12・5「拷問禁止条約の批准を求めて」シンポ報告


 CPRも参加する拷問等禁止条約の批准を求めるネットワーク(CATネット)では、昨年12月5日に、ビデオ『トーチャー/拷問』の完成を記念し、今井直さん、林和男さん、徐勝さんをお招きしてシンポジウムを行いました。(文責:編集部)

(海渡雄一さん)
今井直さんは、国際人権法、特に拷問禁止条約については日本の第一人者です。拷問禁止条約の概要、日本が批准するに当たっての障害、批准の意義などに焦点をあててお話ししていただければと思います。

今井直さん(宇都宮大学助教授)

拷問禁止条約の10年
 拷問禁止条約について初めて論文を書いてから10年以上になります。その間、条約が実際に発効し、拷問禁止委員会ができ、拷問廃絶のための国際的システムは非常に強化されてきました。国連には拷問禁止委員会だけではなく、拷問に関する特別報告者、恣意的拘禁に関する作業グループといった、拷問にかかわる重要な機能が整備されてきております。ヨーロッパでは拷問防止条約という、最も実効的な拷問防止の方法と考えられている査察制度を導入した条約が作られ、有効に機能しております。国連でも査察制度を導入しようと、いま拷問禁止条約の選択議定書の議論がなされています。ここ10年、国際的システムはかなり変化が生じてきている。
 一方、変化していないものもあります。世界各国には未だ拷問が発生し続けている。ほとんど10年前と変わらない状況であると言わざるを得ない。また現在102ケ国が条約を批准しますが、日本は未批准です。この10年間に子供の権利条約、人種差別撤廃条約を批准したりと、日本政府も人権条約に対してそれなりに前向きな姿勢を取ってきたのですが、拷問禁止条約は手付かずという状況です。今後拷問禁止条約批准運動を盛り上げて、こういった状況を打破したいと思います。
拷問禁止条約の成立
 拷問禁止条約はただ拷問を禁止すると約束しただけのものではない。拷問の禁止だけなら、世界人権宣言なり国際人権規約も明確に言っています。また多くの国内法が拷問禁止を掲げています。こうした国内法、国際法にもかかわらず、拷問は依然として発生し続けています。そこで拷問禁止条約が生まれました。すなわち拷問禁止というすでにあるルールをいかに実行するのか、拷問をいかに防止するのかを目的に作られた条約なのです。  きっかけは1970年代から80年代にかけて世界のさまざまな国で組織的に行われていた拷問です。アムネスティーによれば1975年には65ケ国が組織的拷問を行っていました。当時、中南米の軍事独裁政権下では拷問が日常化していた。アムネスティーなどはこういった拷問の日常化に対して、国内法での規制と防止では対応出来ないと考え、キャンペーンを行い国際社会の組織的対応を求めました。それが1975年に拷問禁止宣言に結実しました。しかし宣言であり法的拘束力がなく、それぞれの国が守るべきガイドラインを示したに過ぎなかった。それで実効的に拷問禁止を図るため、1977年から国連総会が拷問禁止条約の作成を始めました。
 この条約は結局7年かかって1984年に生まれました。拷問禁止条約は拷問を「防止する」ための条約です。権威主義的国家はもちろん、民主主義的国家であっても、拷問や非人道的取り扱いを生み出す温床というものは存在しています。条約は組織的拷問に国際的に対処する一方、日常的に拷問を防止するための措置を国家に義務づけています。こうした措置が守られているかどうかチェックするために拷問禁止委員会が設けられています。
拷問禁止条約の特徴
 条約の対象は、決して中世的なものだけではなく、現在の多様な拷問に対処しようとしています。例えば拷問の定義として、精神的苦痛、心理的苦痛、差別的な動機による拷問、それから公務員による黙認、実際に手を下さない、教唆しないが公務員がそれを放置しておく、などを含んでいます。ここでいう拷問というのは、かなり広い範囲となります。
 拷問はいかなる状況下でも絶対に許されてはならない。たとえテロリストに対するものでも拷問は全面的に禁止だと条約では言っています。また上官や上司からの命令であっても拷問の正当化理由として援用することは出来ません。逆に下級の公務員が上官の命令に抵抗することが求められている。
