暴行看守の氏名が国家秘密?
国指定代理人が看守氏名の証言拒否を通告

海 渡 雄 一


国指定代理人から証言拒否通告

 CPRニュースレターでも継続的に取り上げてきた横浜刑務所のHさん事件(News Letter 5、6号参照)で原告が、原告に対して暴行など人権侵害を行ったと指摘している看守の氏名について、国側の指定代理人が証言を拒否することを通告してくるという事件が持ち上がりました。この事件は、横浜刑務所に受刑中に原告のHさんが看守からひどい暴行や革手錠をきつく締め上げられたなど人権侵害を受けたことに対して国家賠償請求を求めている裁判です。原告側の代理人は私と田鎖・松井の両弁護士です。
 96年11月29日の口頭弁論で予定されていた証人尋問はMという幹部看守証人の反対尋問だったのですが、主尋問では、Hさんの事件で直接彼と相対した看守の氏名は「あいうえお」の符号で表示し、実名を明らかにしませんでした。
 従来このようなケースでは反対尋問で、符号で表示されている看守氏名を尋問すると「忘れた」などと言って答えなかった例はありますが、ほとんどの場合は証言に応じ、直接行為者を特定することができ、その看守をさらに証人申請して証人尋問するというやり方を取ってきました。幹部証人への反対尋問では、伝聞ですから、成果を上げることはほとんど不可能ですが、直接行為者への反対尋問では様々な矛盾がでてきていくつかの成果を上げてきている実態がありました。
 ところが、今回は証人尋問の2日前になって国の指定代理人は反対尋問に先立って、主尋問に登場したほとんどの看守氏名を証言拒否すると通告してきたのです(書面の裁判所への提出は4日前)。国の主張は看守の氏名が「職務上知り得た秘密」に当たり、看守の氏名が法廷で明らかになると業務の支障をきたすというのです。

背景は監獄人権センターの活動への危機感か?

 証言拒否の対象となった看守の中には原告側では原告に暴力を加えたと主張している直接行為者が含まれていました。その氏名が特定できなければ証人申請すら不可能となり、事件の真相の究明は極めて困難となってしまいます。
 このような極端な対応は、この間成果を上げてきた監獄人権センターの訴訟活動に危機感を募らせた法務省当局の一部が独走し、看守氏名を国家秘密とすることで、原告側の立証手段を奪い去ろうとしたのだと推定されます。ここで悪い先例を作られてしまうと、今後の監獄訴訟全体に重大な悪影響が生ずるおそれがありました。

裁判所の判断が及ばない行政上の秘密

 通常証人が証言を拒否した場合にはその証言拒否が民事訴訟法に合致したものであるかどうか裁判所が裁判を行って判断を示すこととなっています。ところが、民事訴訟法272条、281条、283条によりますと、行政庁が職務上の秘密として、証言拒否した場合には行政庁の判断が優先し、裁判所が証言を命ずることができないとされています。
 今年の春、民事訴訟法の改正の際に文書提出命令についても同様の規定が設けられようとして日弁連の会を挙げての反対などによってようやく削除されたことは記憶に新しいところです。元々、この民事訴訟法の規定自体が行政秘密を司法権の監督の外に置くものであり、現代の情報公開の考え方に真っ向から反するものとされてきました。これまで実際に発動されることのほとんどなかったこのような規定が新たに発動されようとしたのです。もしこのやり方がまかり通っていれば、ただでさえ、「密行主義」と呼ばれる日本の拘禁施設の実態は法廷の場でも明らかにすることができなくなっていたでしょう。

公務員が匿名性に逃げ込む事は許されない

 監獄人権センターは、被拘禁者の人権保障のためには公権力の行使を担当する警察官、刑務所の看守などの職業に就くものは常に名札を着用すべきであると考えています。国連の被拘禁者保護原則では取り調べに当たる警察官の氏名の記録と弁護人への開示を定めています。現実にスウェーデンの刑務所ではすべての看守がネームプレートを着用していました。公権力を行使する公務員が氏名を明らかにして行動することは拷問を防止する上でも、基本的な要請と言っていいでしょう。権力を行使するものが匿名性の後ろに隠れ、法廷ですら氏名を明らかにしないと言うことでは人権侵害を防ぐことは到底不可能です。

緊急記者会見をひらく

 事は緊急を要すると考えて、私は、証人尋問の前日の28日11時に司法記者クラブに行って資料を作って事情を説明しに行きました。アポイントなしで行ったのですが、幹事社が人を集めてくれ、ほとんどの社が参加した臨時記者会見のようになりました。外国報道機関や知り合いの週刊誌記者にもファックスをしました。春の民事訴訟法改正の際の文書提出命令の話を下敷きに話したので、「暴行を働いた看守の氏名が国家秘密だなんてあまりにもひどい。こんな事を認めてしまったら人権侵害の歯止めがなくなる」と言う私たちの思いは記者たちにもよく通じたようでした。

打ち破られた、証言拒否の策動

 当日の法廷では結果的には、暴行を行ったと考えられる看守など当方から証人申請予定の看守4人の氏名が明らかになりました。経過は次の通りです。
 期日の冒頭に原告側代理人から「公務員とりわけ違法行為を行ったと指摘されている公務員の氏名が国家秘密に当たるとは到底考えられない、これまでの法廷では氏名の証言がされてきたのであり、同じ裁判部の他の監獄事件で、氏名は職務上の秘密に当たらないと言明した指定代理人もいたではないか。監獄内部で、氏名は秘密として管理されていなかったことは明らかで、それを秘密だと言い出したのは、明らかな訴訟妨害だ。もし本当に国が証言拒否させるのであれば徹底的に争う」と主張した上で、妥協案として、4人の原告側で申請予定の証人の氏名を明らかにすれば他の看守については敢えて尋問の中で氏名の尋問はしないと述べました。被告側から既に3人の幹部証人が申請されており、これらの証人については符号との対応関係もわかっていました。全体で7名の看守を調べれば真実はおおかた判明するだろうと言う判断です。
 原告の意見を受けた裁判所からも、指定代理人に対して、法務省として、証言拒否の態度について再検討するように勧告がありました。休廷時間中に訟務検事が法務省訟務局に電話して相談を行い、法廷で原告の指定した4人については証言することについて、「行政庁の承認を得ましたので、尋問していただいて結構である」と態度をコロリと変えたのです。

大きかった、報道機関の姿勢

 このような法務省の姿勢の急変には裁判所からの勧告とともに、報道機関の動向も影響していました。28日夕方には既に共同通信が今日の公判で証言拒否がなされる予定という記事を配信していました。法廷にも朝日、読売、共同、時事などの多くの記者が傍聴に来ており、証言拒否が実際に起これば大きく取り上げられそうな雰囲気に訟務検事は青くなっていました。このような攻勢が法務省の態度変更に大きく影響したものと考えます。

監獄訴訟にとっての重大な先例

 とにかく、刑務所の中を秘密のベールで覆ってしまおうと言うたくらみは何とか押し返すことができました。今回の一連の経過は、監獄訴訟における重大な先例を作ったものと言っても決してオーバーではないと思います。今後国としては、不法行為の請求原因事実を構成する重要な役割を持つ看守氏名については常に明らかにしなければならなくなったのですから。とはいえ、これからも様々な法務省からの巻き返しが考えられます。我々の関与していない監獄訴訟で悪い先例を作って、それをてこに巻き返しを図ろうとするかもしれません。監獄訴訟の原告側のネットワークを拡大し、不当な干渉には機敏に対応できる体制を確立しておく必要があります。