国際人権(自由権)規約委員会第4回日本政府報告書
審査に対するNGOレポート

監獄人権センター

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 昨年(1998)、10月28日・29日の両日、国際連合の欧州本部にて、国際人権(自由権)規約委員会による、第4回目の日本政府報告書審査が行われました。  国際人権規約とは、国連の世界人権宣言の人権の内容をより具体化し、法的拘束力のあるものにしようと採択された、人権条約で、自由権規約と社会権規約の2つに分かれています。この自由権規約の40条には、締約国の政府は、5年に1度、自国の人権状況に関する報告書をまとめ、これを、自由権規約委員会(規約を実施するために設けられた機関)が、審査することとされています。昨年は、日本がこの報告書の第4回目審査にあたりました。  この審査の際、NGOの意見も、規約委員会は、参考にしているので、監獄人権センターとしても、以下のような報告書を、昨年の秋に、規約委員会宛に提出しました。  尚、このNGOレポートは、自由権規約の該当する条文ごとに、並べてあります。

 日本における被拘禁者の処遇には「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に抵触する数々の問題がある。しかし、日本政府による「市民的及び政治的権利に関する国際規約第40条1(b)に基づく第4回報告」ではそれらの問題点に正確に触れられていない。貴委員会が、このレポートの中で指摘する問題点に留意しながら政府報告を審査されることを期待する。そして、国際規約と確立された国際人権基準に違反する諸点についての改善を日本政府に勧告されるよう求めるものである。

第1、拷問等禁止条約の早期批准

1−1 日本政府への質問
拷問等禁止条約を、いつ頃批准する計画があるか。
批准できないとすると、その理由は何か。
批准する場合には、留保を付ける予定はあるか。条約22条の個人通報受理の権限を宣言する予定はあるか。
1−2 日本政府への勧告
 日本政府は留保なく、また条約22条の権限を含めて拷問等禁止条約を批准すべきである。
1−3 現状
 わが国は未だに拷問等禁止条約を批准していない。国会における答弁では、法務大臣が「前向きに批准を検討する」と答弁している。1997年4月にCPRがアムネスティインターナショナル日本支部と共に拷問禁止委員会委員のベント・ソレンセン氏を招きセミナーを開催した。同氏が外務省を訪ね、条約の批准を求めた際に、外務省人権難民課長は「普遍的管轄の条項について証拠収集に困難があり実効性に疑問がある」と述べている。しかし、このような理由が批准を遅延させる理由になるとは考えられない。また、条約は一切の留保なく、22条の個人通報の権限を含めて批准すべきである。
拷問禁止条約に関しては、このカウンターレポートの提出後の昨年(1998)12月15日の閣議後記者会見において、高村外務大臣が、批准承認を次期通常国会に提出する予定であることを明らかにしました。私たちは、政府が拷問等禁止条約を批准する方針を固めたことを心から歓迎します。

第2、規約2条

3項(b)「救済措置を求める者の権利が権限のある司法上、行政上若しくは立法上の機関又は国の法制で定める他の権限のある機関によって決定されることを確保すること及び司法上の救済措置の可能性を発展させること。」
2−1 日本政府への質問
刑事拘禁施設における効果的な権利救済の手段が存在するか。
簡易で迅速な、かつ施設当局から独立した権利救済機関を設立する予定はないか。
被拘禁者が看守を刑事告訴した場合、同じ施設の他の看守が捜査にあたっている事実があるか。
2−2 日本政府への勧告
刑事拘禁施設における効果的な権利救済のため、簡易で迅速な、かつ施設当局から独立した権利救済機関を設立すべきである。
 被拘禁者が看守を刑事告訴した場合、その捜査には外部の機関である警察、検察があたるべきである。
2−3 規約人権委員会の前回勧告
 規約人権委員会は第3回報告書審査において、「被拘禁者に対する如何なる形態での不当な取扱いも規制する予防的措置をさらに改善すること」を勧告している。
2−4 現状
 日本の刑事拘禁施設において人権侵害がなくならない最大の原因は、効果的な人権救済機関が欠如しているためである。日本には施設から独立した訪問者委員会、オンブズマン、刑務所査察官等の制度はない。2年に1度の矯正局内部の巡閲官への情願、法務大臣への情願などの制度は存在するが、制度の公開性、実効性が全くない。民事裁判による救済は制度的には可能であるが、時間と費用がかかる。また、証拠開示の制度が不十分であり密室における人権侵害を原告側に与えられた手段で立証することは容易ではなく、効果的救済手段とはいえない。
 刑事告訴を行った場合、その捜査は同じ施設の看守が担当し、第三者性、独立性がなくまったく実効性がない。

事例1 城野医療刑務所における受刑者の死
 1992年8月29日、城野医療刑務所において一人の受刑者が、刑務官により暴行を受けた後に死亡した。暴行の直後、死亡した受刑者は、腹部の痛みを訴えていたが、適切な治療は行われていない。この受刑者は、同年8月25日に、精神に障害があるとの疑いから、同医療刑務所に収容されていた。同所所長が検視を指示したが、司法解剖は行われぬまま、葬式が死亡の翌日に行われ、火葬された。
 この事件が発覚したのは、1995年1月のことである。刑務所当局は、この受刑者の死に関する匿名の内部告発文書がでて初めて調査を行った。
 暴行に関わった看護士は、免職の上、暴行罪として起訴し、略式命令によって、20万円の罰金を科されている。しかし、検察は、暴行が受刑者の死の直接の原因ではないと認定している。
 事件は、1992年8月28日の午前に起こった。58歳の看護士長と2人の看護士が、当該受刑者が職員に対し暴言を吐いたとして、立腹し、待合室に連れていった。ここで、受刑者は、床に組み伏せ、腹を数度蹴りつけた。その後、受刑者は腹痛を訴えたが、看護士らは、医師には報告せずに応急手当のみ行った。そして、その翌朝、受刑者は死亡した。
 受刑者が死亡したとき、検察官が通常は検視を行うが、このときは、刑務所当局が検視を行い、「糖尿病、心筋梗塞による心不全」と診断された。また当局は、受刑者の家族にに知らせることなく火葬に付している。

事例2 広島刑務所:弁護士会へのアクセス
 広島刑務所在監の32歳の男性受刑者C氏は、広島弁護士会人権擁護委員会に、看守にボールペンで右めの上辺りを数回殴られたという訴えを内容とする手紙を書いた。彼は、目撃した他の受刑者からも事情を聞いてほしいと求めていた。
 その後、数人の弁護士が調査にあたった。1997年8月に、刑務官が殴るのを目撃したという別の受刑者への面会を広島刑務所に求めたところ、刑務所側は、「施設管理上の理由」をあげて面会を拒否した。
 広島弁護士会会長らが同年12月に再度面会を申し入れた際にも、「受刑者本人の意思にかかわらず面会は認められない」と説明した。
 そこで、1998年7月15日に、同弁護士会と担当の弁護士は、「人権救済の調査活動が不当に妨げられた」として、国に対して損害賠償を求める裁判を広島地方裁判所に起こした。弁護士会が原告となって国を相手取って損害賠償を求める裁判を起こすのは全国で初めてのことである。
 被告である国側の法務省矯正局保安課では「一般的に受刑者の面会は親族に限るのが原則になっていて、そのほかをどうするかは刑務所長の裁量にゆだねられている」と話している。