 条約は、絶対的に禁止される拷問を、国際犯罪として性格づけています。具体的には容疑者が所在する締約国は、拷問行為がどこで行われたか、容疑者や被害者の国籍がどこなのかに関わらず、関係国に引き渡して容疑者がその国からいなくならない限り、自国で処罰しなければならない。これを「普遍的管轄権の原則」といいます。ハイジャックとか人質行為といった国際的テロ行為と同様、国際的協力で対処しようとしています。拷問は単なる国内法の犯罪ではなく国際犯罪なのだという認識です。
 条約は拷問に事後的に対処するだけでなく、拷問を発生させる諸条件を除去するための様々な予防措置を取るよう締約国に義務づけています。加えて、拷問に至らないような品位を傷つける取り扱いにも条約の一部が適用されます。「日本には拷問がないから条約は不要ではないか」と一部の政府関係者が言うことがあります。実際日本には拷問が存在すると思いますが、たとえ拷問が存在しない国であっても、この条約は十分に関連性を持つと言えると思います。
拷問禁止条約の報告制度の実態
 次に、条約の遵守を国際的に監視するための措置について。条約のすべての措置が締約国に自動的に適用されるのではなく、報告制度だけが全締結国に自動的に適用される。個人通報にしても、国家通報にしても、組織的拷問に関する調査制度にしても、まぬがれることが可能です。妥協的産物としてこういった規定になってしまった。もし日本が条約を批准するにしても個人通報制度は受諾しないことも十分に考えられます。もし日本が条約に入るとすれば、全実施措置を受け入れる形での批准を運動としても要求していかなければならないと思います。
 報告制度は全締約国に適用されます。報告審査は、政府がまず自ら条約の実施状況に関する報告書を委員会に提出する。10名の専門家からなる拷問禁止委員会が政府報告書を検討して、政府と質疑応答する。制度はこう変えた方がいい、運用はこうした方がいいといった勧告が出されるというシステムです。国家からすれば自己申告ですから、比較的とっつきやすい制度といえるかも知れません。しかし委員会はNGOなどの情報を積極的に利用して審議に当たりますので、必ずしも政府の思いどおりにはなりません。例えば、今までイギリスに関して報告審査は2回行われています。1回目は1991年11月に最初の審査が行われ、全般的には条約上の義務に合致しているという評価が得られたわけですが、北アイルランドの実施状況は満足のいくものとはほど遠いとされました。特に拷問防止義務との関連で、警察による尋問のテープ記録が存在しない、尋問に弁護士が立ち会っていない、また北アイルランドでは黙秘権が認められていないことなどについて、委員会から憂慮が表明されました。  拷問禁止委員のソレンセンさんの話によると、この審査の会合にはイギリスの国営放送BBCが入り、その模様はテレビで放送された。報告審査は公開ですので傍聴もできますし、プレスも入れます。ただテレビカメラが入るということは委員会の承諾と当該国の同意が必要なんでしょうが、それが認められた。プレスが入って放映されたことは国内的に非常に大きな効果があったとソレンセンさは言っていました。それまで北アイルランドでの拷問の申し立ては1ケ月に100件あったのが、放映後は10件に減少したといわれています。このようにプレスが入るというのは比較的まれですが、公開で行われることのメリットが示されています。なおイギリスでの2回目の審査が1995年11月に行われました。委員会は外交辞令として積極的な側面については評価する。イギリスにおいては、前回の審査以降、色々な面で刑事改革が行われている。例えば、プリズン・オンブスマンが任命された、刑事施設の改築が活発に行われているとかについて積極的に評価しました。しかし同時に北アイルランドでのテロ関連事件の尋問において、まだテープ録音が実現していないとか、弁護士の立ち会いが実現していないことなど、合計9項目について勧告がなされました。
