conference in Spain

刑務所労働に関するワーク・ショップ

事務局 海渡雄一(第二東京弁護士会)


刑務所労働についての比較研究

 1996年5月9日と10日オナティ国際法社会学研究所主催のワークショップ「現代監獄法とその実践・刑務所労働に焦点を当てて」が開催された。日本からは主催者からの招待を受けて私と東京弁護士会会員の井口克彦さんがともに参加した。このワークショップを主催したオナティ国際法社会学研究所は、オナティ大学に併設された機関で、こじんまりした中にも、法社会学、とりわけ人権の分野では著名な研究所である。
 次の国から、国別のレポートが提出され、ないし、発表がなされた。イギリス(ウルシュラ・スマート、ジョン・バグ氏)、スペイン(ギメネス・サリナス、ジーマ・ベローナ氏)、ドイツ(フリーダー・デュンケル氏)、オーストリア(アルノ・ピルグラム氏)、ポーランド(ビグニュー・ホルダ氏)、オランダ(ミランダ・ブーン氏)、アメリカ(ジェイムス・ジャコブ氏)、メキシコ(ゴンザレス・プラセンシア氏)、日本、イスラエル(レズリー・セバ氏)、ボツアナおよびガーナ(クワム・フリムポン氏)、ナミビア(ゲイル・スーパー氏)、南アフリカ(ダーク・ファン・ジル・スミット氏)。また、これにつけ加えて、次の2つの一般的報告が行われた。「国際法から見た刑務所労働」(ジェラルド・デ・ヨンゲ氏)、「国連犯罪防止刑事司法委員会」(ラルフ・クレッチ氏)。参加者の多くは大学に籍を置く研究者であるが、政府機関からの参加や市民団体からの参加もあった。アジアからの参加が我々だけであったことは残念である。

スペインの山岳地帯の大学街

 このワークショップの開催されたオナティと言う町はスペインとフランスの国境に近い山岳地帯にある人口1万人程度の大学街である。スペインとは行っても、民族的にはバスク地方であり、研究所の建物も古い僧院をそのまま使っている。
 今回のワークショップを組織したのは南アフリカのダーク・ファン・ジル・スミット教授とドイツのフリーダー・デュンケル教授の二人である。お二人は、これまでに『拘禁』『未決拘禁』と言う2冊の国際比較研究の本を共同で編集されていると言うことである。  これらの研究所の中には日本についてのドイツの研究者の比較分析も収録されているという。今回のワークショップのプロシーディングスも、二人の編集で出版される予定とのことであった。この2冊の本はさっそく入手して検討してみたい。

強制労働の可否と労働の権利と

 今回のワークショップのテーマは囚人に対して強制的な労働を課すことの可否、囚人の労働に対する権利、労働と釈放との関係、囚人と労働法規との関係、とりわけ、刑務所で生産された商品を市場で売買することが許されるか、一般の労働法規、最低賃金、年金法などが刑務所労働に適用されるか、刑務所労働に対する報酬は支払われているか。国際人権法と刑務所労働との関係など多方面に及んだ。
 ほとんどのセッションが各国からの報告に費やされたが、最後に、国際人権法から見た刑務所労働の位置づけについてのヨンゲ教授の報告と、国連の最低基準の実施状況についての刑事司法委員会のクレッチ氏の報告があり、全体的な視点も得られた。
 我々にとって驚きであったことは、各国の刑務所のほとんどで、受刑者が失業しているという事実であった。このワークショップの開かれたスペインの場合受刑者の雇用率は1割から2割程度で推移しているという事である。スペインでは社会全体の失業率が3割にも達しているという。このような状態で、刑務所に仕事を見つけてくることの困難さは想像に難くない。アメリカからの報告も、刑務所で十分な労働を提供することがいかに難しいかに関する報告であった。メキシコからの報告も刑務所での労働と行っても、手作業程度しかなく、刑務所内でのあらゆる基本的権利の侵害状況の是正こそが求められているとの報告があった。
 このような実状の背景にはもちろん、社会全体の失業率の高さが大きく影響しているが、さらには、刑務所労働に最低賃金を保障するとか、刑務所の製品を一般市場では販売できないなどの市場での公正な競争確保のための規制が刑務所労働を十分提供することに障害となっているようであった。日本ではほとんど問題となっていない所であるが、今後日本でも経済の空洞化が進み、生産拠点がアジアに移転するなどの状況の進展とともに深刻な事態になる可能性もあり、真剣な検討を始める必要がある。従って、ワークショップの一つの焦点はいかにして、受刑者の労働の権利を保障するかという事であった。

