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判例解説

信書の発信の阻止が刑務所長の裁量権の逸脱に
あたることを認定した熊本地裁判決
水 谷 規 男 (三重短期大学)


一 はじめに

 1996年1月26日、熊本地裁は、受刑者が母親宛に発信しようとした信書の文面に親族票に記載されていない知人の名前が記載されていることを理由に信書の発信を妨げたことが違法であることを認め、国家賠償を命ずる判決を下した。名目的な制限の理由があれば広範な施設長の裁量権が認められることが多かった受刑者の外部交通に関する国賠訴訟で、受刑者側の主張が認められた事例であるという意味でも、明確な発信不許可処分がなくとも、発信が許されない根拠を受刑者に対して明らかにすることなく事実上発信を断念させた、という形態の制限について訴訟上の救済を及ぼした点においても、この判決は注目すべきものである。
 なお、本件訴訟では、刑務所長が刑務作業終了後の洗体に使用する水量を制限し(これは施設全体の節水対策の一環であった)、その際石鹸でタオルを洗濯することも禁止した措置の是非も争われたが、この点については禁止措置によって衛生上の問題が生じた事実が認められないことなどを理由に、所長の措置は著しく不合理であることが明らかであるとはいえないとして原告の請求が斥けられている。以下では、信書の発信阻止に関する判示を紹介し、若干のコメントを付すこととする。

二 事案の概要

 本件原告は、懲役10年の判決を受け、1987年11月から熊本刑務所に在監する受刑者である。原告は、1991年4月5日、母親宛の信書を作成し、これを発信のため工場担当の看守部長に提出した。ところが、その信書には、知人2名(うち一人は母親の養子であり、法的には原告の親族にあたる)の名前を挙げ、それら知人と母親とがいっしょに写った写真を送ってほしい旨が記載されていたため、看守部長はこの知人2名が身分帳に記載されていないこと、当該部分が暗号である可能性が疑われることなどを理由に発信を許さず、当該信書を原告に返却した。
 原告は、この信書の発信阻止の措置が法律上の根拠を欠き、違法であると主張した。これに対し被告(国)は、看守部長は該当部分の書き直しを指導しただけであって、信書自体の発信を妨げたものではないと主張していたが、裁判所は、この指導に従わない限り発信が不許可とされる可能性が高かったこと、また、この指導に対して理由を追求したりすれば、「抗弁」として懲罰を受ける可能性があるため受刑者はこのような指導に従わざるを得ない状況にあったと認められることから、看守部長は指導を行うことによって発信を阻止したものと認定した。
 被告はさらに、信書に記載されていた知人の一人が暴力団員であることが判明したこと、文面で依頼している写真が差し入れが許されないもの(親族写真に限る取扱いがなされている)であったことを併せて主張した。これに対しては、裁判所は、看守部長が書き直しを命じた際に知人との関係を問いただしたわけではなく、信書自体を暴力団員である知人に宛てたものとみることもできないこと、写真が差し入れられた時の取り扱いの問題は、発信の許否とは関係がないことを指摘して、結局本件信書の発信阻止が親族票に記載のない知人の名前が記載されていたことの一事をもって行われたものであると認定している。
 そこで、裁判所は、本件信書が行刑目的を阻害し、監獄の管理運営に支障を生ずるものとはいえないと認定し、本件における看守部長の行為は合理的な裁量を逸脱し、監獄法47条1項の解釈を誤った違法なものであったと結論づけ、発信阻止による精神的苦痛に対する慰謝料として金3万円の支払いを被告に命じている。

三 コメント…結びにかえて

 冒頭に指摘したように、本件訴訟で争われたのは、施設長の明確な「発信不許可処分」ではなく、書き直さなければ発信が不許可になる旨を口頭で告げることによって発信を断念させる、という形の発信阻止行為である。本件判決は、このような制限であっても、発信を阻止した理由が適法なものでなければ、司法救済の対象になることを認めたものであり、画期的である。また、(判示からは必ずしも明確でないものの)本件判決においては、監獄法46条によって親族との信書の発受が原則的に許されていると解し、親族宛て信書については原則的に発信を許すべきものと位置づけられていると考えられる。従って、発信阻止が「合理的裁量」の範囲内にあるか否かの判断も、発信による支障が生ずることの立証責任を施設側に負わせたうえで行う、という構造になっているように思われる。
 さらに、このような考え方を推し進めれば、受刑者とその親族との信書の発受は、現行法の下でも一定の権利性が認められる、ということになろう。受刑者の信書について制限的にではあれ権利として規定する、という構造になっている刑事施設法案を念頭に置いて、行刑実務家自身が受刑者の信書の発受の権利を論ずるという傾向(例えば、森下忠他編『日本行刑の展開』(一粒社、1993年)177頁以下)の判例への投影が本件判決であると評することもできるのではないか、と考える。