府中刑務所、革手錠・保護房暴行事件で新たな国賠を提訴

福 島 武 司 (横浜弁護士会)


 96年11月11日、府中刑務所での事件で新たな国家賠償請求訴訟を東京地方裁判所に提起しました。以下、訴状から事件の内容を説明します。

革手錠・金属手錠の併用、保護房への収容
Xさんは2年の実刑で府中刑務所に服役中の1994年2月28日午前7時頃、雑居室において同囚と口論になり、全治5日の傷を負わせた。事件直後、駆けつけた職員2名に両腕を背後に曲げられ五舎独居1階に連行された。
Xさんは暴れてはいなかったが、独居に待機していた当直看守長、係長(以下、「A係長」)に床にうつ伏せにされて、両腕を前後に曲げられ金属手錠を、さらに革手錠を掛けられ、革ベルトを革手錠に通して両腕を固定された。A係長は背中を土足で踏みつけながら、革ベルトを腹部に締め付けた。Xさんの革ベルトはどうにか息ができる程度で、職員に両腕を取って起こされ、近くの保護房に隔離された。しかし、革手錠で両腕が前後に固定されていて、横になることもできず、両足を投げ出した姿勢で、壁に寄りかかったまま一睡もできずに一夜を過ごした。
不法行為
翌3月1日午前7時すぎ頃、保護房にA係長と職員(以下「B看守」)が来て、座っているXさんの両脇にしゃがみこんだ。A係長はXさんに「飯を食わせてやる」と言った。Xさんは戒具で締め付けられ一睡もできなかったため食欲がなく、「食べたくありません。たくさんです」と断ったところ、A係長が「いいから食え」と強い口調で言い、レンゲのようなもので、Xさんの口の中に無理矢理ご飯を押し込んできた。そして、Xさんが抵抗できずになすがままにされていると、A係長は、四度、五度とご飯を口の中に無理矢理押し込み、さらに味噌汁の器を口に押し付けて口の中に流し込んだ。Xさんは激しくむせび、「本当にもうたくさんです。許してください」と懇願したが、A係長は、「何がたくさんだ。親切に食わせてやっているのに」と言った。二人は食器を持ってすぐに保護房から出ていった。
 その直後、今度は東五舎担当の係長(以下「C係長」)を先頭に、A、Bの三人で保護房に土足で入ってきた。A係長は「そこにうつ伏せになれ」とXさんの肩を突いて床に転がし、更にうつ伏せにした。そして、「両足を上に、エビのように曲げろ」と言って、Xさんが曲げた両足首を持って押さえつけた。B看守はうつ伏せになっているXさんの左横から背中を両手で押さえつけ、さらにC係長はXさんをまたいで腹部を締め付けてある革手錠のベルトの留め金をはずし、今度はXさんの背中を土足で踏みつけて、さらに革手錠のベルトは肋骨と骨盤の間の柔らかい部分に食い込んだため、Xさんは息がほとんどできず、「ウー…」とうめき声を上げた。A係長は、「何が『ウー』だ。腹を引っ込めて息を止めろ」と言い、B看守に対し「もっと強く押さえつけろ」と指示した。これに応えてB看守は、Xさんの背中を押さえつけている両腕にさらに体重をかけて強く押さえつけ、C係長は無言で更に踏みつけている足に力を加え、まるで荷作りをするように革手錠のベルトを強く締め付けた。Xさんは目の前が真っ暗になり、その瞬間、胃の内容物を全部吐き出した。このときA係長は、「おお、吐いたな」と冷たく言い放った。C係長は、革手錠のベルトを強く締め付けた状態のままで、ベルトの留め金を固定した。
 その後3人の職員は吐いた汚物の中に顔を埋ずめたままのXさんを放置して立ち去った。
Xさんは腹部を異常に締め付けられながら、ただ生きることだけを考えて小刻みに必死に息を吸いながら、汚物から顔をあげ、腹這いで少しずつ移動して、保護房の和式便所の便器に顔を入れて顔を冷やした。そして換気口に身体をずり寄せ、換気口に頭をつけて小刻みに息を吸ったが、横向きのままでは時折息が詰まるため起き上がらなければと、食器孔の方向に少しずつずり寄って起き上がろうとした。
すると扉が開いてC係長を先頭にA、Bの3名が入ってきた。そして、A係長が「革手錠をはずしてやる」と言ってXさんをうつ伏せにし、A係長がXさんの両足を逆エビ状に曲げて押さえつけ、B看守は両手で背中を押さえ、C係長はXさんをまたいでから革手錠のベルトの留め金を緩めて再び足で背中を踏みつけ、ベルトの留め金をはずそうとした。