 このように報告審査は勧告という形なので、それ自体締約国に対して法的拘束力を持つものではありませんが、こういった対話を通じて加盟国の人権状況を変えて行くというアプローチを取っています。決して条約違反といった法的責任を追及するものではありません。しかしNGOの情報を十分活用しながら、制度も公開で行われますし、1回で終わるわけではなく、政府は4年毎に報告書を提出し審査を受けなければなりません。定期的に行われるといった条件がうまく機能すればイギリスのようにかなり効果的な制度となります。日本が批准した場合、まず直面するのがこの報告審査に関する取り組みになると思うのですが、あらかじめイギリスの審査等からノウハウを得ておくことが重要ではないかと思います。
日本における批准の問題
 日本が批准する場合、国内法との整合性を検討する作業を行います。外務省、法務省が検討中だと思います。拷問禁止条約を批准するに当たって国内法に抵触する可能性は非常に少ないと私は見ています。日本には刑法に特別公務員暴行凌虐罪がありますが、この規定だけでは拷問禁止条約の拷問の規定を十分カバーすることは出来ない、条約の定義を十分取り込んだ新たな罪を刑法に導入することが必要かとは思いますが、それ以外は国内法の問題は少ないと思います。むしろ問題は行政の運用実態です。被拘禁者の取り扱いにしても難民の認定等についても、条約に触れる部分が多々ある。
 先月アムネスティが日本における外国人被拘禁者への虐待に関して報告書を公表しました。そこに日本の実態について勧告されていますが、第一に拷問禁止条約の批准がありました。拷問禁止条約には積極的防止義務がありますが、これは日本に十分関連のある義務です。そしてこの義務をきちっと履行しているかどうか拷問禁止委員会が監視することが可能になるわけで、その意味でも条約に入る意義というのは非常に大きい。ただ政府からすれば、自国の行政実態が条約と抵触していると危惧する部分は多くあると思います。それだけでなく条約批准は、世界的に拷問を廃絶するための国際協力に日本が参加するという意味も持つ。例えば拷問犯罪について普遍主義を設けている。もし日本が条約に入ればこの普遍主義を受け入れることになり、これ自体が国際協力の一側面です。また拷問禁止委員会に委員を送ることも可能になりますし、日本のNGOが拷問禁止委員会に協力することも十分可能になります。アジア諸国に拷問廃絶を働きかける際の基準や正当性が得られることにもなる。
 アムネスティの先程の報告では、日本は主要先進国で条約に入っていない唯一の国だと指摘しています。特に日本は国連の安全保障理事会の常任理事国に立候補していますが、こういった国で拷問禁止条約に入っていない国はないと指摘しています。日本が国際的な場で発言力を持とうとするならば、拷問禁止の分野で条約にきちっと入るということが前提条件なのではないでしょうか。

(海渡雄一さん)
林和男弁護士はパンフレット「コリアン・プリズン」(韓国刑事施設見学報告書)を作成する中心となった方です。韓国語が堪能で韓国の弁護士とも交流されています。先日は徐俊植氏の救援のため韓国に行き面会したということで、そういったお話も聞けるのではないかと思います。

林和男さん(弁護士)

韓国の拷問禁止条約批准の状況
 私の専門は戦後補償問題で、韓国の弁護士との交流を進めております。昨年パク・チャンヒ事件という拷問が行われた一種の冤罪事件に関わりました。また今回は徐俊植さんの救援のため韓国で面会をして来ました。
 拷問禁止条約には韓国は1995年1月に批准し、2月8日に加盟が発効しています。韓国は国際人権規約にも批准し、第一選択議定書(個人通報制度)も批准しています。日本は拷問禁止条約を批准していないし、選択議定書も批准していない。「韓国の方が人権状況が厳しいのになぜ政府は簡単に人権条約を批准するのか」、その裏にはなぜ日本政府は批准しないのかという疑問があるのですが、韓国の弁護士と会うとよく話題になります。韓国の弁護士からの返答は決まっています。「韓国が批准するのが当たり前で、日本がなぜ批准しないのかを究明する必要があるのでないか」。先進国の仲間入りをするには、国際的に100ケ国以上が批准している条約には批准すべきという考えが韓国政府にあると考えられます。
