東京拘置所員による暴行傷害等に対する国賠請求事件判決
(東京地裁平成11年1月22日判決・原告敗訴)

野島 正(第二東京弁護士会)


1.はじめに

 「東京拘置所のパキスタン系イギリス人被拘禁者が国賠を提訴」と題してCPR News Letter No.18(98年5月10日号)に掲載された事件の結末をまだご報告していませんでした。本件は、平成11年(99年)1月22日に東京地裁民事10部で請求棄却(原告敗訴)の判決を受け、いったん控訴しましたが、下記の事情により控訴状却下命令が出て、敗訴が確定しています。

2.事件の概要

 窃盗等で東京地裁に起訴され東京拘置所に勾留中のイスラム教徒のパキスタン系イギリス人(A氏)が看守らに傷害を負わされ、またラマダン(断食)期間中なのに医師らにより食事を強制された、という事件でした(国賠請求提訴・平成10年1月21日)。
 前回は、A氏が刑事裁判で執行猶予判決(同年3月31日)を受けた後、オーバーステイとして退去強制され、イギリスに無事帰国した、というところまで書きました。

3.国賠訴訟の経過

 裁判所は、同年1月26日に東京拘置所内で傷害部位の写真撮影等の証拠保全をし、同年4月7日オーバーステイで国外退去を目前にしていたA氏の原告本人尋問の証拠保全を東京入管(2庁)内で実施しました。その後、裁判は、2月27日、4月10日、5月15日、7月10日(看守のK氏の証人尋問)、10月9日(医師のY氏の証人尋問)、11月13日(結審)、平成11年1月22日(判決)というように進行しました。

4.原告A氏の主張

(1)平成10年1月19日午前10時30分から11時までの間、東京拘置所内医務室においてY医師に対し自分の体調を説明しようとしたところ、これを拒まれ、同室で5人程度の看守らに体を押さえ込まれたうえ、強制的に自分の房まで引きずり戻された際に右脇腰部に傷を受け、また複数の看守らから暴行を受けた。
(2)A氏はイスラム教徒だが、平成9年12月29日から同10年1月28日までラマダン(断食)期間中で、イスラムの戒律で日の出から日没まで食事してはならなかった。ところが、平成10年1月19日午後4時前、看守らは戒律にもとづき食事をとらなかったA氏を暴行をもってしかもチューブを鼻に通すという卑劣な方法で無理に食事をとらせた。

5.被告国側の反論

(1)Y医師はA氏の診察を終えたので退出を求めたが、A氏が「自分の房に戻りたくない」と言い張り椅子から立たないので、職員らにA氏を房に戻らせるように依頼した。職員ら4名が自分で歩こうとしないA氏を抱えて房に戻そうとしたところ、原告が暴れたため、抱えた右脚がはずれ、右臀部が床に落ちたことがあるが、すぐに抱えなおしてA氏を房まで連れていった。この過程で職員らが他にA氏に対し暴行したことはなかった。
(2)Y医師は、A氏が幻聴妄想状態による薬物治療中だったが、A氏が拒食し身体的衰弱・脱水・低栄養状態のまま薬物治療を継続すると副作用として悪性症候群を発症するおそれがあったので、A氏に対し鼻道給養が必要であった。Y医師はA氏がイスラム教徒でラマダン中であることを知らなかった。Y医師が鼻道給養を告げて、A氏を床に寝かせて実施しようとしたところ、暴れて拒むので、A氏を押さえつけて6人がかりで鼻道給養をした。

6.判決の要旨

 本件東京地裁判決は、被告国側の反論をほぼ全面的に容れ、原告A氏主張の事実を認めようとしませんでした。
(1)判決は、診察室前から職員がA氏を抱えて房へ連行する際にA氏の右臀部付近を床面に落とし、約1メートル、3名の職員が引きずったことまでは認めています。A氏の右脇腰部にあった傷がこのときできたものと考えるのが自然です。ところが、判決は、3名の職員が引きずった行為がこの傷の原因であることをゆがんだ理屈で否定しました。すなわち、原告が「幻覚妄想状態にあった」こと、原告が居房に戻った後も「大声を上げ頭を壁に打ち付けたていた」ことなどの事実を認めて原告の供述は信用できないとし、本件が発覚した時の傷の状態からして「原告本人尋問の結果では、原告が受傷したと主張する日から2日が経過した後に原告代理人と接見した際にも右傷害部分に酷い痛みがあり、7日が経過した後に行われた検証の際にもかなりの痛みがあったと供述するにもかかわらず、右傷に気付いたのは保護房に入れられているときであり、同月16日の診察の際には身体に傷はなかったから、右の傷は同月19日にできたものに間違いないと供述するにすぎないこと、原告が原告の居房に連行された後、同居房内で大声をあげ、頭を壁に打ちつけていたことは前記認定のとおりであることからすると、原告の右供述のみをもって、右の傷は職員らが原告を連行した際に生じたものであると断定することができず、他に職員らの行為により原告が傷害を負ったとの事実を認めるに足りる証拠はない。」としました。しかし、傷は看守らが落とした原告の臀部相当部分にありました。16日には傷はないから19日のものに違いないというのは言い方(あるいは翻訳の仕方)の問題であって、はじめから原告は19日に傷ができたと主張していることに変わりがありません。原告の供述で事実関係に特段矛盾はないのです。裁判所は言葉尻を捉えて無理に原告の真意と反対の方向へ事実を引っ張っていこうとしているように思えました。傷に気づいたのが診察室から連れ戻された居房ではなく、その後に入れられた保護房であるから、いかにも気づくのが遅くて不自然であるかのような言い方ですが、原告は居房に戻された直後に保護房に連行されているのです。被告国側主張の準備書面によっても、Y医師が診察室でA氏に診察終了を告げたのが19日午前10時55分ころ、A氏が居房の壁に頭を打ちつけて大声を上げていたのが同日午前11時8分ころで、その直後にA氏は看守らに保護房に連れ込まれています。傷を得てから保護房に行くまで10分あるかないかです。日常生活でも事故で怪我をしたことに気が付くのはしばらく時間が経って冷静になってからだということは、よくあることです。A氏は居房に戻されてから頭痛がするので壁に自分の頭を打ちつけていたことを供述で認めています。その最中、引きずられてできた傷に気が付かなかったといっても不自然ではありません。
 しかし、裁判所は、結局、A氏のけがは看守らの行為の結果でないと認定しました。しかも、ご念のいったことに、仮にA氏のけがが看守らの行為にもとづくものといえても、看守らの行為は適法な職務行為といえる、というのです。
(2)判決は、Y医師らがA氏に対してなした鼻道給養を適法な職務行為だとしました。Y医師は、通訳人を通じて治療内容等を告げたのにA氏はラマダン中で食事をとらないとの合理的な理由を言わなかったので、A氏がイスラム教徒でラマダン中であることを知らないうちに、Y医師らは医療目的で鼻道給養をし、これを拒否してA氏が暴れたためにそれを排除するために必要かつ合理的な範囲の有形力を行使したにすぎない、というのです。
 東京拘置所の未決の被収容者の中にはイスラム教徒が少なくないこと、代用監獄(三田警察署)ではA氏には断食の習慣があることなどの事が分かっており拘置所への申し送り事項になっていたはずであること、Y医師自身にはラマダンについての知識があったことなどからY医師らはA氏が宗教上の理由でラマダン(断食)中であることを知りながら、強制的に鼻道給養を実施した、とのA氏の主張はことごとく退けられてしまいました。