第3、規約6条

「死刑を言い渡されたいかなる者も、特赦又は減刑を求める権利を有する。死刑に対する大赦、特赦又は減刑は、すべての場合に与えることができる。」
3−1 日本政府への質問
 死刑の執行を本人に対して執行の直前まで告知しないこと、および家族に対して事前告知しないことの理由を明らかにされたい。
3−2 日本政府への勧告
 死刑執行を執行の直前まで本人に告知せず、家族には事前に一切知らせないで、執行についての一切の救済手段を奪っていることは、規約第6条4項、第7条に違反する。死刑執行の時期は救済手段をとることのできる時間的余裕を持って本人及び家族に通知すべきである。
3−3 規約人権委員会の勧告と政府レポート
 規約人権委員会は1993年に採択されたコメントにおいて「家族に対して処刑を通知しないことは規約と相入れない」と勧告した。
 政府レポートは国内法に家族に執行を通知する規定のないことを理由に事前に死刑の執行を告知しない扱いとしていること、もし事前に告知すれば家族に「無用な苦痛を与えること」「通知を受けた家族との面会が行われた場合、死刑確定者の心情に及ぼす影響が大きく、平穏な心情を保ち難い」とその実質的な理由を説明している。
3−4 現状
(1)本人への告知がないこと
 死刑確定者本人に対する死刑執行の告知は、執行当日、執行の約1時間前に行われている。日本においてもかつては、死刑執行の告知が執行の前日までになされ、前夜までに遺言書を作成したり、家族と最後の面会をすることができた。1975年12月7日に東京拘置所で処刑された堀越喜代八氏は、執行前日に母親と面会している。ところが、それから1ヶ月半後の翌1976年1月22日に同じ東京拘置所で処刑された大久保清氏に対しては、執行当日の朝、執行を言い渡された。この頃からに、死刑執行の告知は当日の朝になされるようになった。
 死刑の執行は通常午前中に行われるため、死刑確定者達は毎朝執行の恐怖に晒される。このような、死刑確定者に対する突然の執行告知は、死刑が適用される場合にはその肉体的・精神的苦痛が最小限でなければならないとする規約人権委員会の一般的意見7(16)(1982年7月17日採択)に反する。

(2)死刑確定者の家族に対する告知がないこと
 死刑確定者の家族に対する事前の処刑の告知は、委員会の勧告後も依然として一切行われていない。死刑執行が終了した後に、「今朝、お別れをしました」と執行の事実が告げられ、家族に対し遺体引き取りの意思の有無(拘置所の手によって火葬に付してよいかどうか)の確認がなされるのみである。
 政府報告書は、遺言書の作成や遺産についての処理などが、平素から指導されていると主張する。しかし、「遺言」と言われるものの実態は、死刑執行直前にせいぜい数分程度与えられたの猶予の時間に、拘置所職員への伝言によってなされるのが通常である。
 例えば、1995年12月21日に処刑された木村修治死刑確定者の場合、死刑執行当日の午前中、母と義姉が面会に行ったところ「年末でとりこんでいるので、昼から来ていただけませんか」と言われた。そして、午後になって再度面会に行ったところ、その日の午前中に処刑された事実を知らされた。執行のあった時刻すら知らされなかった。家族によると、木村死刑確定者は、家族に対し予め執行の告知をするよう申し入れていたが、事前の告知はなされなかった。また、執行前の本人は僅かに与えられた時間の中で、家族に宛てて走り書きの遺書をしたためた。
 また、1997年8月1日に死刑が執行された永山則夫死刑確定者の場合、執行の通知は兄弟を含むいかなる親族に対しても行われず、身柄引受人もなかったため、結局執行の通知は誰に対しても行われなかった。遺体は拘置所の手で火葬され、新聞報道で執行の事実を知った元弁護人が拘置所に遺体引き取りを申し出なければ、危うく拘置所の無縁墓地に埋葬されかねないところであった 。
(3)執行に対する一切の救済手段が奪われていること
 死刑確定者本人及び家族に対する事前の告知がなされないことは、死刑確定者・家族にとって極めて残酷なものであるばかりではない。死刑確定者に対する外部交通の極度の制限と相俟って、死刑確定者が、家族等を通じて、死刑の執行に対する救済手続きを取る可能性が一切奪われていることを示している。このような死刑執行の現状は非人道的であり規約7条に違反し、また「死刑に対する大赦、特赦又は減刑は、すべての場合に与えることができる」とする規約第6条4項に明らかに違反する。

第4、規約7条

「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い又は刑罰を受けない。特に、何人も、自由な同意なしに医学的又は科学的実験を受けない。」

4−1 日本政府への質問
(1)刑事拘禁施設における虐待について
 刑務所・拘置所などの刑事拘禁施設において被拘禁者への虐待が続発している。このような訴えについて当局はどのような調査を行っているのか。刑務官に対する人権教育を実施するつもりはないのか。
(2)保護房・革手錠について
 特に、革手錠を使用したひどい虐待のケースが報告されている。革手錠を使用すると、犬のようにして食べるしかなく、また用便の後の処理もできない。このような人の品位を辱める戒具は廃止すべきではないか。
 保護房の設置の法的根拠を明らかにされたい。
(3)刑務所規則の公開について
 法務省の作成した通達や刑務所の規則が非公開となっている。このような規則は被拘禁者処遇最低基準規則29、30に従って公表すべきではないか。
(4)NGOによる調査への非協力
 NGOによる刑務所の調査において、被拘禁者との無立会い面会は認められているか。
(5)裸体検身
 工場の行き帰りに、すべての受刑者について毎日全裸検診をしている刑務所がある。個別的な必要性の有無を問わないで、一律にこのような処遇を行うことは品位を傷つける取り扱いではないか。
4−2 日本政府に対する勧告
(1)刑事拘禁施設における虐待について
 刑事拘禁施設における職員による暴行を根絶するための、あらゆる取組み、とりわけ、実効ある救済機関の設置と職員に対する実践的な人権教育を実施すべきである。
(2)保護房・革手錠について
 革手錠は拷問のための道具であり、被拘禁者最低基準規則33条により廃止されるべきである。
 保護房収容の要件を厳格に法律で定めるべきである。
(3)刑務所規則の公開について
 法務省の作成した通達や刑務所の規則は被拘禁者処遇最低規則27、28、29条、国連被拘禁者保護原則30、30(2)に基づいて、公開されるべきである。
 拘禁施設での被収容者の諸権利を明記した被拘禁者に伝えるべき事項をまとめたパンフレットを被拘禁者の理解できる言語で作成して、配布するよう求める。
(4)NGOによる調査への非協力
 民間団体による視察を受け入れるよう求める。
(5)裸体検身
 一つの施設について、一律に全裸での検診を行う取り扱いはやめるべきである。
4−3 現状
(1)拘禁施設内での虐待の多発
 刑事拘禁施設における虐待の事例について国内のNGOだけでなく、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、アムネスティ・インターナショナルなどの国際的なNGOから報告が相次いでいる。アムネスティのレポートでは、「日本における刑事被拘禁者は組織的で、残虐な非人道的な若しくは品位を傷つける取扱いを受けており、残虐な懲罰にさらされる高い危険がある。」としている。(アムネスティ・インターナショナル、「日本;日本の拘禁施設における苛酷な懲罰」1998年6月)  拘禁施設において、施設当局に裁判を提起したり、弁護士に依頼しようとしたり、国連の人権委員会に手紙を書こうとしたりした被拘禁者に対して、「反抗的な」というレッテルを貼り、システマティックな虐待が加えられている疑いがあるのである。このような虐待の根絶のためには、加害者の刑事的処罰、被害者の民事的救済などを確実に実現すると同時に、暴力を容認するような、施設内の文化、習慣を一掃するために徹底的な職員に対する人権教育が必要である。
(2)保護房・革手錠による虐待
 とりわけ、保護房、革手錠を用いた多数の虐待事例が1997年11月、1998年6月に公表されたアムネスティ・インターナショナルの二つのレポートに紹介されている。保護房と革手錠は懲罰として用いられている疑いがある。革手錠は中世の拷問道具と変わらず、人の品位を傷つけることが目的の戒具である。保護房についてはその使用の要件を定めた法律すらない。保護房収容時に使用される革手錠は後遺症が残るほどきつく締められることが通例である。両手とも体の後で締める使い方についてはいたずらに身体的、精神的に強度の苦痛を与え、自分で用便の始末をすることも不可能であり、食事も犬のようにするしかないとして、違法とする判決が1998年東京高等裁判所で出されたが、革手錠の使用自体は未だ禁じられていない。また、96年7月には松江刑務所浜田拘置支所で保護房に放置された受刑者が熱射病で死亡するという事件もおこっている。(※事例3;浜田拘置支所ケースを参照)
 保護房については厳格な使用の要件を法律で定め、施設内の保安セクションから、医療セクションの管理の下へ移すべきである。革手錠については廃止すべきである。
(3)規則、通達の非公開
 法務省が作成した通達、刑務所における規則が非公開とされていることは大きな問題である。日弁連などが入手した刑務所内部のルールでは、トイレに行くことや、他の受刑者と話をすること、室内で体をふくことなど日常生活の隅々までにも看守の許可が必要であり、守ることの困難な規則となっている。その一部を本レポートの付録に収録する。そして、このようなルールが外部のものには非公開とされているため、規則の合理性の検討すら困難である。このような状況は人権侵害へのセーフガードを欠いており、規約2条お2項及び7条に違反している。
被収容者自身に対し、制限事項が伝えられることは多いが、被収容者の権利の詳細な内容は伝えられていない。例えば、手紙の発信について、東京拘置所では特別発信の許可を求めれば日に3通まで発信できるが、そのことを知らず1通しか出せないものと思っている被拘禁者が多い。後に14条について述べる領置品規制においても、その施設での基準保管量が明記されていないケースがある。例えば横浜拘置支所では、収納箱2個分だとされているが、その箱の大きさは被拘禁者には明らかにされていない。
(4)NGOによる調査への非協力
 NGOであるヒューマン・ライツ・ウォッチやアムネスティ・インターナショナルによる調査に対しても、法務省は極めて非協力的である。受刑者への直接のインタビューが認められることはない。1994年に調査を行なったヒューマン・ライツ・ウォッチは旭川刑務所、新潟刑務所の視察を特に希望したが、両施設への立ち入りは認められなかった。政府が認めた施設においても、被収容者への直接のインタビューは認められなかった。また、中間処遇施設の被収容者へのインタビューを希望したところ、法務省はインタビューの相手方を法務省が選択するのであれば許可すると回答した。これでは、非政府機関・第三者機関として調査する意味がない。ヒューマン・ライツ・ウォッチは法務省の協力を求めても無駄であると判断し、独自に調査活動を行なった。そうしてまとめられたレポートに対し法務省は「調査の相手が片寄っている」と批判しているが、以上の経緯を見れば法務省には批判する資格は明らかにないといえよう。
(5)裸体検身
 政府報告とは逆にほとんどの施設で入所時だけでなく毎日の工場への行きかえりにも全員の受刑者に対して、一律に全裸検診がなされている。武器や麻薬を隠し持っている確実な状況があるなど、一定の具体的な必要性が認められる際に、被拘禁者に対して全裸検診をすることは認められるが、一つの施設について、一律に全裸検診を行うことは7条に定める品位を傷つける取り扱いであり、認められない。