 しかし、ベルトがギリギリまで強く締め付けられていたため、留め金ははずれず、A係長がB看守に「もっと強く背中を押さえつけろ」と激しい口調で言った。C係長は革ベルトの留め金がはずれないことにいらだった様子で、背中を踏みつけている足にさらに力を加え、革手錠のベルトの先端に近い部分を両手に持ってXさんの身体を持ち上げるようにして、エビ状に反りかえしてから上下左右に振り回すなどして、ようやく革手錠の留め金をはずしたが、このとき革手錠のベルトが強く腹に食い込んだため、Xさんは一時的に意識をなくす状態であった。
Xさんは冷や汗で全身びっしょりであったが、やっと息ができるようになり、殺されずに済んだということでほっとした。
 革手錠及び金属手錠を解除されたのは、午前7時30分頃である。
 Xさんは革手錠及び金属手錠をはずされた後は放心状態となっており、職員らに対し、何らかの抵抗ができるような精神的・肉体的状態ではなかった。したがって、Xさんが職員らに暴行を加えるおそれ、すなわちXさんを保護房に閉じ込めておく必要性は一切無かったのである。それにもかかわらず、Xさんは、翌日の3月2日午前9時30分頃まで保護房に収容されていた。
国家賠償請求訴訟を提起
 Xさんは、本件不法行為発生当時、既に66歳と高齢であり、体力もかなり衰えていたため、右のような職員らによる一連の暴虐行為の過程においては、現実に死を覚悟するような状態でした。このような暴行が許されてよいはずがありません。Xさんは96年11月11日に国家賠償請求訴訟を東京地方裁判所に提起しました。
 Xさんは現在69歳。「残りの人生を賭けて、世論に訴える決意」とのこと。CPRニュースレター第6、8、11号などにあるとおり、府中刑務所での革手錠・保護房による拷問とも言える暴行に対し、あいついで訴訟が提起されています。弁護団ではこうした訴訟をとおして現実的な処遇改善を勝ち取っていくことをめざしています。
第1回口頭弁論期日は現在のところ未定です(3月中旬頃の予定)。傍聴を希望される方はCPR事務所宛お問合せ下さい。

出所者の社会復帰と福祉行政〜Xさん国賠訴訟で考えたこと

田 鎖 麻衣子 (第二東京弁護士会)


Xさんが出所したのは1996年5月20日。満期出所である。出所の前から、私たち代理人は彼との接見の中で、まず、訴訟を追行していくための基盤作りを先行させなければならない必要性を強く感じていた。Xさんは当時69才。所持金は作業賞与金8000円程度。その他の財産はもちろん、家族もない。一歩外に出たその日から、まずどうやって生活するかが切実な問題だった。ところが本人は、身柄拘束当時はまだバブル崩壊直後で、年齢的にもまだ老人とは言えなかったこともあり、まるで切迫感がない。「いえ、大丈夫です。出たらすぐ保護会に入れてもらって仕事を探すし、だめだったら知り合いのところで働きます。」「そうは言っても、保護会に入れてもらえるのは限られた人たちだし、今はまだまだ不景気で、年齢的にも仕事を見つけるのは難しいですよ…」と、私たちが口酸っぱく言っても本人は至って楽観的。出来れば当日は出迎えたかったが、あいにく1日刑事法廷があった。とりあえず知人から、都内の福祉事務所で即日宿泊施設の提供を受けられるということを聞き、保護会に入れないときはその福祉事務所へ行くように指示しておいた。 出所当日。まず、東京保護観察所のある霞ヶ関から電話があり、保護会への入所を申し入れたが「紹介はしない」と門前払いにされた、とのこと。そこでXさんは予定通り今度は福祉事務所へ行った。ところがここでも彼は拒否されたのである。理由は、「横浜刑務所から来たのなら横浜の福祉事務所へ行け」。すっかり意気消沈したXさんは私に電話で、「わし、やっぱり裁判やめます。」残りの人生を賭けて裁判を闘い抜くと意気込んでいた元気なXさんは、どこにもいなかった。
ところがこの彼の電話に、短気な私は怒りを感じてしまった。これまで苦労して準備してきたのに、いまさら勝手に何を…。これは代理人の思い上がりであったと思うが、どうしても諦められなかった私は福祉事務所に電話をかけた。「刑務所を出所したばかりの身寄りのない69才の男性が窓口へ行ったが追い返された。私は彼の訴訟代理人となる予定の者だが、これは一体どういうことか事情を伺いたい」。抗議電話ではなかったのだが、役所は非常に慌てた様子であった。特に、Xさんが実年齢より若く見えたため、深く考えもせず追い返したらしい。この後、再度役所に行ったXさんは、とりあえず宿泊施設に入れることになり、約1週間後には生活保護を受けられることになって、現在に至っている。

CPR関係者にも出所者の社会復帰に実践的に取り組んでおられる方が少なからずいるが、本件は、出所前から本人と弁護士が連絡を取っていたがゆえに実現した、極めて異例なケースと言って良いであろう。日本の更生保護行政・社会復帰プログラムの貧困さと改善の必要性を身を持って痛感した。