 韓国において国際基準がどういう意味を持つかですが、結論から言うと日本とあまり変わらない。韓国の裁判所は日本同様、国際基準に関して極めて関心が薄い。従って刑事事件で弁護人が国際基準を援用して主張しても裁判官は無視することが多い。一方、政府の行政の場合は、欧米や国連から具体的に指摘され批判された場合にはその問題について神経質になります。これも日本と似ている。拷問禁止条約についても1996年11月にジュネーブで政府報告書の審査があり、結果として勧告が発表されました。韓国の拷問について、国連がこれほど具体的に指摘したのは初めてではないか。日本も加盟していれば、同じようなインパクトを受けると思います。
韓国の拷問、日本の拷問
 「韓国には昔から拷問があるが日本にはない」という先入観があるかもしれないが、それは違うと思います。韓国の拷問について言いますと1993年、現在の政権の前後で拷問の形態がかなり違う。以前には水拷問が一般的に行われ、電気拷問もあったわけですが、現在はそういった事例はかなり少なくなっています。今の拷問の中心は殴る蹴るですね。集団殴打、睡眠妨害。集団殴打の場合には逮捕して派出所の2階に連れて行って、3時間から4時間にわたって大勢で殴りつける。最近そのために精神異常をきたし、そばにあった石油を頭から被って焼身自殺を図った事件がありました。睡眠妨害というのは、私がかかわったパク・チャンヒ事件について言いますと、国家安全企画部で何日も取り調べを受けていたのですが、夜は一応留置所に戻されます。そして横になることを許されるのですが、両隣に警察官が添い寝をする。そしてウトウトすると「ウトウトしちゃだめだよ」と注意して一晩中寝られない。こういう状態で1週間位取り調べを受け、本人は言った覚えのない調書が取られてしまった。
 日本の場合も、徹夜の取り調べというのは決して珍しくはありません。私などが国選弁護で担当する事件でも、逮捕当日は徹夜の取り調べだったというのが3分の1位ある。私は刑事弁護が専門ではないので特殊な事件が来るわけではありません。ごく普通の事件でそうです。1日だけでなく何日も徹夜の取り調べが行われ、その結果虚偽の自白が取られたという事件も何件か明らかになっています。そういう事件で最終的に無罪となった事件もある。従って現段階では、韓国には拷問があるが日本にはないとは言えないのではないか。
 韓国はこれだけ拷問禁止委員会からの指摘を受けながらその後も拷問を続けています。これだけ指摘があったら少しはセーブするのが普通ですが、それはやはり隣の日本が批准していないからではないか。拷問に関して国連の意見に従わなくても、少なくとも経済上の問題は生じない、これが韓国政府を安心させているのではないか。
韓国における拷問の背景
 韓国の拷問の背景として、国家保安法があります。この法律は、戦前日本の治安維持法の流れを汲んで制定されました。どうにでも解釈できる条文がいくつもある。例えば「利敵表現物を所持したり、人に渡したり、上映すること」が罪になる。利敵、北朝鮮を利することですが、何が利することになるのか、はっきりとした基準はありません。例えば、韓国の人は親戚関係で韓国籍のない人ともつきあいがあるのですが、日本に行ったときに体の弱い人に漢方薬をあげた。それが利敵行為とされて拘束された人もいます。最終的に裁判所で無罪となりましたが、しかし一旦拘束されれば何十日にもわたって拷問を受けるわけで、国家保安法の存在は大きい。
