益永マスコミ投稿訴訟で最高裁判決
違法性を指摘! 注目すべき河合裁判長少数意見

海 渡 雄 一


事件の概要

 平成11年2月26日最高裁第二小法廷は益永利明さんが訴えていた死刑確定者が新聞に投稿する自由があるかを問う事件で、拘置所長が監獄法46条1項に基づいてした死刑確定者の信書の発送を不許可とする処分に裁量権を逸脱した違法はないとして、上告を棄却する判決を下した。私はこの事件の上告審の弁護を川村理弁護士と共同で担当したが、判決には注目すべき少数意見が付けられているので、詳細に報告してみたい。
事件の概要は次の通りである。益永さんは、昭和62年4月27日以来、死刑確定者として東京拘置所に拘置されているが、平成4年8月、読売新聞の「気流」欄に掲載された「被害者の人権考えぬ廃止論」と題する投書を読み、「死刑の廃止は被害者の人権を無視するものとの議論には誤解があると思う」との趣旨の文書を同紙に投稿しようとして、同月19日、被上告人にその発信の許可を申請した。
 これに対し、被上告人東京拘置所長は、東拘基準に基づいて審査し、本件文書の発出については上告人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認めるに足りる事情がないと判断して、同月20日、これを不許可とする旨決定した(以下「本件処分」という。)。益永さんが処分は違法であると主張して、その取消しと慰謝料を求めて提起していたのが本件訴訟である。

監獄法、矯正局長通達、東京拘置所基準

監獄法9条は死刑確定者の処遇は未決被拘禁者の処遇に準ずるものと定められている。現実にも1960年ころまでは、死刑確定者は誰とでも面会、文通が可能であった。死刑再審で無罪を勝ちとった免田、財田川、松山、赤堀の各事件ではこのような交友関係から再審被告の無実を確信して、再審の支援に立ち上がった多数の市民が再審請求の実現のために支援した。
 法務省はこのような動きに対して、1963年に矯正局長通達を発し、死刑確定者について、「本人の身柄の確保を阻害し、又は、社会一般に不安の念を抱かせるおそれのある場合」「本人の心情の安定を害するおそれのある場合」には外部交通を認めないこととした。この通達の発出以後も以前から外部交通が認められていた支援者については、外部交通を認められていたが、新たに死刑が確定したケースについては、家族と弁護士以外は原則として面会、通信が認められなくなった。
この通達のもとで、東京拘置所は、死刑確定者の信書の発出を、次の(1)(2)のいずれかに当たる文書についてのみ許可し、これら以外の文書の発信は許可しないとの取扱基準(以下「東拘基準」という。)を設けていた。「(1)本人の親族、訴訟代理人その他本人の心情の安定に資するとあらかじめ認められた者にあてた文書/(2)裁判所等の官公署あての文書又は訴訟準備のための弁護士あて等の文書で、本人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認められるもの」

多数意見の内容

 判決は4人の合議体で下され、多数意見を構成した裁判官は福田博、北川弘治、亀山継夫の三名であり、全員キャリア裁判官の出身である。判決理由は次の通りである。

 「死刑確定者の拘禁の趣旨、目的、特質にかんがみれば、監獄法46条1項に基づく死刑確定者の信書の発送の許否は、死刑確定者の心情の安定にも十分配慮して、死刑の執行に至るまでの間、社会から厳重に隔離してその身柄を確保するとともに、拘置所内の規律及び秩序が放置することができない程度に害されることがないようにするために、これを制限することが必要かつ合理的であるか否かを判断して決定すべきものであり、具体的場合における右判断は拘置所長の裁量にゆだねられているものと解すべきである。原審の適法に確定したところによれば、被上告人東京拘置所長は東京拘置所の採用している準則に基づいて右裁量権を行使して本件発信不許可処分をしたというのであるが、同準則は許否の判断を行う上での一般的な取扱いを内部的な基準として定めたものであって、具体的な信書の発送の許否は、前記のとおり、監獄法46条1項の規定に基づき、その制限が必要かつ合理的であるか否かの判断によって決定されるものであり、本件においてもそのような判断がされたものと解される。そして、原審の適法に確定した事実関係の下においては、同被上告人のした判断に右裁量の範囲を逸脱した違法があるとはいえないから、本件発信不許可処分は適法なものというべきである。」「右判断は、市民的及び政治的権利に関する国際規約及び監獄法の所論の各条項に違反するものではない。」

