「CURE国際会議」報告〜ニューヨーク&ワシントンDCのNGO訪問〜

田 鎖 麻衣子(第二東京弁護士会)


 米国のアフガニスタンに対する戦争が開始される前日の昨年10月6日から11日まで、ニューヨーク市内で米国のNGO、CURE(Citizens United for Rehabilitation of Errants犯罪者の社会復帰のための市民連合)の主催する「人権と監獄改革に関する国際会議」が行われ、CPRから私と海渡雄一さんが参加した。
 CUREは1972年にテキサスで生まれた団体で、カソリックの僧侶だったサリバン夫妻が受刑者の家族を刑務所にバスで送るサービスを始めたのが原点なのだという。1985年には全国組織となり、以後全米各地に広がっている。メンバーは受刑者の家族や元受刑者、宗教関係者などさまざまであり、活動内容も受刑者の社会復帰問題にとどまらず、被害者と加害者との対話などリストラティヴジャスティスの実践、刑務所内の処遇改善のほか、死刑廃止にも熱心に取り組んでいる。今回の会議の大きなテーマは、これまでCUREの活動においてあまり意識されていなかった、国際人権規約や人権関係の諸条約に照らし、刑務所をめぐる現実がどのような状態にあるのかを検証し、そこから今後の活動の方向性を定めるとともに、より国際的なネットワークを強化していこう、というものである。したがって、会議のテーマも、死刑、拷問、女性、人種差別、矯正教育、少年、報道とプライバシー、社会復帰、刑事手続における権利と救済、等々と多岐にわたっており、それぞれのテーマにおいて関連する人権条約につき学び、議論するという形式をとった。また参加者も、南北米大陸やロシアや旧東欧を含む欧州のほか、マラウィ、インド、フィリピンなど世界各国から監獄改革の活動家が集まった。もっとも、9月11日事件の影響で外国からの参加予定者からは相当のキャンセルも出た。この余波で会議初日のオープニングセッションである「自由権規約における監獄改革(死刑を含む)」において報告者の欠員が生じ、幸いにして、私は日本の死刑囚処遇や執行をめぐる諸問題について発表する機会を得ることが出来た。会議参加者の大多数が日本の監獄・死刑に関する情報をまったく持っておらず、大きな反響を呼ぶと同時に、会議日程を通じてさまざまな交流の輪を広げるきっかけを作ることが出来たのは大変有意義だった。
 会議終盤には、各国からの参加者がそれぞれの国別にレポート・カードを作成。自分の国の監獄の状況が 自由権規約以下、国際人権条約に照らしどのような状態にあるのかを、項目別に全25頁に渡って書いていく。これを最終日に国連の各国代表部に持参、条約の水準からまだまだ程遠い現状を提示し、政府に監獄改革を訴えようという企画である。レポート作成作業が大変(海渡さんはレポート作成の前に帰国した)なのに加え、外国人が大勢で路線バスを使って国連本部のあるエリアに移動し、道に迷いながら代表部を訪ねるのは、なかなか疲れることだった。代表部には各人が事前にアポをとっておくことになっており、私も予め日本政府の国連代表部に連絡を取って、山本公使と面会することになっていた。ところが公使が急用のため会えないということで、二等書記官の友重氏が対応に出てくれた。どこかで見た(聞いた)名前だな、と思ったら本業は裁判官で、東京地裁の令状部にいたことがあり(おそらく勾留状で目にしていた)、共通の知人もいたことにまず驚き。今回のCUREの会議および訪問の趣旨を伝えたところ、率直に「刑務所のことはよく知らないのですが」との反応を示されたので、レポートカードのほか日弁連のカウンターレポート、CPR事務局末広さん作成の最近の過剰収容等に関するレポートなどの資料を渡し、説明した。いずれ裁判所に戻る方なので、監獄の問題は法務省のみの領域の問題ではなく、監獄訴訟では裁判所がきちんとした判断を示す必要があること、裁判官に対する人権教育の必要性などについて話をし、せひ、国際機関での経験を生かして裁判所で頑張って欲しいと激励したのだが、私のメッセージは伝わっただろうか。
 代表部訪問の後は国連本部向かいの歩道上で、監獄改革や死刑問題に力を尽くした人々の似顔を描いた大きな布を広げて、通行人にアピール。観光客も結構足を止めて眺めていた。
