未決勾留中の中国人女性が適切な
処遇を受けられないまま流産

小川 英郎 (第二東京弁護士会)


 オーバーステイで逮捕された中国人の女性が、代用監獄と拘置所で適切な処遇を受けられないまま勾留中に流産してしまい、「代用監獄と拘置所での妊婦に対する著しく不適切な処遇が原因で流産した。」として、1997年6月20日、国と東京都を相手取り東京地方裁判所に国家賠償請求訴訟を提起した。

 訴えを起こした福建省出身のSさん(34歳)は、提訴時の記者会見で、「妊娠していて悪阻(つわり)がひどく、流産の心配があったのに、何らの特別な配慮を受けられなかった。」と涙を流して訴えた。
 Sさんの裁判は、現在8人の弁護団で進めている。下半身からの出血や腹痛等の症状を訴えていた妊婦に対して、何らの適切な処遇をせず放置した拘禁当局の責任を追及し、Sさん自身の権利の回復を図るとともに、拘禁されている病者や妊婦等、格別の配慮が必要な人たちの権利を確立することで、二度とSさんのような事件が起きないようにしたいと考えている。

 Sさんが逮捕されたのは、1997年3月3日のことだった。逮捕当初から、体に異変があり、3日後の3月6日には、東京地方裁判所での勾留質問の際、激しく嘔吐して妊娠していたことを確信したが、逮捕した警視庁上野警察署は、Sさんを産婦人科のない病院へ連れていき、Sさんは、「急性胃炎」と診断されて胃炎の薬を与えられた。Sさんが産婦人科の診察を受けることができたのは3月17日になってからで、妊娠7週と診断された。

 警察の代用監獄では、毎日、食事を食べては吐くといった状態が続き、多いときで日に10回くらい吐いていた。Sさんは、胎児のために栄養補給が必要だと思い、食べても吐かずにすむ果物が食べたいと看守に何度も訴えたが、拒否され続けた。「せめて牛乳がもらえないか」と看守に頼んだが、これも規則を盾に拒否された。

 代用監獄では、自費で昼食だけは出前を取ることができるが、そのメニューは、うどん、そば、丼物等に限られ、それ以外のものは受け付けられず、Sさんは仕方なく、このような店屋物を注文して食べては、やはり吐いていた。
 また、果物の差し入れも規則で許可されるのは、バナナ、みかん、リンゴのどれか一種類だけ、しかも、一日一個だけであり、それも決まった食事の時間にしか食べることが許されず、せっかくの差し入れも食べられないことがあった。

 このような警察当局の処遇は、悪阻症状で食事を定期に取れない妊婦に対する栄養補給の機会を奪うものだ。Sさんのような妊婦に対しては、食べられるときに、食べられるものを食べさせるような柔軟な対応が当然求められるにもかかわらず、警察当局は、何らの格別の配慮をすることなく、胎児の成育を阻害するとともに、Sさんを不安なままに放置して精神的に苦しめた。

 Sさんは、3月26日に、産婦人科で診察を受け、医師が胎児が正常であることを確認したが、下半身からの出血が続いており、Sさん自身は流産の危険を感じていた。
 Sさんは、4月2日になって、拘置所に移され、入所3日後、これまでになく下腹部の痛みがひどくなり、半身が麻痺したような状態になったため、夜勤の看守に訴えたところ、「夜勤で皆帰っていない。明日は日曜で休みだから月曜でないと診られない」と言われた。
 ところが、月曜日になってやって来たのは医師ではなく、看護婦だった。この看護婦は房の窓越しに「どこが痛いのか」声を掛け、Sさんが「腰と腹が非常に痛い」と訴えると、「寝過ぎるからだ」と罵るように言い放ち、Sさんが「本当に腹が痛いのです」と言っても、取り合おうとせずそのまま去っていった。

 この看護婦の態度にSさんは、絶望的な気持ちになったという。「所詮、いくら頼んでも、だめなのではないか」、と。Sさんは、それでも、医師が来るのを待っていたが、結局医師は来なかった。

 Sさんが拘置所で初めて医師の診察を受けられたのは、17日後の4月22日のことだった。この時、胎児は既に死亡しており、医師から「胎児はもういない。かわいそうに」と言われ、Sさんはその場で泣き崩れた。

 Sさんは、裁判を起こした動機について、法廷で次のように述べている。
 「生まれてはきませんでしたが、私の赤ちゃんも一つの命に違いありません。あのつらい状態で何回も医師を呼んでくれと言ったのに聞き入れてもらえませんでした。なぜ、私に対する彼らの態度はあんなにも悪かったのか、なぜ、妊婦に特別の待遇がなかったのかと思います。」

 Sさんは、懲役2年、執行猶予3年の判決を受け、提訴の翌日、強制退去手続によって、本国に帰っていった。いまだに体調がすぐれないという手紙が後日届いた。
 Sさんに対する当局の対応には、「被拘禁者は一般市民より低い存在なのだから、多少のことは我慢しろ」といった考え方が露骨に現れている。

 拘禁されているからといって、病気や妊娠の場合にまで、適切な医療を受ける機会を制限される理由はない。また、病者や妊婦等の弱者に対しては、身柄を拘束している以上、拘禁当局には、進んで格別の配慮をすべき義務がある。Sさんは、外国人で意思の疎通が悪かったのだから、当局は、Sさんの様子をよく見極めて、流産などの事態を避けるような格別の配慮をすべきであった。

 私たちは、裁判を通じて、当局はSさんに対して、どのような処遇をすべきだったのかを明らかにし、当局がそのような措置を取らなかった責任を追及し、前近代的な日本の拘禁システムの変革を目指していきたいと考えている。