 それから国家安全企画部(KCIA)があります。ここは国家保安法に関する捜査権を持っています。国家保安法の容疑者に対しては普通の警察ではなく安全企画部が特別の部屋に入れて、拷問を交えた捜査を行うことができる。そういう捜査のための特別の場所を「対共分室」と言うんですが、ソウルに大きいもので4つ、主要都市に1つずつあります。この「対共分室」は表向きは広告会社みたいな看板を掲げているのですが、大きな鉄の塀があり、中には広い庭がありまして、建物の中から物音が外に漏れないようになっている。大統領選挙のたびに「こんなにスパイがいる、だから野党に政権を渡してはいけないんだ」という宣伝に、違反事件が使われることが非常に多い。今回、金大中候補が「私が大統領になっても国家保安法は廃止しません」と公約しました。それもあって彼はかなり優勢です。彼が大統領になっても国家保安法がなくならないことが確定したわけです。
 お隣の国がこうした状況であり、日本も似たような状態なので、拷問禁止条約を是非批准してもらいたいと思います。

(海渡雄一さん)
徐勝さんは韓国で19年間拘禁生活を送られ、様々な拷問や虐待を受けました。90年の始めには「ストップ・トーチャー・コリア」という団体を設立され韓国を始めアジア全体の拷問廃止運動に携わられています。

徐勝さん(元韓国政治犯)

国家保安法の問題
 韓国で問題なのは拷問だけではありません。厳しい苛酷な刑罰、15年以上、無期刑、死刑といった刑罰が乱発されてきた背景、政治犯が存在してきた背景には国家保安法があります。これは破防法と関係すると思いますが、有事立法と言われているガイドライン(日米防衛協力の指針)とも関係してくると思います。国家保安法は、国家の安全を守ることが何よりも大切だという、安全保障の考え方で、そのために個人の権利や自由は制限されたり留保されたりしてもやむを得ない。朝鮮は1945年に解放され、南北に分断されて非常に激しい敵対をして来た。自民族同士の敵対という要素よりも、強大国による敵対と分断が反映された面が強いのですが、まず国がなくなっては何にもならない。北朝鮮と対決するには、憲法で色々いいことを言っていてもそれを留保する。刑事特別法・国家保安法で表現の自由、学問の自由、集会結社の自由は制限されます。憲法では美しいことを言ってもそれは文字づらだけのものになってしまう。有事立法問題も同じですが、非常に緊急な、非常に危険な事態があるということで個人の自由、権利の制限が正当化される。
 ガイドラインで日本が軍国主義化すると言っている人達もいますが、日本の社会に韓国の国家保安法のような非常事態法が日常化していくことは大きな問題です。国家保安法体制下では、国家の安全を守るために様々な犠牲はやむを得ないという考えがひろがり、それに軍事独裁政権の支配が続いて、軍事文化が支配していました。
韓国における拷問の歴史
 今再評価されている朴正煕は、1970年代「維新憲法」を発布しました。これはナチス憲法と同じようなものです。非常大権を大統領に与え国会議員の3分の1を大統領が指名する。今インドネシアでやっていることとよく似ています。そういう体制下で極端な弾圧をやりました。私の『獄中19年』という本に、国家保安法、思想転向の問題、70年代80年代の政治犯弾圧の問題、拷問の問題を書きました。その後、朴正煕が暗殺され全斗煥体制が現れます。これは後に「拷問政権」と呼ばれます。全斗煥はご存じのように、光州事件を起こし市民たちを虐殺して政権によじ登り、正統性も全くなしに軍隊の力を背景に統治しました。そこで1984、85、86年と非常に重要な拷問事件が発生します。それは眠らせないなどというなまやさしいものではなく、もろに拷問なのです。
 84年には、金大中氏の副総裁をやっていたキム・ブンテイ(金槿泰)氏が警察の治安本部でゆっくりと拷問されました。彼は非常に頭のいい人なので、その状況をすべて写真に撮るように記憶していました。また、拷問されている間、拷問台にくくりつけられ、水を飲まされたり殴られたりするわけで、そうするともう暴れようがないわけなんだけど、その時に足のかかとがすりきれて大きなカサブタができるわけです。彼は刑務所に移ってから、落ちたカサブタを証拠として確保したのですが、刑務官が部屋からそれを奪い取ろうと大乱闘になった。結局それが証拠になった。それまでは、面会もさせない、弁護士にも会えない状況がずっとあった。拷問というのは人の見ている前ではやらないもので、傷痕が残らないと証拠の確保も難しいわけです。3ケ月、あるいは70年代80年代の国家保安法事件だと6ケ月ほど、第一審が終わるまでは家族とも面会させない。するとたいがいの傷はみな治ってしまう。キム・ブンテイさんの事件は韓国で拷問事件の証拠を確保できた初めてのものです。