事例3 浜田拘置支所:保護房における死亡事件
 1996年7月25日早朝、浜田拘置支所において当時44歳の男性受刑者B氏が保護房で死亡していた。検視の結果、彼は、暴行を受けて死んだことがわかっていたが、司法解剖の正式な報告書は公開されていない。
 B氏は1996年7月19日に、酒気帯運転による道路交通法違反で2ヶ月の刑を言渡され、同拘置支所に収容された。その当時は、猛暑が続いていた。7月21日から彼は、アルコールを絶つために全力をかけるつもりだと話していた。7月22日の晩、彼は、「ここに虫がいる!」と叫び、房内の窓を叩いたり、揺さぶったりしていた。その動きが飛び上がったかのように見えたために、看守は彼に手錠をかけ、保護房まで連行し、革と金属手錠の両方をかけて収容した。このことが起こったのは、午後9時50分である。7月24日には、非常勤の刑務所医師が彼の具合を見にきているが、刑務所側は、精神状態に関する検診は行っていない。同日の午後9時10分には革手錠が外されている。
 彼は、7月25日の午前1時20分には、良好な状況を示していた。その10分後、見回りに来た看守が壁によりかかったまま動かないB氏を見つけ、病院に連れていったところ、1時間後に死亡を宣告された。
 拘置支所側は、彼にアルコール依存症の既往症があることは認識していた。また、動静観察簿には、7月20日以降の彼の症状、特に7月22日以降の観察結果の詳細が記載されているが、アルコール離脱症候群の疑いが濃厚であり、彼は睡眠や食事をほとんどとることができない状態にあった。
 施設側は、彼のこうした状況を知りつつも、何らの必要な医療措置をとらず、彼を放置しただけでなく、保護房のような劣悪な状況下に収容・放置している。それにより、彼はアルコール離脱症候群を起訴とする熱射病により死に至らしめた。この事件については、拘置支所長を含む7人の刑務官を特別公務員暴行陵虐致死罪で、非常勤医師については、業務上過失致死罪で告訴し、係争中である。

事例4 府中刑務所:ケビン氏のケース、保護房、恣意的懲罰
 ケビン・ニール・マラは、アメリカ合衆国国籍の男性受刑者で、1993年3月から府中刑務所に収監されていた。同刑務所には、食事の前には目を閉じなくてはならないという規則がある。1993年6月、彼は自分の名前を呼ばれて目を開けた。これが「反抗」とされて彼は懲罰として10日間の厳正独居拘禁を命じられた。
 この懲罰が執行される前、彼は裸にされて2日間保護房に収容された。特別房では、拘束着を着せられ、革ベルト(手錠)を絞められたまま20時間を過ごした。革手錠及び金属手錠は非常にきつくしめられており、息をするのも困難な状況であった。彼は、用を足すときには、手を使わなくてもすむようにと、保護房にいる間、股割れズボンをはかされていた。
 ケビンは、1995年12月14日に工場で作業をしていると、刑務官が窓の外をみるなと注意しにきた。彼は謝ったがその刑務官は大声でどなり続けた。その刑務官がさったと、彼は「狂っている」とつぶやいた。その後ケビンは15日間の厳正独居拘禁による懲罰を受けた。
 1996年2月13日には、ケビンは、寝癖を直すために水をすくった。この行為が、入浴時間以外に洗髪したとして規則違反であるとみなされた。これで、彼は5日間の懲罰を受けている。
 さらに、96年3月には、ケビンは、刑務所内での恣意的な懲罰に対して訴訟を起こしたいから弁護人を依頼したいと、日本弁護士連合会に対して手紙を送った。しかし、この手紙を送ったために、彼は厳正独居となった。この間、彼は1週間に2・3度、30分しか房外での運動が認められず、入浴も週に2・3度となった。窓はプラスチックの板で塞がれ、日光や換気は不十分であった。
 7月2日、ケビンは府中刑務所で被った苛酷な取扱いについて1千万円の賠償を国に求める訴訟を起こした。
 彼は、1998年1月に満期出所し、東京入国管理局に移送され、アメリカへ送還された。彼の訴訟は現在東京地方裁判所で尚係争中である。

事例5 府中刑務所:イラン人受刑者B氏、虐待と保護房

 32歳のイラン人受刑者B氏は、1993年10月8日から、1997年1月28日まで府中刑務所に収監されていた。94年4月1日に、彼が、シャワーを浴びていると、他の受刑者が彼を押し、彼が押し返した。このことについて、刑務所は懲罰相当として取調べをした。幹部看守は、怒って「イラン人はうそつきだ」というので、彼は「イラン人も日本人と同じだ。よい人もいれば、悪い人もいる」と指摘すると、刑務官らは、彼のこの答えを「口答え」であるとして、再び彼を取り調べた。
 その後、彼は読書を禁止されたうえ、10日間の厳正独居を言い渡された。決められたやり方で刑務官に挨拶をしなかったため、彼は、暴行を受けた。革と金属の手錠をきつくかけられ、押し倒され、頭に袋を被せられて、背中や腹部を強く蹴られた。彼は、革手錠をきつく絞められた状態で5時間放置され、2日間保護房に収容された。革手錠による後遺症が左足に未だに残っている。
 94年5月14日には、彼が、懲罰中に、立ったまま歯を磨いたことで、幹部看守が、「懲罰用の特別椅子に坐らないのか」と注意したところ、彼が「今は歯を磨いているので絶ってもよい」と答えた。すると、驚いた事に、その看守は、右こぶしで彼の左耳を強く殴った。その後、革手錠をした後にもまた一度殴られている。そして、9時間も手錠をかけられた後、2日間保護房に収容された。この間、彼の左耳からは、膿がにじみ出つづけ、この暴行によって未だ聴覚に異常があるという。
 B氏は、94年7月19日に再度、理由不明のまま、暴行を受け、手錠をかけられ、保護房に収容されている。
 94年12月から95年2月にかけて、B氏は、国連の人権委員会に対して自分の受けた取り扱いについて通報しようと、手紙を書くことを(情願により)認められた。が、刑務所長はこれを認めなかった。これに対し、B氏は、手紙発信の許可を求めて、95年2月27日にハンガーストライキを始めた。しかし、その翌日に保護房に収容され、その3日後の3月1日には、同意なしに何等かの薬を注射され、その後食べ物を口に押し込まれた。
 1995年10月から1996年7月までの9ヶ月間、B氏は、精神障害を負った受刑者を入れる特別な房に収容された。彼の房は、常に壁に頭を打ちつけたり、一日中独り言を行ったりする精神障害を負った受刑者の隣であった。刑務官は、彼がかみそりの刃を飲み込もうとしたので特別な房に収容されるべきだというが、まったくのでっち上げである。
 B氏は、こうした虐待に対し、1千5百万円の国賠訴訟を提起した。

