どうして負けたのか 「親子面会訴訟」

(高安)イツ子(原告)


 99年7月16日、最高裁第二小法廷は裁判官全員一致で安島親子面会訴訟の上告を棄却した(裁判長裁判官北川弘治、河合伸一、福田博、亀山継夫、梶谷玄)。
 この面会訴訟にはいくつかの特色があった。ひとつは、確定直前に幸雄死刑囚と、安島夫婦が養子縁組を結んだ点である。年齢もあまり差がなかった。二つめは、養父母がいわゆる対監獄闘争なるものに関わっていたという点。三つめは、一審判決が出ぬうちに、幸雄死刑囚が執行されたことである。
 85年4月26日幸雄は上告棄却され死刑が確定した。同年5月14日安島夫婦と養子縁組成立。25日までは面会できていたが、6月13日安島の面会は拒否され、以後、執行される94年12月1日まで、面会訴訟の代理人弁護士以外とは誰とも面会・文通できなかった(元々、天涯孤独であり、親戚も彼からの手紙は受取拒否していた)。
 監獄法45条は「在監者ニ接見センコトヲ請フ者アルトキハ之ヲ許ス」として、原則許可である。しかし、養父母が幸雄への面会を申し込むたび、東京拘置所は、窓口でこれを拒否し続けた。理由について質問しても「あなたは面会できません」の一点張りであった。何回か夫婦で、単独で、あるいは子供連れ(つまり幸雄の弟たち)で、面会を要求したが、らちがあかず、国会議員を通して法務省へ照会しても理由は明かされなかった。そこで、88年10月26日、面会させないことに対して国賠訴訟を起こした。その結果、幸雄死刑囚は、訴訟の打ち合わせの為に、弁護士と面会することが可能になった。しかし看守の立会はつく。また、差入れも弁護士を通してのみ可能となった。
 養父母は、弁護士が面会に行く日は可能な限り同じ日に東拘へ行った。様子をすぐ聞くためと、差入れを依頼するためである。その時、必ず差入れ受付の職員は弁護士本人が居るかどうか、わざわざ呼び出して確認した。本人に渡れば誰からだろうと同じことだと思うが、どうでもいい事をいちいちチェックして職員の仕事を増やしている。
 民法792条、795条にあるように、幸雄と養父母は正式に養子縁組をして受理され、「養子は縁組の日から養親の嫡出子たる身分を取得する」(809条)。ところが、一審判決は、「幸雄との養子縁組も監獄闘争のため外部交通を確保することを大きな動機としてなされ」ている。「外部交通を認めることによって、死刑確定者の心情が不安定となるなどして、その身柄確保に支障が生ずる相当の蓋然性がある場合」又は「拘禁施設における管理運営に支障、困難が生じ、拘禁施設の規律及び秩序を維持するため放置できない障害が生ずると認められる相当の蓋然性がある」と判断した拘置所長の認定に合理的な根拠があり、「その防止のために当該制限措置が必要であるとの判断に合理性があると認められる限り」「拘置所長の措置は適法として是認される」と判示した。
 養父母は、養子縁組を結ぶことで、幸雄との人間的な関わりを追求したにすぎない。この訴訟がなければ、幸雄死刑囚は一切の外部との接触を断ちきられたまま、執行されたのだ。仮に、万に一つも、「監獄闘争のため」だったとして、強固なアクリル板にさえぎられ、看守の立会がつき、長くて30分の面会で、幸雄の「身柄確保に支障が生じ」「拘禁施設における管理運営に支障、困難が生じ、拘禁施設の規律及び秩序を維持」できなくなるほど刺激的な面会が、どうやったら実現できるのだろうか。文通にしても検閲が行われている。さらに、面会や文通により幸雄死刑囚が意気軒昂となったとして、小柄で腕力もない幸雄が、「現場担当者の管理に支障、困難が生ずる危険性」をおよぼすとはとても思えない。無論、幸雄はこれまで暴れたことも無く、弁論の中では彼のどちらかといえば迎合的というか、官に対しては従順な性格が明らかになったと思う。
 東拘側が一審段階で出した書証のほとんどは、無関係な新左翼党派のものも含め、「獄中者組合」「共同訴訟人の会」「統一獄中者組合」が出したパンフレットやビラ、「救援」縮刷版等であった。多くの活動家が拘禁された1974年秋、獄中の劣悪な処遇の改善を求めて「獄中者組合」が誕生した。当時、東拘で筆記が可能だったのは学生だけであった。しかし、筆記の問題に留まらず、手紙の枚数制限、医療の問題、看守の暴行、刑事囚に対する様々な差別的対応、自殺房等々の問題について、東拘側と交渉を求めた。この後、「獄中の処遇改善を闘う共同訴訟人の会」が出現し、85年11月には両者が統一して「統一獄中者組合」が誕生し現在に至っている。獄中者の、市民としての当然の要求や交渉に対し、違法な暴力的排除をもって臨んできたのは一貫して東拘の側であった。
95年のヒューマン・ライツ・ウォッチレポート『監獄における人権/日本』の序文に次のように書かれている。「日本の刑事施設の恐らく最も衝撃的な特徴は、沈黙という点にある。それは文字通り沈黙が支配しているというだけではなく、刑事施設に巡らされた公式の秘密主義の封印によって生まれたものでもある。」看守に質問したり、従わないと、それだけで「担当抗弁」とされ、懲罰にさらされる。しかし、司法による救済を求めて訴訟を起こしても、司法は獄中者の味方ではない。例えば、一審の幸雄の本人尋問は、東拘側が本人を出廷させないため、東拘構内で行うことになった。この時、原告養父母は東拘への入構を拒否された。養父母は、声をかけたりしないと念書を出すからと出廷を求め、裁判長も養父母を出廷させられないのなら原則通り幸雄原告を地裁に連行するよう求めた。しかし裁判所は折れ、93年6月30日、東拘側の予定通り、養父母ぬきで出張尋問が行われた。訴訟は同年12月14日に結審したが、翌94年12月1日、原告・幸雄死刑囚の死刑が突然執行された。その2週間後の12月13日に前述の一審判決が出された。無茶苦茶な前提をねつ造して、拘置所長の措置を適法として認める判決だった。
 控訴して敗訴し、それでも上告した。3年目の99年7月16日、新聞紙上で上告審が棄却されたのを知った。以下はその理由の全文である。

「所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の本においては、上告人らと亡安島幸雄との接見及び信書の発受並びに上告人らから亡安島幸雄に対する差入れを許さなかった東京拘置所長による一連の措置に裁量の範囲を逸脱した違法があるとはいえないとした原審の判断は、是認することができる。原判決に所論の違法はなく、右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。右判断は、市民的及び政治的権利に関する国際規約及び監獄法の所論の各条項に違反するものではない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、または独自の見解に立って原判決を論難するものに過ぎず、採用することができない。/ よって、裁判官全員一致の意見で、主文の通り判決する。」