「国連人権委宛発信不許可国賠」「読売新聞投稿発信不許可国賠」に控訴審判決

「国連訴訟」に一部勝訴、「投稿訴訟」は敗訴判決。
益 永 美 幸


 「戸外運動の制限について救済を求めた国連人権委員会宛人権救済申立ての発信不許可」「『死刑執行の再開に思う』と題する読売新聞への投稿文発信不許可」について、東京拘置所在監の死刑確定者・益永利明さんが拘置所=国を相手に、処分の取消しと損害賠償を求めていた通称「国連訴訟」の控訴審判決が昨年10月30日、東京高裁第五民事部で言い渡された。1995年11月の一審判決は益永さんの訴えを全て退けるものであったが、今回の控訴審判決では、国連人権委宛発信について、不許可処分の取消しと3万円の損害賠償を命じた。しかし、投稿文の発信については一審判決を踏襲し、死刑確定者にかけられている極端な外部交通制限の実態を切り崩すものにはならなかった。
 法務省矯正局は1963年に、接見及び信書の発受許可を与えないことが相当なケースを(1)本人の身柄の確保を阻害し又は社会一般に不安の念を抱かせるおそれのある場合、(2)本人の心情の安定を害するおそれのある場合、(3)その他施設の管理運営上支障を生ずる場合とする通達を出した。また、東京拘置所では、死刑確定者との外部交通を許可する相手方は、(1)本人の親族、(2)訴訟代理人弁護士、(3)再審請求弁護人、(4)その他本人の心情の安定に資すると認められた者についてのみ原則として許可し、例外として(5)裁判所又は権限を有する官公署宛の権利救済を目的とする文書の発信等については、本人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認められる場合に限って許可するという「一般的取扱基準」を設けている。
 これらの制限事項にはなんら法的根拠がなく、法律に則れば、本来、死刑確定者の外部交通は刑事被告人と同様に原則自由であるべきなのだが、今回も裁判所は法務省通達及び東京拘置所の取扱基準について合理性を認定した。その上で判決は、東京拘置所の「一般的取扱基準」の適用は、死刑確定者の拘禁の目的等を達成するために認められる合理的な裁量権行使でなくてはならず、特に公的機関に対して、自己又は自己を含めた同じ立場の者の権利救済を求める通信発信については、その制限は慎重になされるべきであるとしている。拘置所=国側は、国連人権委の決定には法的拘束力がなく権利救済にはあたらないと主張しており、一審判決も、益永さんが試みた1503通報(国連経済社会理事会決議1503に基づく通報)は権利救済のためには迂遠かつ非現実的な方法であり、真に自己の権利に対する侵害からの救済を求めたいのならば、国内において訴訟などを通じて救済を求めよ、としていた。しかし、控訴審判決では、このように結果として所長が発信者の権利救済の実効性等について最終的判断を先取りするような決定はするべきではないと述べている。そして、1503通報の性格、処理方法について一審同様の見解を述べながらも、戸外運動制限という人権救済を目的とした文書であり、『我が国も加盟する国連の一機関であって権利救済の機関として権威と実績を有し、広い意味において我が国の官公署に準ずる期間と見ることもできる』とし、この国連人権委宛発信は、東京拘置所の取扱基準のDに該当するとともに、発信を許可することで、法務省通達が想定しているような弊害が生じるとは考え難い。したがって、発信不許可処分は所長の裁量権濫用であると認定した。  ところが、読売新聞宛の投稿文については、東京拘置所の取扱基準のみから判断し、新聞社は外部交通を認める相手方に含まれておらず、権利救済を目的とする文書でもないから取扱基準のDにも該当しない。したがって発信不許可処分は適法であるというのだ。このように東京拘置所の取扱基準は、死刑確定者の外部交通を「すべて原則不許可」とした上に成り立っているものであり、これは違法であるばかりか法務省通達をも曲解したものなのである。こんなものに合理性があるなどとどうして認定できるのか。
 海外、特に欧米では死刑確定者がテレビカメラを伴った取材に応じ、自己の意見を表明することも珍しくない。ところがこの国では、接見や文通の相手は弁護士と拘置所側が認めた親族のみ。マスメディアの取材はおろか、新聞に投稿文を寄せることさえも禁止され、憲法が保障する言論の自由、表現の自由を全く奪われるのである。特に、国際的な死刑廃止の流れの中、この国においても「死刑」について国民的議論が求められている今、死刑確定者自らが死刑制度について広く論じ、議論に加わることは非常に重要であり、当然のことではないだろうか。
 今回の判決を受け、益永さんからメッセージが届いた。『死刑確定者の外部交通は刑事被告人と同様に原則的に自由であるべきだという私の主張からはほど遠い内容なのです。現行実務をくつがえす勇気のある裁判官はもはや下級審には一人もいないのだろうと考えざるをえません。あとは最高裁判事の良識にいちるの望みを託すしかないようですね。最高裁を動かすには世論の後押しがいります。死刑確定者から言論の自由を奪うのはおかしいという一般市民の声を、新聞・雑誌の投書欄等を通じて、できるだけ多く最高裁に届けてほしいと思います。』
 上告審にも注目を。