事例6 千葉刑務所:革手錠、K氏及びT氏のケース

 K氏及びT氏は、1990年11月7日から千葉刑務所に収監されていた。
 1991年2月20日、K氏は、看守に対し、缶詰の価格がなぜあがったのか理由を尋ねた。その看守は、答えなかったので、別の機会に答えてくれるよう要求した。しかし、看守は答える代りに彼の左足を蹴りあげた。K氏は、すぐにこの暴行に対して抗議したが、看守は、彼の頭を押さえつけて背中を壁に打ちつけた。その後、看守は別の看守とともに、K氏をかつぎ上げ、保護房に連れていった。保護房で、看守らは金属・革手錠の両方を後ろ手にかけ、5日間放置された。房には6日間収容されている。
 1991年3月29日、T氏が足を引きずりながら居房から運動場へ歩いていると、看守に「抗命と暴言」の疑いで取調べを受けた。
 この取調べにおいて、思わず坐っている机を蹴ったところ、看守らは彼をうつぶせにして背中を蹴り、金属及び革手錠を両手を後ろにかけられ、保護房に5日間収容した。
 K氏とT氏は、千葉地方裁判所に国賠訴訟を申し立てたが、敗訴した。そこで、東京高裁に控訴したところ、地裁判決を覆した。K氏とT氏の保護房収容は違法ではないと判断したが、金属及び革手錠を両手後ろにかけたことについては明らかに、肉体的・精神的に苦痛を与える最小限度の方法を越えたものと判断し、国に対し、K氏及びT氏に対し1千2百万円を支払うことを命じた。国は上告せず、この判決は確定した。

事例7 千葉刑務所:革手錠、U氏ケース
 U氏は1993年8月17日から千葉拘置場に勾留されていた。U氏は、持病の糖尿病のため、同拘置場の病舎に収容されてた。
 1993年8月30日午前8時40分頃、U氏がベッドで寝ていたところ、頭を向ける方向が規則とは逆であったため、ある職員が「何だその態度は。ちゃんとした方向を向け。 」と注意した。それに対してU氏が「わかったよ」と答え、頭の方向を変えるため身を起こしたところ、U氏の返答に激怒した同職員が大声で他の職員を呼んだ。A氏は数人の職員に押さえ付けられ、取調室へ連れていかれた。
 取調室でA氏は、その場で職員から起立するよう号令をかけられた。彼は命令に従って直立不動の姿勢をとろうとしたが、身体的ハンディキャップのために指を真っ直ぐに伸ばすことができなかった。職員は、「もっと指を伸ばせ」と命令し、彼の左手をねじり上げた。U氏が「何もしていないのになぜ殴るのですか」と尋ねると、同職員は他の職員を呼んだ。U氏は、10名以上の職員により、手をねじり上げる、蹴るなどの暴行を受けた。
 更にその後、職員10名程がU氏を保護房に連れていき、U氏の衣服を破いた上、手錠、革手錠をかけた。そして、U氏の頭を、靴を履いたままでコンクリートの床に踏みつけ、前額部挫傷の傷害を与えた。その上で、左手を背部にねじり上げるなどの暴行を加えた。その結果、U氏は、前額部挫傷、左前腕部挫傷、右上腕部内側および右ふくらはぎに痣を生ずるなどの傷害を負った。
 本件は事件直後の1993年8月に国選弁護人が接見に行き発覚した。U氏の代理人弁護士は、接見直後に証拠保全の申し立てをし、刑が確定し府中刑務所に移送された後に、国家賠償請求訴訟の提起と関係者の刑事告訴をした。ところが、その後、U氏は弁護士に国賠と告訴を取り下げてほしい、と伝えた。弁護士との面会には職員の立会があることを心配して、U氏は「今は話せない。つらい。察してほしい。」と言うだけだった。弁護士はやむなく、U氏の希望に従って、国賠と告訴は一旦取り下げた。
 その後、U氏は1996年の2月に出所し、弁護士はU氏から再度国賠訴訟を提起してほしい、と連絡を受け、96年3月7日、改めて訴訟を提起した。

第5、規約8条

「何人も、奴隷の状態に置かれない。あらゆる形態の奴隷制度及び奴隷取引は、禁止する。」
5−1 日本政府に対する質問
(1)私企業におけるコントロール
 刑務所における刑務作業について、私企業の職員が受刑者を直接コントロールしている実態はないか。規約8条とILO29号強制労働廃止条約2条2項Cに違反しないか。
(2)工場におけるわき見と会話の禁止
 刑務所における工場でわき見や被拘禁者間の会話、被拘禁者と看守の会話が禁止されていることは規約8条の強制労働に当たるのではないか。
(3)無賃金労働
 一月の報酬が3700円程度であり、一般労働者の100分の1程度であることは、規約8条の強制労働に当たるのではないか。懲罰によって作業賞与金を没収することができるか。
5−2 日本政府に対する勧告
(1)私企業による刑務作業の利用について、再検討を求める。
(2)わき見や会話の禁止などの過剰な作業規律を緩和すべきである。
(3)労働に適正な作業対価を支払うべきであり、懲罰によって作業賞与金を没収すべきでない。

5−3 現状
(1)刑務作業と私企業の関係
 刑務所における刑務作業は強制労働として認められている(規約8条3項B)。しかし、これを私企業が受刑者を直接コントロールしている場合にはILO29号条約の2条2項Cにより許されない強制労働となることとなる。刑務所内の工場において、私企業の職員が作業指示を行っていることは珍しくなく、府中刑務所における刑務作業の実態がアメリカの議会で取り上げられたこともある。規約8条3項b、ILO29号条約2条2項C違反の疑いは残っており、日本政府の見解を明らかにさせる必要がある。
(2)過剰な作業規律
 刑務作業は決して政府報告のいうように「一般の民間企業とほぼ同様の作業時間、作業環境、作業方法で実施」されてはいない。かつまた、対価としての労働賃金が支払われていない。作業中1メートル先にある材料を取るのでも、手をあげて職員がそれに気付くまで黙って待たなければならない。職員がそれに気付き許可がおりて始めて移動することができる。作業上他の受刑者と打ち合わせる必要のある場合も同様である。トイレに行く場合も挙手をして職員の許可を求めなければならない。一瞬の脇見や一言の私語でさえ、懲罰の対象となる。受刑者はこのように主体性を剥奪された状態で機械のように働かされている。
 法務省の機関である法務総合研究所が97年8月に発表した「釈放前受刑者の意識調査」(1996年4月に出所予定者769人に行なったアンケート調査の報告書)においても、「守るのがつらかった規則又は改めてほしい規則」として、「交談の禁止」「わき見の禁止」 「トイレの制限」「黙想」「居室内での姿勢・動作の制限」などがあげられている。
 このような厳しい規則の下で遂行される刑務作業は著しく受刑者に苦痛を強いるものであり、規約8条の強制労働に該当し、また規約10条に反する非人道的取扱いである。
(3)無賃金労働
 作業賞与金という名目での報酬は月にして1人平均3,733円(1996年)であるが、これは、東京都の1日あたりの最低賃金5252円(1996年10月〜)にも満たない。被害者への慰藉にあてるにも、出獄後の生活の準備にあてるにもあまりに不充分な額である。在監中はこの賞与金も、全額を自由には使えない上に、懲罰を受けると没収されることもある。1996年度の一人平均釈放時支給額は42,545円であるが、一方、刑務作業による国庫への収入は1995年で127億円にのぼっている。受刑者一人あたりの収入は30万円を超えている。このような無賃金労働は規約8条の強制労働に該当する。