7.1審判決後のこと

 A氏は、前年の4月に刑事裁判で執行猶予判決を得て、ロンドンに帰っています。わたしは国賠1審判決後、直ちに結果を国際電話とFAXを使ってロンドンのご実家に判決結果をお伝えし、A氏ご本人の控訴意思の確認を求めました。控訴費用、弁護士費用の問題があることも書き添えておきました。しかし、指定しておいた控訴期間中での回答があやしくなってきたので、とりあえずわたしの判断で控訴状を提出しました(平成11年2月4日)。
 控訴費用については、同日、訴訟救助の申立をあわせて行いました。疎明資料として刑事被疑者援助用契約書(法律扶助協会)、国選弁護人選任命令書、国際電話代金利用料金明細書(10,136円)、国賠訴訟のため代理人立替金支払明細書(106,525円)を添付しました。
 訴訟救助の申立は、却下となりました(同年6月28日)。控訴手数料として収入印紙を納付するよう補正命令が出たのが、同年7月9日です。命令送達日から21日以内に収入印紙を納付しなければなりません。しかし、結局、5か月間、A氏またはA氏のご家族から何のご連絡もありませんでした。高等裁判所は、同年8月11日、本件控訴状につき却下命令を出しました。このような経緯を経て、本件国賠訴訟は、1審原告敗訴で確定しました。
 A氏もその家族も、拘置所での酷い処遇を正当化するのみの日本の裁判所に絶望したのかもしれません。英国のバリスターを依頼し、日本の法廷まで派遣できる資力をお持ちのご家族のことですから、意思さえあれば、裁判を継続する旨の回答はすぐに出せたはずです。もしかしたら、A氏の感覚では勝って当然の裁判を敗訴させた弁護士のわたしにこれ以上何も期待できないとの良識を働かせたのかもしれませんが・・・。

 ロンドンへ帰りて
 霧と
 なりにけり

8.終わりに

 この裁判を通じて、わたしが一番感じたのは、拘置所などの拘禁施設での人権侵害事件の解決のためには日本の裁判所はほとんど役に立たないということです。本件が発覚したときに、わたしは直ちに拘置所長に面会を求めましたが、所長の代わりに面会に応じたN調査官は、わたしの証拠写真提供要請を拒んで「裁判所の手続であれば従う」と答えるのみでした。N調査官は、本件が国選弁護の過程で生じたことを知っていただろうと思います。一般に経済的な資力に乏しいとされる国選事件の被告人側にそのような要求をするのは、酷というほかありません。また、仮に被告人が国賠請求を起こしても、本件の裁判所のように国側に甘い判断しかしてくれません。1審の裁判官は、控訴審で敗れない判決をどのように書くかにただ腐心しているとしか思われないのです。拘禁施設の問題点を素直に見つめ、裁判を通じてその速やかな改善をもたらす機能を担うという考えはきわめて乏しいようです。現在、国内に独立性の強い人権救済機関を作ろうという動きが具体化しつつあります。そのような人権救済機関が創設され、拘禁施設などへの強い立ち入り調査権限などが認められれば、本件のような性質の事件については、裁判所よりは迅速で強力な解決がなされるのではないかと期待しています。
本件裁判で、日本の拘禁施設の中にもイスラム教徒でラマダン(断食月)中には日の出から日没まで断食をする戒律に服する者がいることを明確にすることができました。今後、施設側はその事実に無知であることは許されません。被収容者の宗教的自由に配慮した処遇に努め、この種の事故が繰り返されることのないようにしてもらいたいと思っています。