 CUREの会議終了後は、ワシントンDCに移動した。DCには各種NGOの事務所が集中しているため、アメリカの監獄改革や死刑廃止団体の諸活動に学んで、我がCPRにぜひとも生かそうという意図であった。死刑廃止情報センター、全米死刑廃止連合(NCADP)などいくつかの事務所を訪問でき、いずれも有意義だったのだが、なんといってもCUREの会議において受刑者の権利救済の分科会でパネリストをしていたマリー・アン・セネット弁護士が事務局長を務める「DC受刑者リーガルサービス」が、刺激的だった。この法人は、名称から公設なのかと思いきや、まったく違っていて、1989年に、DCの大きな法律事務所が、刑務所からの相談案件などがあまりに多いため困り果て、出資して設立したのだという。日本でいえば、日弁連会長を輩出するような巨大ビジネスロイヤー集団が、監獄訴訟専門事務所の設立にお金を出してくれたようなもの。以後は、出資母体の事務所とは特につながりを持たず、主に各種財団からの援助で成り立っている。駅前の通りに面したかなり立派な1階にあるオフィスは、意外にこじんまりとしていたが、現在専従スタッフ4人を抱え、全員女性。マリー・アンはソーシャルワーカーから弁護士に転身し、バッファローにある、やはり受刑者の権利救済のための事務所(ただし公設)に5年間勤務した後にDCにやってきて、3年になる。もうひとりの弁護士スタッフの若いデボラは着任して1年半。以前はドメスティックバイオレンス救済の組織で2年間働いていたという。2人ともアメリカ自由人権協会の会員で、マリー・アンはDC支部の理事もしている。そして25歳のパラリーガル(法律家補助)の女性と、その他事務全般を担当する職員がいる。このオフィスには、年間を通じて2000件もの権利救済や処遇上の不満の訴えがくる。もっとも多いのは受刑者の家族からの電話だが、受刑者からの直接の電話も結構あるが、この通話内容が刑務所に聴取されることはない。こうして受けた家族や本人からの訴えについて、さらに詳しく事情聴取を行うのが、主にデボラとパラリーガルのモリーの仕事。弁護士はもちろんパラリーガルとの面会も秘密で、職員がモニターすることはない。実際に訴訟にまで持ち込むケースは少ないが、いざ訴訟となるとオフィスの活動に協力的なマスコミも駆使してキャンペーンを張り、訴訟を有利に進めるそうだ。最近手では、HIVのために仮釈放を拒否されたというケース(なお、DCは全米でもっともHIV感染者の率が高く、刑務所においても同様だという)で、メディアのキャンペーンを先行させ、提訴から1ヶ月でスピード勝利したという。地元の公設弁護人事務所とも協力関係にあるという。またオフィスでは、大学生のボランティアも受け入れており、特に夏は一定期間、サマーインターンのような感じで毎年学生がやってくるのだという。
 ところでこのマリー・アンが、ちょうど当日、地元の大学(University of District of Columbia)のロースクールの授業を持っているので参加しないか、と誘ってくれた。二つ返事でMarie-Annに連れられてUDCのロースクールへ。当日の授業は、彼女が年に3回行うものの1コマで、ロースクールの3年生が対象。担当教授のオリンダ・モイドさんも女性で、長く公設弁護人をしていた人。参加した学生は10人弱。まずはマリー・アンが約1時間にわたり、彼女自身の監獄訴訟の体験から、受刑者に対する暴力のケースを中心にレクチャー。日本の監獄も悲惨だが、日本と違い、看守が受刑者を、他の受刑者が見ている前でも平気で意識を失うまで殴り続ける、といった具合の剥き出しの暴力にはやはり衝撃を覚えた。同時に、涙を流しながら暴行のすさまじさを語る彼女の姿に、非常に感銘を受けた。その後、私が日本の刑務所および死刑処遇について話したのだが、話すそばからどんどんと学生が質問をしてくる。受刑者が弁護士との間ですら秘密のコミュニケーションがまったくできないこと、死刑の執行の不透明さに対する驚きはものすごかった。また、現在学生たちは仮釈放の実際に受け持っていたため、関連質問が多く、延々1時間くらい活発な質疑応答が続いた。
 
 その夜は、マリー・アン、モリーと3人で、2人のお勧めのエチオピアレストランへ行ったのだが、そこで目をクリクリとさせながら語るかわいいモリーの言葉が印象的だった。「私はほんとうにこの仕事が好きなの。給料は安いけど。」そして、「私は刑務所じゃ人気があるのよ!」。
 過去7年間近い歩みのなかで、人的物的資源の困難さにもかかわらずCPRはさまざまな成果を上げてきたと言ってよいと思う。より実りある活動のために、さまざまな示唆と、そして何よりまた日本で頑張ろうというエネルギーをもらうことが出来た訪問だった。