第6、規約10条1項

「自由を奪われたすべての者は、人道的にかつ人間の固有の尊厳を尊重して、取扱われる。」
6−1 日本政府に対する質問
(1)独居拘禁
 独居拘禁されている未決被拘禁者、昼夜間独居拘禁されている受刑者、全ての死刑確定者は他の被拘禁者との人間的な接触を断たれている。このような処遇を受けているものの数を明らかにされたい。独居拘禁の平均期間と最長期間を明らかにされたい。
 又、看守と被拘禁者の私語は禁止されているか。
 独居拘禁とされている被拘禁者が、拘禁性の精神的な障害を引き起こしている例はないか。施設に収容された後になんらかの精神障害を発症したものの症状と人数を明らかにされたい。
 昼夜間独居拘禁とされている被拘禁者は居室内で壁によりかかったり、足を投げだしたりすることも禁止されている。このような動作の規制はどのような理由から必要なのか。
(2)戸外運動の不足
 拘置所・刑務所において戸外運動が週に2ないし3回程度、1回30分しか認められない。このような処遇は規約10条、最低基準規則21に違反するのではないか。
(3)暖房の欠如
 刑事施設の房に暖房施設が設置されていても使用されていない例があるのはなぜか。暖房の欠如のため冬期に寒さのために多くの被拘禁者が霜焼けに苦しんでいる。このような処遇は規約10条に明らかに反するのではないか。
(4)不十分な医療
 医療の不十分を理由に被拘禁者から訴訟を提起されているケースについて、件数内容を明らかにされたい。
 診察の申し出ても、医師でない医療職員の判断で診療を受けられないことがあるか。
(5)窓のない居室
 窓をブラインドで遮蔽する措置は、どのような基準で、どのような設備に実施されているのか。今後改善していく計画はあるのか。
(6)軍隊式行進の強制
 刑務所での移動の際に軍隊式の行進を強制する取扱いがなされている。このような取扱いはどのような理由で実施されているのか。
(7)外国人に対する施設内での通訳の保障
 外国人に対する規則の告知、懲罰手続きなどにおいて、通訳は保障されているか。
6−2 日本政府に対する勧告
(1)独居拘禁
 未決被拘禁者が共犯者ではない他の被拘禁者と昼間共同で過ごすことのできるよう求める。
 受刑者に対する独居拘禁は、真に必要な場合に、期間を限定して行うべきである。
 死刑確定者が他の被拘禁者と昼間共同で過ごすことのできるよう求める。
 昼夜間独居拘禁とされている被拘禁者が居室内で壁によりかかったり、足を投げだしたりすることも禁止している極端な動作規制を撤廃すべきである。
(2)戸外運動
 運動を毎日少なくとも1時間、屋外で実施すべきである。
(3)暖房の欠如
 冬期に寒冷な地方の施設には暖房設備を設置して、現実に暖房を実施し、健康を保てる衣類・寝具を提供すべきである。
(4)不十分な医療
 被拘禁者が診療を希望した場合速やかに医師の診療を受けられるべきである。拘禁される前に入っていた健康保険が継続して使えるように制度を改めることを求める。
(5)窓のない居室
 窓をブラインドで遮蔽する措置を停止すべきである。新しい施設の居室の構造は外界の眺められる構造に設計すべきことを求める。
(6)軍隊式行進の強制
 刑務所での移動の際に軍隊式の行進を強制する取扱いをやめるべきである。
(7)外国人に対する施設内での通訳の保障
 外国人に対して、規則の告知、懲罰手続き等に際して、通訳を保障すべきである。
6−3 現状
(1)独居拘禁
 日本の刑務所における一つの特徴は昼夜間を通じて独居房に拘禁されているものが少なくないことである。未決拘禁者は独居房と雑居房に分けられ、雑居房内での私語は黙認されているが独居房に収容されたものが隣の房のものと連絡することは固く禁じられている。独居房に収容された未決被拘禁者には原則として、他の被拘禁者と交流する機会はない。
 受刑者の多くが昼間は工場で共同生活を送っているが、一割程度の受刑者が集団生活に不適当とされ、昼夜間の独居拘禁とされている。独居拘禁の理由は精神の障害や他の受刑者とトラブルを起こすなどの理由の外、刑務所当局に対して訴訟を提起していることなども理由とされている。独居房内では、自由に立ち歩いたり、寝転んだりすることが禁じられ、一定の姿勢を保つことが強制されている。違反すると懲罰の対象になる。動物園の檻の中でもこんな強制はできないほどのものである。広島拘置所のケースでは、居房において新聞を読んでいた際、布団にひじがのっていたというだけで規則違反とされている。(※事例13:広島拘置所ケース参照)受刑者の場合、一定の場所に座り壁に寄りかかったりすることも許されず単独で作業が強制される。袋はり等の作業につかせるものであるが、不自然な姿勢による作業と行動の規制が長期に及べば身体的にも精神的にも健康を破壊することになるおそれの高いものである。実際に長期に独居拘禁された者の中には腰痛を訴える者が非常に多い。このような処遇が13年も継続された受刑者のケースが現在旭川刑務所において争われている。
(※事例9:旭川刑務所ケース参照)新潟刑務所では、着色度20%のレンズの眼鏡をつけていた在監者が、眼鏡の変更を迫られ、拒否したところ1996年3月の出所まで1年10ヶ月間もの厳正独居処遇を強いられている。
 死刑確定者は例外なく昼夜間独居の状態におかれている。1997年2月までは、一部の死刑確定者に共同で会食したり、共同で教誨を受ける機会を認めていたが、これらの処遇は廃止され、すべての死刑確定者は完全な孤独の内に置かれている。更に、被拘禁者と看守の私語が禁止されていることも被拘禁者の孤独感を強めている。
 一般的意見20(1992年4月3日採択)は「未決者あるいは既決者に対する長期に及ぶ独居拘禁は7条の禁止するところとなりうる」と述べている。長期の独居拘禁が7条・10条に違反することは明らかである。
(2)戸外運動
 拘置所・刑務所において運動の時間は週のうち、土曜、日曜、祭日を除き、また、入浴のある日(冬は週2回、夏は週3回)、雨天の日を除くとされている。実際には年間に運動の可能な日は約160日程度となる。年間200日以上は昼夜間独居の処遇を受けている未決被拘禁者、受刑者、死刑確定者は戸外に出られないこととなる。一回の運動時間は居房から運動場までの往復時間を含めて30分以内である。国連被拘禁者最低基準規則には「毎日少なくとも1時間」の運動を求めているが、日本の実態は明らかにこれに違反している。つまり現実には最低基準規則の定める「毎日1時間」の4分の1にも満たないのである。(※事例10益永死刑囚ケース参照)
 現在東京拘置所が改築中で、高層化される予定である。現在の計画によれば、収容者が運動時間に地面との接触できなくなる可能せがある。このような処遇は被拘禁者最低基準規則21項に明確に違反している。
(3)冷暖房の欠如と防寒のため十分でない衣類・寝具
 刑事施設の房に日本の最も北に位置している北海道の地域を除いて暖房設備が稼働していない。すでに高層建築となっている名古屋拘置所の場合、設備は整っていながら、何年も使用されていない。暖房設備のない、もしくは、あっても使われてない施設で冬季の寒さをしのげるだけの充分な衣類、寝具が貸与されていない。拘置所では湯たんぽや使い捨てカイロが使えるが有料である。多くの被拘禁者が寒さからの手足のあかぎれやしもやけ、神経痛等に悩まされている。とりわけ、暖かい地方から来た外国人被拘禁者の健康に対して、重大な障害をもたらしている。先に触れた法務総合研究所の「釈放前受刑者の意識調査」でも、「刑務所で生活して、つらい、苦しいと感じたこと」のうち10.2%が「寒さ暑さ」と答えている。暖房の欠如によって、身体に障害が生じているような実状は規約7条に違反する。
(4)不十分な医療
 適切な医療が提供されないため、健康を害したり、命を失うものまで報告されている。1996年7月25日に島根県浜田拘置支所の保護房において受刑者が熱射病のために死亡した。ひどい暑さの中で、密室の保護房に拘禁されていたためと考えられている。 診断を希望してもまず詐病が疑われるために病状が進行してからの対応になることが多い。法務総合研究所の「釈放前受刑者の意識調査」でも、「刑務所で生活して、つらい、苦しいと感じたこと」の中でも「投薬してもらえない」という回答が5.5%出ている。旭川刑務所のある出所者は93年2月ころ、刑務所内で結核性のせきついカリエスにかかり、腰や胸の痛みを訴えたが、刑務作業をさぼるための詐病だとして黙殺された結果、93年8月には、意識障害に陥り、後遺症が残り、常に介護が必要な状態になっている。
 外部の病院への移送を希望しても認められることは少ない。医療体制の不備に対して人身保護請求を行なったケースについて広島地裁は1997年6月、「外部の病院で治療させるかどうかは、原則として、拘束者である監獄の長の裁量的行為である」としてこれを棄却した。オーバーステイで逮捕された中国人女性は妊娠中であったにもかかわらず、上野警察署は産婦人科のない病院へ連れていき「急性胃炎」と診断されるなどの不適切な処遇が重なり、東京拘置所に移監後も十分分な治療を受けることができず流産に至った(1997年3〜4月)。(※事例15:徳島刑務所、事例8周さん流産ケース参照)
 さらに、医療刑務所のほうが環境・処遇とも劣悪な場合があることなど、問題が多い。(※事例1:城野医療刑務所ケース参照)
 歯科などで認められる自費治療は健康保険が使えず、多額の金額が必要になる。これは国民健康保険法が、監獄に拘禁されている期間の療養の給付等は行わないと定めているためである。年齢によっては必需品となってくる眼鏡や入れ歯も自費負担である。適切な医療が提供されていない実状は規約10条に違反する。
(5)窓のない居室
 拘置所や刑務所の昼夜間独居拘禁されているものの居房の窓にはブラインドがあり、外を見ることが全くできない場合が増加している。政府報告は「居室の窓は、被収容者が自然の光線によって本を読むことができるだけの大きさのもの」であるとしているが、窓に目隠しを付けられているケースも多く、また、窓際に近寄って本を読むことも認められていない場合が多い。前述のように日本では房内での姿勢も厳しく制限されているのである。
 現在、日本最大規模の東京拘置所で建替えが進められており、2004年予定の完成のあかつきには収容人員3000名で、地上12階、地下2階だての高層ビルになる。その設計図によると、各房の外には巡視路が設けられており、その巡視路の窓も上下にわずかなすきまを設けたすりガラスであるので、房内から外界を眺めることがほとんどできない構造になっている。また、運動場もコンクリートの床の上に人工芝を敷き、その上で行われることになる。外界、自然との接触がさらに狭められることにより、拘束感が強化されることが予想される。東京拘置所には、収容期間が10年を越える在監者も多数存在するので、長期的にこのような環境に拘束される場合の心理的影響が心配されている。1997年には、仮舎房が既に完成した。この施設では、各房の外に巡視路があり、巡視路外の窓全体が白色の不透明な16本のブラインドで覆われていた。東京の三つの弁護士会が改善を求めた結果、内2本のブラインドが撤去され、その隙間から空が見えるようになった。しかし、依然として施設の内外を問わず、外の景色はほとんど見ることができない。より開福 |E*$J4D6-$X$N2~A1$,K>$^$l$k!# このような閉鎖的な居房の構造は被拘禁者最低基準規則11に違反するものであり、このような居房に長期間収容することは規約10条に反すると思われる。
(6)軍隊行進
 また、受刑者は移動のたびに軍隊のセレモニーのような整列行進を強制されている。これは「上官の命令には絶対服従せよ」という軍隊の規律を持ち込んだもので、主体性を剥奪し破壊するばかりで、社会復帰には有害無益なものであり、規約10条に違反する。
(7)外国人に対する施設内での通訳の保障
 施設当局と外国人刑事被拘禁者のコミュニケーションについて大きな問題がある。外国人被拘禁者は、まず日本語が理解できず、言葉が通じない場合が多い。多少の日本語を理解する場合も、刑事事件に関することや、拘禁施設の規則などの複雑な内容は理解できない場合がほとんどである。
 刑事捜査や刑事法廷の過程では通訳を付けることが捜査当局や裁判所にとって義務とされている。これに対して、刑事施設当局と外国人被拘禁者の間では、拘禁施設側との意思疎通が困難な場合が多い。収容開始に際しての権利義務の告知、重要な規則の告知、規律違反を理由とする懲罰手続などの重大な不利益処分にあたって、第一言語による通訳を保障することが急務である。しかし、実態としては、外国語のわかる看守や日本語のわかる外国人被拘禁者に通訳をさせている実態がある。その量、質共に極めて不十分な通訳しか提供されていない。
 言語上のコミュニケーション・ギャップが、被拘禁者の規律違反とされる行為やそれに引き続く職員からの暴行の原因となったケースも多い。黒羽刑務所では懲罰手続きにおける通訳を要求してハンガーストライキを行なうに至ったケースがある(※事例11黒羽刑務所:サイードケース参照)。
外国人に対する規則の告知、懲罰手続きに際して通訳を保障すべきである。