ILO条約と強制労働の廃止

 他方で、刑務所労働が強制することができるかどうかについては、参加者の間で、大きな意見の対立があった。ヨンゲ教授が、アメリカにおけるチェイン・ギャングの復活や、中国における労働改造キャンプの実態などをレポートした後、強制労働が実施されているという事は、受刑者が国家の奴隷であることを意味しており、刑罰の人道化の観点から刑務所労働においても、強制労働は廃止すべきであると主張された。しかし、主としてアメリカからの参加者から、受刑者に一日遊んでいられる権利を認めることは納得できないと言う反論がなされた。これに対しては、「強制」労働の廃止を求めているだけで、刑務所で受刑者が社会におけるのと同じように働くことは極めて重要だという反論がなされていた。
 なお、ILO29号、105号条約についても制定経過にまでさかのぼった解釈論が展開されたが、外部通勤している受刑者に企業からの賃金を渡さないことは明らかに条約違反を構成する点では異論がなかったが、施設内の刑務作業で企業からの受注作業を行うことはすべての国々で禁止されているわけではない。アメリカなどは私企業の製品を作ることに否定的であるが、ドイツやオーストリアなどでは私企業との提携自体は否定されていない。条約違反の成否を決めるポイントは施設内での作業が刑務所当局の管理下にあるかどうかという点にあるようである。しかし、条約解釈の問題とは別に、国家機関が経営・管理している制度のもとでも、強制労働が耐えがたい労働条件をもたらす場合もあり得るとして、ヨンゲ教授は条約の規制強化と刑務所労働における強制労働自体の廃止を提唱されていた。また、実践的には国際自由労連(ICFTU)の協力を求めていきたいという提案がなされていた。日本の労働組合は刑務所労働については全くと言っていいほど無関心であるが、各国の報告を聞くと、刑務所労働に対して、労働市場を圧迫するという理由で厳しい態度の国々も含めて労働運動のこの問題についての関心は高く、国際労働運動の分野でのこのような働きかけも有効かもしれない。この論文は日本の現状を分析する上でも重要であるので、翻訳する必要があると思われる。

報酬の実状は様々だが、各国で改善の試み

 刑務所における報酬については、各国の取り扱いは様々であることがわかった。スペインは月100ドル程度、イギリスでは週70ポンドに報酬を増額する計画が進められている。各国の貨幣価値なども考えると、日本の作業賞与金の水準をはるかに上回るものと評価できるだろう。ドイツでは、外部通勤の場合は通常の賃金を保障しているが、刑務所内での労働の報酬は低額であると指摘されていた。オーストリアは、最低賃金の25パーセントが支払われている。最近刑事司法分野の改革が進んでいるポーランドからは通常賃金の50〜75パーセントの報酬が得られるとの報告があった。また、国連刑事司法委員会のレポートによると、韓国も最低賃金に近い報酬を保障しているという。真偽を確認する必要があるようにおもわれる。

注目集めた日本の高い就業率と厳しい規律秩序

 我々日本の報告は、高い就業率、厳しい規律秩序、あまりにも低い報酬(賞与金)など、すべてにわたって、他の国々と異なり、高い注目を集めた。とりわけ、作業中に脇見をしたり、会話をすることが禁止されていること、このような規律違反が、独居拘禁や懲罰の理由になりうることは、大変な驚きを持って受けとめられた。日本では、一般企業の労働でもこのような実態があるのかという質問があったほどである。
 今回の会議に参加した第一の感想は刑務所で日本ほど実際に労働が盛んに行われているところは少ないという事がわかったことである。この点では、日本の刑務所当局の努力は評価できる部分がある。しかし、このような有利な状況は社会全体の低い失業率、刑務所労働への報酬支払いの低さ、私企業の関与についての規制の不存在などの条件があるためであると考えられる。日本の実状についてILO条約から見た評価については少なくとも施設内での刑務作業が刑務所当局の管理下にある限り条約違反にはならないと言う解釈が一般的なものだろう。しかし、日本の刑務所労働におけるあまりにも厳しい規律は、強制労働としての苦痛を増加させており、今後も刑務所労働の実態に即した国際的な批判はやむことはないであろう。

刑務所労働を「ふつう」の労働へ

 今後の改善の目標としては、刑務所労働における、脇見の禁止や会話の禁止などに象徴される厳しい規律の緩和と報酬や労働災害、年金制度への繰り入れなどの条件の改善を求めていくことであろう。報酬制度の改善や、年金制度への繰り入れは刑務所における処遇が社会復帰の前提であるという位置付けからも当然のことである。多くの累犯者がほとんど所持金もなく、社会保障制度からも排除されているため、出所後すぐに生活に困窮し、再犯を繰り返すという悪循環を何とかして断ち切らなくてはならない。刑法で懲役が規定されているため、強制労働の廃止を今すぐ実現することは困難を伴うが、刑務所労働から強制的な色彩を少しでも取り除いて、社会における通常の労働に近いものにしていくことが求められているといえるだろう。