰一人海外の刑務所を訪れたことがないと聞かされました。警察も同様に訪問者はいないということでした。私の経験ではこのことは珍しいことです。ほとんどの工業先進諸国では、刑事司法の施設間や幹部の間での国際的な交流の経験が豊富です。

2.日本の職員は、政策のどんな側面についても自分の意見を述べるのを著しく渋ります。もちろん、ほとんどの国のほとんどの公務員は用心深く、信用の置けない外部の者に対しては特にそうです。しかし、私が日本で出会った用心深さは特別なもので、それは、創造的な自己の裁量権の行使よりも、服従と追従が公的部門で最も重要なものであることを示していました。例えば、幹部職員の中で、警察官による被疑者の取調を録音するということを、考えたことがあるかどうかはもちろん、日本で議論されているかについてさえ教えてくれる者はいませんでした。また、必要な需要を満たすにたる資金を配分されていると思うかどうかについても何も言おうとしませんでした。私は、いかなる国でも、この質問について意見を表明するのを断る警察官にこれまで出会ったことがありません。

3.人権という言葉は、日本においては、彼らの良識を否定し、公務の信頼性を揺るがすように用いられているようです。例えば、新潟にいるとき、私は、滞在先から1キロもない都会の忙しい警察署に連れていかれるのではなく、内陸部に車で約2時間かけて、被疑者がほとんど収容されることのない、小さな新築の警察署に案内されました。理由はなんでしょう?現に被疑者が留置されている警察署に私を連れていくことは、被疑者の人権を侵害してしまうからだと私は言われました。無罪の推定は、私が被疑者をちらっとでも見てはならないということを意味していたのでした。同じことは、新潟刑務所の拘置棟を見せない理由としても言われました。関係する被拘禁者が私と会うことを望むかどうか尋ねて欲しいという私の提案は無視されました。

 日本の役人が、なぜ海外から学ぶものはほとんどないという見解をとるのか私は理解しました。彼らは、先進工業社会の中でも最も低い犯罪発生率を有する社会で働いています。日本は秩序のある社会で、日本の人々は多くの西洋社会を荒廃させる犯罪の恐怖から賞賛に値するほど自由です。日本の刑務所は驚くほど安全で混乱もない。このように、日本の市民は日本の警察署内の被疑者が直面しているプレッシャーや、日本の被拘禁者が直面している不自由にほとんど共感を抱いていないのかもしれません。西洋社会とは違って「神の恩寵がなければ私もあんな風になっているでしょう」とは考えないのかもしれません。むしろ彼らは、被疑者や被拘禁者を、何であれ彼らが直面するものを甘んじて受けてしかるべき小さく、危険な、異世界の少数者と考えているのかもしれません。

 それでも、私は新潟刑務所の作業場内の受刑者を見た時は本当に驚きました。彼らは、決して話そうとも、自分の作業から振り向いたり、目を上げたりしませんでした。それは、私を含めた訪問者たちがまるで存在しないかのようでした。彼らは、人間性のない作業場のロボットのようでした。この全面的統制は、釈放後にも法を守る行動を促進する、人々が成果と考えるものなのでしょうか。しかし、そうではない、と私は聞かされました。被拘禁者の平均年齢は45歳で、彼らの典型的な者は既に4回の刑期を過ごしている者でした。更に、60%以上が釈放されても刑務所に戻ってきます。日本においても、他の国と同様、拘禁はうまく機能していないようです。このことが日本の刑務所制度の非人間性をより一層ひどいものにしています。

ロド・モーガン
ブリストル大学法学部
1995年9月25日