事例8 周、中国人女性収容者、東京拘置所における流産事例

 中国人女性の周碧珠さん(35歳)は1997年3月3日、オーバーステイで逮捕された。彼女の身体の状況には当初から異変があり、逮捕3日後の3月6日、彼女は激しく嘔吐して妊娠したことを確信した。逮捕した警視庁上野警察署は、周さんを産婦人科のない病院へ連れていき、医者は周さんを「急性胃炎」と診断し胃炎の薬を与えた。周さんは3月17日にようやく産婦人科の診察を受け、妊娠7週と診断された。
 警察の代用監獄では、毎日、食事を食べては吐くといった状態が続き、多いときで日に10回くらい吐いていた。周さんは、胎児のために栄養補給が必要だと思い、食べても吐かずにすむ果物が食べたいと看守に何度も訴えたが、拒否された。「せめて牛乳がもらえないか」と看守に頼んだが、これも規則に違反するとの理由で拒否された。
 周さんは、3月26日に、再び産婦人科で診察を受けた。医師は胎児が正常であると診断したが、彼女の下半身からは出血が続いていたため、周さん自身は流産の危険を感じていた。
 周さんは、4月2日に東京拘置所に移された。移監3日後、これまでになく下腹部の痛みがひどくなり、半身が麻痺したような状態になった。彼女は夜勤の看守に助けを求めた。しかし看守は、「夜勤で皆帰っていない。明日は日曜で休みだから月曜でないと医師の診察は受けられない」と言われた。
 しかし月曜日になって彼女の診察にやって来たのは医師ではなく、看護婦だった。この看護婦は房の窓越しに「どこが痛いのか」と聞いた。周さんが「腰と腹が非常に痛い」と訴えると、「寝過ぎるからだ」と言い放った。周さんが「本当に腹が痛いのです」と言っても、看護婦は取り合おうとせず、そのまま去っていった。周さんは、それでも、医師が来るのを待っていたが、結局医師は来なかった。
 周さんが拘置所で初めて医師の診察を受けられたのは、17日後の4月22日のことだった。この時、胎児は既に死亡しており、医師から「胎児はもういない。かわいそうに」と言われ、周さんは深い悲しみに沈んだ。
 1997年6月20日、周さんは国と東京都を相手取り東京地方裁判所に国家賠償請求訴訟を提起した。周さんは、懲役2年、執行猶予3年の判決を受け、提訴の翌日、強制退去手続によって、本国に送還された。