 85年にコン・ニスク(権任淑)さん。これは警察署で刑事が性拷問、レイプした。彼女はたいしたことをやったわけじゃない。大学生で、労働運動をするために住民登録証という身分証明書を偽造して工場に入った。大学卒業とか大学教育を受けた人は工員として採用しない。不穏な思想を持って労働者たちを扇動・組織化する恐れがあるということで、中卒・高卒しか取らない。その為に身分証を偽造して大学を中退し、自分は中学しか出ていないということで工場に通っていたのです。彼女が捕まって「非合法組織の仲間をはけ、自白しろ」ということで刑事が宿直室でレイプしたのです。これは本人が大変な勇気をもって面会に来た弁護士に言った。この時も何ヶ月も経って証拠がないということで、権力は一貫して「レイプ事件はなかった、女性が革命の武器として性をおとしめる為に嘘をついている」という大キャンペーンをやりました。弁護士のチョウ・ヨンネ君という人が大変な努力をして事件に関する告発文を書き、状況証拠をつなぎ合わせていった。それだけではだめだったろうと思いますが、これらの拷問被害者がソウル大学生か卒業生だったから、社会から注目を受けることができた。だが名もない労働者や農民、三流大学の学生などでは世の中が注目しない時代だった。コン・ニスクさんの場合、女性を中心として非常に大きな反発が起こって、権力としてはそれを認めざるを得なくなった。密室の中でレイプをされて直接証拠がない中で、刑事を有罪に持ち込んだという、非常にまれな事件です。
 86年の朴鐘哲事件。彼もソウル大学生ですが、彼は何もしていない。一人っ子で親が絶対学生運動をするなということで、学生運動をできないことに罪の意識を感じていた。彼が一緒に下宿していた学生が学生運動をして指名手配され逃げていた。彼は友人がどこに逃げたか言えと引っ張って来られただけです。解剖の結果電気ショックという説もあるが、水拷問で殺したらしい。政府は一番最初拷問で殺した事実を否認していました。取り調べの刑事が怒鳴りつけて机を叩いたらその音に驚いて心臓マヒで死んだと発表した。注目を集めた事件なので、3人の医者に解剖所見書を書かせた。もちろん政府が心臓マヒで死んだという所見を書けということで、それに基づいて発表したのだが、うち一人の医師がカトリック信者で自分の良心の呵責に耐えかねて、心の中の重しを取るために、誰にも言わないということで神父に「告白」したのです。心臓マヒで死んだのではない、医者の所見によると肺の中に水が一杯たまっていたそうです。神父は職業上の秘密として誰にも明かしてはならないのですが、放ってはおけないということで暴露した。それが1986年6月の全国的な暴動状況、6月市民大抗争という大事件となった。このような拷問政権が多くの人々の怒りと立ち上がりで倒れた。
韓国が何故拷問禁止条約を批准したのか
 韓国が拷問禁止条約を批准して、日本が批准しない理由ですが、OECDのように先進国の仲間入りをしたい。もう一つは光州事件以降の内外にある拷問政権というイメージを何とか拭い去って、前政権と新政権との差別化したいという動機が一番大きかったと考えます。
 立派な憲法を持ち、国際条約を批准した韓国が今どうなったのか。韓国の最大の問題は国家保安法です。自由だ民主主義だといいますが、それをすべて留保できる、憲法の上に立つ法律が存在している。国際条約の上に立つ法律があるということが重要なことです。