原則例外の逆転を突いた河合裁判長の反対意見

 この判決には裁判長河合伸一から反対意見が出された。
死刑確定者にも信書発信の自由があるか

「本件においてまず検討すべきは、東拘基準が、死刑確定者の発信を、一般文書につきすべて許可しないこととしていることの適否である。」「他人に対して自己の意思や意見、感情を表明し、伝達することは、人として最も基本的な欲求の一つであって、その手段としての発信の自由は、憲法の保障する基本的人権に含まれ、少なくともこれに近接して由来する権利である。死刑確定者といえども、刑の執行を受けるまでは、人としての存在を否定されるものではないから、基本的にはこの権利を有するものとしなければならない。もとより、この権利も絶対のものではなく、制限される場合もあり得るが、それは一定の必要性・合理性が存する場合に限られるべきである。」「すなわち、死刑確定者の発信については、その権利の性質上、原則は自由であり、一定の必要性・合理性が認められる場合にのみ例外的に制限されるものと解すべきであって、監獄法46条及び50条の規定も、この趣旨に解されることは明らかである。」「しかるに、東拘基準は、この原則と例外を逆転し、わずかの場合を除き、死刑確定者の発信を、それを制限することの具体的必要性や合理性を問うことなく、一般的に許さないとしているのであって、右の権利の性質に矛盾し、法の規定にも反するものといわねばならない。」

自由が制限される場合について

「死刑確定者の拘禁は、その刑の執行を確保することを目的としている。したがって、この目的を阻害するおそれのある文書の発信は、制限されて当然である。また、監獄は多数の者を収容する施設であって、その正常な管理のためには内部の規律・秩序を維持する必要があるから、その障害となるような文書の発信が制限されることも、やむを得ない。ことに死刑確定者は、その置かれている立場から、一般に、拘禁の目的を阻害し、あるいは監獄内の規律・秩序を乱す挙に出る可能性が刑事被告人や受刑者より高いといえるであろうから、そのような挙に出ることを防止するという意味で、死刑確定者の心情の安定に特に配慮する必要があることも理解できる。そして、これらについては、監獄内の実情に通暁し、直接その衝に当たる拘置所長の裁量にゆだねられるべきところが少なくないことも確かである。」「しかし、拘置所長の右裁量権の行使が合理的なものでなければならないことは、多言するまでもない。したがって、拘置所長が、拘禁の目的が阻害され、あるいは監獄内の規律・秩序が害されることを理由に、右裁量権の行使として、死刑確定者の発信を制限する場合でも、そのような障害発生の一般的・抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、対象たる文書の内容、あて先、被拘禁者の性向や行状その他の関係する具体的事情の下において、その発信を許すことにより拘禁の目的の遂行又は監獄内の規律・秩序の保持上放置することのできない障害が生ずる相当の蓋然性があることを具体的に認定することを要し、かつ、その認定に合理的根拠が認められなければならない。さらに、その場合においても、制限の程度・内容は、拘置所長がその障害発生の防止のために必要と判断し、かつ、その判断に合理性が認められる範囲にとどまるべきものである」