事例9 旭川刑務所、磯江洋一、厳正独居

 磯江洋一は、55歳の無期懲役の受刑者である。彼は、1982年9月3日に旭川刑務所に入所したときから厳正独居拘禁の状態であった。刑務所側は、外部交通を禁じ、彼は、まったく孤独の状態に置かれていた。彼は、房内で作業をし、一人で運動し、入浴もひとりきりであった。運動と入浴以外に外にでることはできなかった。独房の大きさは、奥行きが3.31mで、幅が1.63m、高さが2.55m。彼は一日に23時間半以上もこの房で過ごすのである。
 彼は、誰とも話すことがないので、言葉を発する昨日が失われてしまうのではないかと恐れていた。というのも、この刑務所は彼の住居からずっと遠いところに位置しており、唯一の血縁者である彼の母親は高齢で訪ねてくることは難しい。母親の訪問を受けたのは16年の内にたったの2回である。あとは、1年に3、4回、彼の訴訟の代理人である弁護士が訪ねてくるだけである。
 磯江は、1984年12月に、刑務所に対して訴訟を提起したが、施設側は3ヶ月ごとに厳正独居拘禁期間を3ヶ月間延期し続けている。延期の理由は、彼が他の受刑者とうまくやれないからというものである。
 1995年1月の国連人権委員会の15回目の会議において、拷問特別報告者であるナイジェル・ロドリー氏が提出した報告書に磯江のケースが記載されている。1995年10月23日には、磯江は通常の独房に移されたが、彼は、約13年間もの間厳正独居の状態であったのだ。
 彼の訴訟は、今尚、旭川地方裁判所において係争中である。

事例10 益永利明死刑囚

 益永利明は、1975年から東京拘置所に収容されている。1987年4月に最高裁において、死刑判決が確定した。彼は、肉親との関係は絶たれていて、孤独な状況にあった。
 1982年に彼は、益永すみこの養子となり、多くの手紙や面会、裁判の傍聴など利明との親子関係を築いていった。
 しかし、1987年4月に、死刑が確定し、死刑囚としての処遇が始まると、拘置所は、彼と養母の間の通信を認めなくなった。現在、彼は、肉親との面会と彼の再審や民事訴訟を担当している弁護士との面会や通信が認められるだけである。
 東京拘置所は、また国連の人権委員会宛に救済を求めた彼の手紙を発信することも認めなかった。日本の刑事被拘禁者の屋外の運動は週に2、3回30分だけであり、これは人権侵害であると訴えるために、3度人権委員会に手紙を送ろうと試みている。これに対し、拘置所側は、こうした手紙を送ることを拒否しつづける頑なな姿勢をとっている。
 彼はまた、特に死刑制度の問題について、一般紙への投稿も試みている。しかし、拘置所側は、これを禁止し、その理由は、新聞社との通信は認められていないからというものであった。
 毎日、ほぼ24時間もの間、彼は、狭苦しく、暗く、風通しの悪い房の中で、長い間、外の世界を見ることなく、全く隔離された状態で過ごしている。また、常に房の中のカメラから監視されている。彼はまた、他の収容者からも隔離されている。入浴や運動の時でさえ、まったく一人である。どの死刑囚も、お茶の時間やテレビ鑑賞の時間に参加することを禁止されている。あらゆるすべての人々との接触が制限されているのである。

事例11 イラン人受刑者、サイード
 Saeid(サイード)・PILHVARはイラン国籍、27歳の男性受刑者である。サイードの府中刑務所での生活は、苛酷な取り扱いや医療行為の不十分さから危険に満ちたものであった。
 サイードは、95年に日本の裁判所で、強盗罪により6年の刑を宣告された。97年7月には、彼は、ハンガーストライキを行なった。黒羽刑務所にいた際に「私語」をしたことを理由に取調べを受けた後のことである。彼の弁護人によれば、彼は、意識的に、刑務所の幹部刑務官に会うために、刑務所規則に違反した。つまり、彼は、幹部に会って懲罰手続きの中で話がしたかったのである。その刑務官に対して、彼が収監され、送金がこれ以上できないので、イランに住む家族は経済的に困窮していることを訴えたかった。しかし、懲罰委員会で、話しをすることは許されず、通訳もつけてもらえなかった。
 刑務所側は、サイードのハンストを右足に静脈注射を打って、強制的に止めさせた。彼の足は明らかに腫れ上がり、苦痛を伴っていたが、この訴えを無視し、約2週間この注射を行なった。とうとう、彼の足は麻痺状態で、歩くことができなくなり、車椅子が必要となった。
 97年の8月には、サイードは、府中刑務所に移送された。ここで彼は通訳へのアクセスと処遇状況の改善を求めてハンガーストライキを再び始めた。このとき、彼は鼻に流動食を注入され、digestほとんどを消化できず、嘔吐しはじめた。97年10月には、6週間、病院に足の治療のため入院した。しかし、栄養失調については十分な治療を受けなかった。97年12月に府中刑務所に戻ると、食べ物を消化できなくなり、流動食しか受け付けなくなった。98年6月に彼に面会した弁護士によると、95年には、78キロあった彼の体重はおよそ42キロまで落ちていたという。彼の身長は172センチであり、約半分もの体重が失われている。もし、民間の病院で特別な治療を受けなければ、死亡する危険があるのだ。
背景情報:(アムネスティ・インターナショナルの緊急行動より)
 日本の刑務所の状況は、非常に苛酷で、多くの点において残虐な、非人道的な品位を傷つける取り扱いが行われている。医療行為は、しばしば不十分である。収容者が適切な医療行為を受けることは難しく、訴訟に持ち込まれる事例もある。日本政府は、適切な医療行為を行っており、国際的な義務を履行していると主張しているが、日本人同様、外国人に対する苛酷な取扱いが今も見られる。

事例12 澤地和夫、東京拘置所ケース、窓のプラスチック板
 東京拘置所在監の澤地和夫さんは、居房の目隠しをされた特殊な窓から外の景色を眺める自由を求める裁判を係争中である。
 澤地さんは、1989年5月、東京拘置所内の新舎の独居房から、「北三舎」と呼ばれる旧舎1階の独居房に転房させられた。北三舎では、居房の窓に白い波状のプラスチック製品の目隠し遮蔽板が取り付けられていた。
以前の房からは、澤地さんは、窓から中庭に植えられた草花や樹木を見て、精神的な安らぎを得ていた。しかし、北三舎では、遮蔽板があるため、地面のごく一部と空の一部しか見ることができなくなった。また、遮蔽板の設置によって、日当たりや風通しが悪くなり、夏はより一層蒸し暑く、冬はより寒くなっている。さらに、外が見えないことによって終日独居となっている澤地さんの拘禁感は著しく高まった。
 澤地さんは1991年4月、東京拘置所長に対し、遮蔽板の撤去を求める不服申立を行った。同年8月、拘置所当局は遮蔽板の上部約50センチメートルが切除した。しかし、上部の切除だけでは、彼が外の景色を見ることはできなかった。
 澤地さんは、違法な遮蔽板設置によって被った損害の国家賠償を求めて1992年4月6日、東京地方裁判所に提訴した。
 被告国は、遮蔽板がなくなると、居房の窓を通じて、他の房や運動場にいる被収容者と声やサインを交換するなどの不正連絡をすることが可能となり、拘禁目的や施設の規律が維持できない怖れがあるため違法ではないと主張した。裁判所は、「一般的には、拘置所の窓に遮蔽板を設置しないことが国際的基準により合致する」としながら、本件遮蔽板は拘禁の目的に必要かつ合理的な設備であるとして被告の主張を支持した。控訴審の東京高裁も一審を支持したため、原告は1995年5月26日最高裁判所に上告した。

事例13 広島拘置所、Y

 Yは、93年11月5日から広島拘置所に収容されている。彼は、以前より左股関節機能全廃の障害を有し、勾留当時から微熱が続く状況であった。拘置所当局は彼の左股関節の障害については認識していた。
 93年12月10日の午後3時頃、Yが身体障害と病状のため、居房内で壁にもたれて坐っていたところ、巡回中の看守が「不体裁なかっこう」と姿勢を咎めた。Yがこれに弁明したところ、これが「抗弁」とされ、懲罰委員会にかけられ、軽へい禁10日間に処せられた。
 Yは94年9月8日に100万円の国家賠償を求めて広島地裁に提訴したが、96年12月25日に敗訴した。
 裁判所は、拘置所内での秩序維持という極めて抽象的な利益や被拘禁者の自殺・自傷を未然に防ぐという利益を強調して、「心得」による姿勢の強制が必要かつ合理的な制限であるとしている。「自殺防止も、被拘禁者を同じ場所で同じ方向で同じ姿勢で坐らせておけば、職員が巡回に都合がよいというのにすぎない。未決拘禁の目的は、あくまでも逃走又は罪障隠滅の防止にある。さらに、判決は、拘置所内での姿勢の強制が、憲法違反か否かについて触れていない。Yは97年1月7日に高裁に控訴している。