 最近の事件にそくして言いますと、1997年8月の「赤狩り」、韓国学生自治会総連合が8月15日に行なった、統一を要求する集会に対する大弾圧がありまして、学生6000人を逮捕した。朝鮮戦争以降最大の弾圧です。いわゆるアカ、共産主義勢力が大学を牛耳っている、北朝鮮シンパが牛耳っているということで大々的に弾圧を始め、今年の5月にはソウルで学生と機動隊が対峙していました。その中で、真実かどうか定かではないのですが、情報員であったとしても決して正当化されないわけですが、学生が情報員と目された市民を引きずりこんでリンチして殺した。それをもって学生運動全体を非合法化する、利敵団体ということで学生運動に対する文字通りの魔女狩り、代議員をみなしらみつぶしに捕まえて、転向に同意しない限り監獄に放りこむ。もちろん社会全体で、そういう人間には人権はないとする雰囲気を作って、殴っても蹴っても誰もそれに文句を言う人はいなかった。
徐俊植氏への弾圧
 「赤狩り」は弟の問題とも関係します。弟は韓国で人権団体をやっており、その団体が昨年から人権教育の一環として人権映画祭をやってきました。今年2回目なのですが、韓国には講演法というのがあって映画をやるにも事前検閲があります。しかしこれは矛盾ではないか、検閲制度そのものに反対するのが人権運動ではないかということで、検閲を突っぱねて開催を強行した。開催をするにあったって政府は不許可方針を出し、会場を借りる事ができなかった。そこで大学の自治会と協議して、大学でやることになったのですが、学校当局はこれを禁止し、電気を切ったり教室に鍵かけたりして、最後には機動隊が導入され接近できないようにもしたし、現住住居侵入罪で告発もした。
 今回弟は6つの罪名で起訴されました。不法侵入、ビデオとレコードに関する法律、講演法、国家保安法。それから保安観察法といって政治刑法によって服役した者は、その後警察署長に3ケ月に1度自分の行動、誰と会って、金をどのように使ったか、誰に手紙を出したか、もらったかということを、みな報告しなければならないという法律がある。報告しないと2年以下100万円以下の罰金で、逃亡隠匿は3年以下です。政治集会に参加したりするときには警察署長の許可がいる。一週間以上の国内旅行、国外旅行は外務大臣の許可と法務大臣の許可をもらわないとだめで、実質的には禁止する法律です。この法律にも引っ掛かったでしょう。もう一つは寄付金募集に関する取締法で、正式に講演という形で届けを出せば不許可になるので映画会として会費を取らないでカンパをとるということでこの法律に引っ掛かった。
済州島四・三事件
 上映した映画、「レッドハント」は済州島四・三事件を扱っています。1948年4月3日に済州島で単独選挙樹立、すなわち南北が分断したままで大韓民国という政権を生み出すその選挙の実施に反対して立ち上がった蜂起に対して、アメリカ軍と政府は徹底的な弾圧を行った。済州島の人口が当時26万とも28万とも言われていますが、ほぼ1年の間に最低でも3万人、最大で7万もの人を殺した。また2万人位が日本に逃げた。当時は不法入国、密入国と言われましたが、今でいう政治難民です。50年近く誰もこの事件について触れられなかった。この事件に触れることが国家保安法違反となり、軍隊や警察だけでなく右翼団体がやって来て殴り殺したりした。これはキム・ソッポン(金石範)先生の『火山島』という本が扱っているテーマです。そういう事件ですがようやく近年扱えるようになった。済州島島議会では特別調査委員会を作って、今年1月に1万5千名の被害者の実名を乗せた報告書を出しました。その中で済州島四・三事件のドキュメンタリー映画が何本も生まれた。「レッドハント」もその中の一つですが、弟がそれを上映したことが口実でした。この映画は9月釜山での国際映画祭に出品され上映された。その時は事前検閲受けて上映され、問題なかった。それから10日位後の人権映画祭で上映されたことに対して「利敵行為」、北朝鮮に利益を与えるということで国家保安法違反となった。米軍と大韓民国政府の残忍な姿を描いて誹謗しているというのです。映画は生存者の証言と、米軍が記録した映像で構成されている。女子供を殺して死体が山積みとなっている場面は米軍が撮っていた資料が秘密解除になり、公開されたものです。別にねじ曲げて映画を作った訳ではない。弁護士が「なぜ釜山では問題がなかったのに?」と聞いたところ、検事は「誰がどういう意図でやるかが問題だ、映画自体の問題ではない」と言ったそうです。近代法では内心で何を考えようとそれを処罰できない。ところが、「誰がどういう意図でやったかが問題だ」と近代国家である韓国の検事が言っている。