未決被拘禁者と死刑確定者)
 判決文ではここに注として「同58年6月22日大法廷判決・民集37巻5号793頁参照。」を引用し、「なお、右判例が刑事被告人の新聞等閲読の自由の制限について示している適法性判断基準は、拘置所長の裁量に関する部分を含め、基本的には、死刑確定者の発信の自由の制限についても妥当するものである。たしかに、刑事被告人と死刑確定者との間には、大きな相違がある。刑事被告人は、無罪の推定を受け、原則として一般市民と変わらない自由を享受すべき者であるのに対し、死刑確定者は、既に有罪が確定し、しかも極刑の宣告を受けている者である。そのため、拘禁の目的あるいは監獄内秩序等の障害が発生する可能性が高く、その防止のため心情の安定に配慮する必要もはるかに強いであろう。しかしながら、右のような相違は、すべて、右判例の判断基準を適用する場合の判断要素として考慮すれば足りることである。少なくとも、死刑確定者の発信の制限について右判断基準を全面的に排除する理由となるものではない。」と注記している。
 「したがって、東拘基準による類型的取扱いを拘置所長の合理的裁量権の行使として、是認することはできない。」「東拘基準及びこれに基づく類型的取扱いを是認できないことは右に述べたとおりであるから、結局、上告人の本件文書の発出を許可しなかった本件処分は、何らの合理的理由なしに上告人の発信の権利を制限したものとして、違法といわざるを得ない。」

上告代理人の意見要旨

 我々が提出した上告理由書は全体で80頁に及ぶもので、詳細は紙幅の関係で割愛せざるを得ないが、その目次構成は次のようなものであった。
「第一 死刑確定者の人権に関する状況/一、はじめに/二、死刑確定者処遇の変遷/三、死刑確定者の処遇の現状とその問題点/四、国際機関の注目浴びる日本の死刑確定者処遇
第二 国際人権規約の意味と日本国憲法との関係/一、国際人権規約の直接適用性について/二、人権の制限方式、制限事由における日本国憲法と国際人権規約の相違/三、日本国憲法の定める「公共の福祉」を理由として規約上の権利を制限することは認められない。
第三 死刑確定者に対する処遇は国際人権規約に違反する/一、はじめに/二、生への欲求の否定は生命への権利の否定(規約6条再審請求や恩赦を求める権利の否定)/三、面会通信の制限は、思想良心の自由への侵害(規約19条)/四、面会通信の制限は私生活・家族関係・通信への恣意的な干渉(規約17条)/五、死刑確定者の面会通信の制限は被拘禁者の人道的な処遇を定める人権規約7条、10条に違反する/六、結論
第四 監獄法46条1項違反/一、在監者一般に関する監獄法46条1項の解釈論/二、死刑確定者に対する監獄法46条1項の適用方法
第五 本件通達の違法性
第六 本件東京拘置所取扱基準の違法性
第七 結語」

判決の評価

法的な結論だけを見れば河合裁判官の論理は我々の上告理由書の第四、第六の部分の主張を取り上げたものであり、憲法論や国際人権法などに関する論点は反映されていないようにも見える。しかし、死刑確定者も人間であること、表現の自由の主体であること、自由の制限のためには「拘禁の目的の遂行又は監獄内の規律・秩序の保持上放置することのできない障害が生ずる相当の蓋然性があることを具体的に認定することを要」するとした点など、この少数意見の骨組みは我々のこのような議論に触発されたものとも考えられるだろう。
また、多数意見についても、河合意見に対応して、その言い回しには微妙な点が見られる。「具体的な信書の発送の許否は、前記のとおり、監獄法46条1項の規定に基づき、その制限が必要かつ合理的であるか否かの判断によって決定されるものであり、本件においてもそのような判断がされた」とする部分である。この点は現在の東京拘置所基準のもとでも、制限の必要性、合理性を具体的に判断する必要があるとするものであり、必ずしも現状を全面的に追認したものではないとも読める。いずれにしても、死刑確定者の厳しい外部交通の制限は規約人権委員会からも厳しく批判されている。すなわち、委員会は1998年11月の日本政府報告審査に基づく最終見解において、死刑確定囚が置かれている状況について「深刻な懸念を有し続けている。特に、委員会は、訪問や通信の過度の制限、死刑囚の家族や弁護人への執行の事前告知がなされていないことは規約に違反すると理解している。」として、「死刑囚監房における状況を規約の7条、10条1項に沿って人道的に改善すること」を勧告しているのである。
河合意見の結論はこのような国際機関の意見の方向にも合致する常識的なものである。このような意見が最高裁の多数意見に容れられないという事実に驚くとともに、今後河合裁判官のような意見が多数意見を構成することが出来るように監獄人権センターも努力を続けていきたい。