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生ける屍を強いられる死刑囚処遇の実態

対 馬 滋(『本当の自分を生きたい。』出版妨害訴訟応援団)


<出版妨害訴訟とは?>

 原告の1人木村修治氏は、多額の借金返済に困り、1980年に女子大生を誘拐・殺害、87年8月に死刑が確定した。死刑囚の外部交通権が、憲法に違反し著しく制限されていることは知られているが、木村氏の場合、母親、義姉、叔父、弁護士、そして民訴の共同原告(今のところ面会できているのは名古屋拘置所のみ)が面会・文通の相手で、孤独な生活を強いられている。
 木村氏は、上告審判決が出る数カ月前から、自らが犯した罪を見つめ直す作業を始めた。それは、自らの出自=被差別部落民であることを隠しながら生きてきた人生と、真正面から向き合うことであった。獄中の孤独な作業は2年間続き、400字詰め原稿用紙約1700枚にもなる「半生記」が書き上げられた。出版妨害は、この「半生記」の単行本化の際に起こった。木村さんと出版の打ち合わせをしようとした編集者とあとがき執筆者が、面会を不許可とされたのである。長大な原稿を大幅に削除しなければならないこと、仮名を使用したりすることなど、出版するには著者と直接意見交換しなければならないことがたくさんある。それが妨害にあい、できなかったのである。
 手記は95年1月、著者の同意はあるものの、内容の最終確認を得ることができないまま、『本当の自分を生きたい。』と題してインパクト出版会から発行された。と同時に、木村氏、編集者、あとがき執筆者の3者が名古屋拘置所を相手取って起こしたのが、出版妨害訴訟である。

<厳しい交通権訴訟現場>

 確定死刑囚による処遇をめぐる訴訟に対し、近年、被告である国、そして裁く裁判所の姿勢は、国際基準からますます後退の一途をたどっている。
 信書の発受制限について、東京地裁89年5月31日判決は、「刑の執行までの待機期間として精神状態の安定については特段の配慮を行うべきものであるから、面会の許否を決するに当たっては、刻々変化しうべき死刑確定者の動静及び心理状態を具体的に把握し、面会の必要性とこれを許すこと又は許さないことによって生ずる不利益を適正に総合勘案することが必要であるといわなければならない」(「判例時報」1320号)と、心情の安定との比較衡量を判断基準としていた。だからこそ、心情の安定とは何かが確定者処遇をめぐり争われていたのである。
 その大元となっているのがいわゆる63年矯正局長通達だが、通達は、<1>本人の身柄の確保を阻害し又は社会一般に不安の念を抱かせるおそれのある場合、<2>本人の心情の安定を害するおそれのある場合、<3>その他施設の管理運営上支障を生ずる場合は、不許可とするのが相当、としているにすぎない。そのため、これまで訴訟で交通権問題が争われたケースでは、そもそも通達自体がおかしいのだが、仮に通達を認めたとしても、心情の安定が損なわれることなどありえなかったから制限は誤りである、といった争い方がなされてきた。制限が適法だったかどうか、が争点になったのである。
 それが、ここ1、2年の判例を見ると、さらに「ひどく」なっている。まず、死刑囚の拘禁目的は、執行までの身柄の確保と「(確定者に)対する一般人の感情を慮(おもんぱか)って、被拘禁者を社会から隔離することを目的とする」(東京地裁93年7月30日、「判例タイムス」841号)などと判示されている。通達の<1>と比較しても、さらに踏み込んだ判断がされている。これを受けて国は、(確定死刑囚を)社会から「厳格に」隔離する、と本件訴訟では主張するに至っている。これは、死刑確定者はこの世に存在しない者として処遇している、というに等しい。
 この前提に立って、厳格に隔離された存在だが、「特段の恩恵をもって」(とは言ってないが、そう受け取れる)、次の場合は「許可」すると、通達が「不許可」の条件を述べていたのをひっくり返した主張までするようになっており、また、それを裁判所が追認している。
 では「許可」される相手とは誰か。<1>親族、<2>再審弁護人、<3>心情の安定に資すると認められる者、そして<4>権利救済あるいは訴訟準備のための文書の発信、である。この条件に当てはまる者以外は、無条件に不許可としても何らお咎めなし、ということなのである。所長の裁量権も、比較衡量論も、いつの間にかどこかに吹き飛ばされてしまっている。残念ながら、これが現状である。

 紙数がないからひとことで言うが、63年に出された通達が、10年ほど前から運用面でより歪曲され、それを裁判所が追認するようになった背景には、4人の確定死刑囚の「冤罪」が明らかになったことがあるように思われる。メンツを潰された法務当局は、でっち上げがバレたことの反省から、「5人目は出すな」を合言葉に処遇の全面見直しを行った。その結論が、「社会から厳格に隔離すること」だったのではないか。
 機会があれば詳述したいが、93年3月26日の死刑執行再開後、再審請求を準備中、あるいは請求をなぜか取り下げた死刑囚、民訴係争中の死刑囚が執行されたこと、再審請求中の死刑囚と家族との面会が断ち切られていることなど、根拠を挙げればきりがない。
 なぜ、このようにぶざまな国であるのか。それは戦争の反省すらできない、過ちを認めるくらいならウソをつき通すことを美徳とするこの国の文化の反映なのであろうか。だからこそ、死刑囚がどれだけ反省し、過ちを悔い、贖罪したいと願っても、彼らは許すことができないのだ。
 いま、確定死刑囚は、生ける屍の如く扱われながらも、獄中で、懸命に、生きている。

『本当の自分を生きたいー死刑囚・木村修治の手記』
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