 この事件の直前に金大中氏が講演で「自分が大統領になったとしたら、国と民族を愛したというだけで監獄に入れられた人、暴力を使わず、共産主義者ではない『良心囚』については釈放する」と発言しました。以前の彼の発言から比べると非常に保守的で後退したものでしたが、与党はこれにかみついた。特に政府は「韓国には『良心の囚人』は一人もいない。韓国は民主化された国だ」と反論しました。しかしアムネスティの報告では今も900人近くが捕まっている。学生運動に対する弾圧で1000人近い人が捕まっている。しかし、政府側は「『良心囚』などいない。彼らは共産主義者ではないか。それでも金大中氏は『良心囚の釈放』を言うのか」、と論争になりました。私の弟は林弁護士との面会でも、「自分の事件が韓国に『良心囚』がいるかいないかの決着をつける契機になってくれれば」といっています。弟は韓国のNCC(韓国キリスト教会協議会)の97年人権賞を受賞しました。済州島関連でいくつか映画が作られていますが、「レッドハント」はその中で特別にいい映画ではないが、韓国の芸術運動系の団体から今年の作品賞に選ばれた。韓国では弾圧を受けたから、逆にこの映画の上映運動が全国で行われ、ベルリン映画祭の出品候補作品にも選ばれました。弾圧を通して、むしろ権力の方が損をしたのではないか。済州島四・三事件は今から49年前の出来事で、来年は50周年です。済州島の人は何とかこれを機会に真相解明、名誉回復、賠償を実現するための運動をやっています。本土では大統領選挙の狂乱状態の中で、関心は薄かった。ところが弾圧事件によって有名になり少々関心が出て来た。もちろん弟は少し苦労をするだろうけれど、苦労を意味のあるものとするため、事件を多くの人に知らせて、分断状況や国家保安法からくる問題のない東アジア、朝鮮半島にしていく必要があるだろう。
東アジアを貫く拷問廃止運動を
 最後に、私たちは韓国、沖縄、台湾、日本の方とも一緒に「東アジアにおける冷戦と国家テロリズム・国家による暴力」という国際シンポジウム運動をやっています。今年2月に台北で第1回目を行いました。台湾・蒋介石政権下、50年代前後には、5000人を銃殺、1万5千人を投獄、太平洋の真ん中にある監獄島に流刑にするという非常に恐ろしい弾圧が行われた。
 こういった台湾の状況を踏まえて台北で300人が集まってシンポジウムをやりました。シンポジウムやるだけではなく、公開学習会や、ミニシンポジウムをやって、学習資料や報告集を出して、運動を日常化しています。来年は東チモールのラモス・ホルタ氏を迎え、済州島で四・三事件50周年ということでシンポジウムを行う。再来年は沖縄でやろうと思っています。
 韓国における戦後の権力による弾圧は済州島だけじゃない。朝鮮戦争前後に、普通の人達が戦闘行為によらないテロ・虐殺によって100万人も殺されたという研究がなされています。しかし済州島事件は単一の事件では最大です。光州事件、天安門事件と比較しても、23万人位のうち3万が殺されたというのは、戦争状態でない中で起こった虐殺では東アジア最大です。この国際シンポジウム開催を通じて、真相解明と賠償に弾みをつけたい。
 拷問を防止する法律は、もちろんないよりあるほうがいいのは当たり前ですが、韓国を見ても分かるように、法律があれば足りる訳ではない。日常的な監視や批判だだけでなく、構造的な国家の暴力に対して根底的な批判をして行く運動がなければ、韓国で拷問はなくならないと思います。私たちのやっていることは少し迂遠なことと思われるかも知れませんが、冷戦時代にあった様々な犯罪を今こそすべて明るみに出し、これを徹底的に批判することによって、冷戦時代に逆戻りしない時代を作っていかなければならない。私は法律技術者ではないし専門的な話はできないが、東アジアにある歴史的な諸関係、アメリカがヘゲモニーにをとり日本が共犯者となり軍事独裁政権がやってきたことを徹底的に暴露し批判していくことが、拷問反対運動の大きな仕事だと思います。