事例14 大阪刑務所、不十分な医療行為

 Aは、1991年10月31日に懲役刑が確定し、92年1月から広島刑務所に服役していた。彼には、肝硬変その他の持病があり、公判中も何度も入退院を繰り返していた。彼のこうした健康状態にもかかわらず、刑務所側は十分な治療を行っていない。92年に検査した際の結果に問題がなく、本人が自覚症状を訴えなかったことを理由に、通常人と全く同じ健康診断しか行わなかった。
 その後94年7月11日に、Aは嘔吐し、腹部の痛みを訴えた。検査の結果、肝細胞癌とわかり、医療刑務所に移送され、特別な治療が行われた。しかし、彼は94年8月23日には、死亡した。
 肝硬変の状態が長く続くと肝臓癌が発生しやすいことは医学的常識である。彼の家族は国倍訴訟を提起し、施設側には、癌をもっと早く発見するための検査を行う義務があったと訴えている。
 刑務所内の医療行為については、監獄法において、被拘禁者が外部の医師を任意に選択し、自由にその治療をうけられること(42条)、さらに、拘禁を行う国並びに当該拘禁機関の職員は、病気を患っている拘禁者を医療刑務所に収容し、治療行為を行うべきことが規定されている(40条)。

第7、規約10条3項

「行刑の制度は、被拘禁者の矯正及び社会復帰を基本的な目的とする処遇を含む。」
7−1 日本政府に対する質問
(1)不十分な教育内容
 受刑者が受講できる教育のコースにはどのようなものがあるか。これらは選択が可能か。「釈放前指導」について政府報告に記されている「全国的に統一した基準」の内容を具体的に明らかにされたい。
(2)釈放後の生活の援助について
受刑者の釈放後の職業と住居について、どのような援助が実施されているか。
(3)年金受給の権利について
高齢で出所する受刑者に対し年金受給の手続きについてどのような情報を提供しているか。
7−2 日本政府への勧告
(1)教育について
 被拘禁者の希望に応じた教育が与えられるべきように求める。
(2)釈放後の生活の援助について
 満期釈放者についても、施設当局と保護観察部門が連携して、受刑者の釈放後の職業、住居について十分な援助を行うことを求める。
(3)年金受給の権利について
 高齢になって出所した者が年金を受給できる資格を得られるよう適切な情報を提供されるよう求める。
7−3 現状
(1)不十分な教育内容
 通信教育はその内容が限られており、希望者に応じて受講できる制度にはなっていない。資格試験に合格できそうな者をあらかじめ選択して受講させ、合格率をあげるという操作も行われている。釈放前指導は、仮釈放ではない満期出所者についてはほとんど行われていない。
(2)釈放後の生活の援助について
 仮釈放で釈放される受刑者は引き続き保護部門の観察を受け、また保護会に帰住するものもいるため、釈放後の生活について、一定の援助が提供される。しかし、満期釈放者の場合は勤務先も住居も決まらないまま、社会に放り出されることとなって、作業賞与金が少ないため、所持金を数日のうちに使いはたして、再犯を起こすものの数が大変多い。満期釈放者についても、施設当局と保護観察部門が連携して、受刑者の釈放後の職業、住居について十分な援助を行うことを求める。
(3)年金受給の権利について
 年金受給の為の手続きについて、指導がされていない。
 高齢になって出所した者が、年金取得の手続を在監中に知らされていなかったために年金を受取れないでいるケースがある。赤堀政夫氏は1960年12月に死刑確定囚となった。年金制度は1961年4月に導入されたが、宮城刑務所は年金の加入や免除の方法について赤堀氏に説明もせず、その手続を取らなかった。赤堀氏は1989年に再審で無罪が確定し社会に復帰したが、そのため手続さえしておけば受取れた年金が受給できないでいる。このようなことがおこらないよう、丁寧な指導が行われるべきである。

第8、規約14条

1項2段目「すべての者は、その刑事上の罪の決定又は民事上の権利及び義務の争いについての決定のため、法律で設置された、権限のある、独立の、かつ公平な裁判所による公正な公開審理を受ける権利を有する。」
3項「すべての者は、その刑事上の罪の決定について、十分平等に、少なくとも次の保障を受ける権利を有する。
(b) 防御の準備のために十分な時間及び便益を与えられ並びに自ら選任する弁護人と連絡すること。」
8−1 日本政府への質問
(1)弁護士との秘密交通の否定
 受刑者、死刑確定者と弁護士の面会に看守が立会い会話内容を筆記していること、刑事弁護人を含むすべての弁護士と被拘禁者の通信が検閲されていることは規約10条、14条1項、3項b、被拘禁者保護原則18ー3、4に違反するのではないか。
(2)領置物の規制に関する新規則
 1997年に制定された領置物の規制に関する新規則は、被拘禁者の所持品の量を規制しているが、刑事裁判、民事裁判の記録も例外の取り扱いは受けないのか。
(3)受刑者の裁判への出廷の権利の否定
 受刑者が裁判を提起した場合、刑務所は裁判所への出廷を認めていないが、このような取り扱いは規約14条1項に違反するのではないか。
(4)懲罰の適用における適正手続の保障
 懲罰の要件は法律または規則によって定められているか。
 懲罰手続きにおいて懲罰理由の書面による告知を受け、証拠を閲覧し、証人を尋問し、弁護士に依頼する権利が保障されているか。
8−2 日本政府への勧告
(1)弁護士の秘密交通の否定
 弁護士と被拘禁者の面会への立会い、通信への検閲は廃止するべきである。
(2)領置物の規制に関する新規則
 1997年に制定された領置物の規制に関する新規則は刑事、民事の訴訟資料を規制の対象から除外し、また拘禁の期間にも配慮するよう求める。
(3)受刑者の裁判への出廷の権利の否定
 受刑者の裁判への出廷を保障すべきである。
(4)懲罰の適用における適正手続の保障
 懲罰手続きにおいて懲罰理由の書面による告知を受け、証拠を閲覧し、証人を尋問し、弁護士に依頼する権利を保障すべきである。
 遵守事項を定めた規則は、法令により明確に定められるべきである。更に決定には効果的な不服申立の機会が保障されなければならない。
8−3 現状
(1)弁護士との秘密交通の否定
 未決被拘禁者は弁護人と秘密の面会ができる。しかし、受刑者、死刑確定者の再審請求のための面会、施設内の虐待に対する損害賠償などの訴訟の代理人の弁護士の面会にも看守が立会い、会話の内容を克明にメモしている。また、時間も30分以内に制限するなどの条件がつけられている。つまり、施設内での暴行事件等で係争している場合、被告側が、原告と代理人の打合せに常時立ち会うこととなり、通信のすべてが検閲されていることも合わせて考えればとても公平な裁判は望めないのである。
 旭川刑務所のあるケースでは、裁判長から旭川刑務所長あてに、立ち会いをつけないようにとの依頼状が出されたにもかかわらず、立ち会いが続けられている。死刑確定囚の再審請求事件の打合せにも看守は立ち会っている。(※事例9旭川刑務所磯江ケース参照)  1997年11月25日に高松高等裁判所は看守に暴行を受けたとして国家賠償訴訟を提起している受刑者と弁護士との面会が30分に時間制限されたこと、面会に立会いがついて、十分な打合せができなかった場合には違法であるとした。この判決は規約の国内法的効力を認め、被拘禁者保護原則やヨーロッパ人権裁判所の判決例についても規約解釈の指針とすることができるとした点でも画期的なものである(※事例15徳島刑務所ケース参照)。
 未決被拘禁者の弁護人宛の手紙も含めて、全ての弁護士宛の手紙は検閲の対象とされ、ときには削除の対象とされている。
 このような取扱いは規約14条1項、3項b、被拘禁者保護原則18条3項に違反する。
(2)領置物の規制に関する新規則
 日本では1997年10月1日から、法務省令により、それまで制限のなかった領置品の数量が制限されるようになった。各施設の保管数量を収容定員で割って、1人あたりの基準保管数量を定めるというものである。その量は衣類も含め名古屋拘置所で98リットル、東京拘置所で115リットル、大阪拘置所で150リットル、府中刑務所で129リットル等々と定められた。これを超えている場合は新たな差入れや、購入を禁じるということから、多くの被拘禁者が所有物を廃棄したり家族に送り返すことを余儀なくされている。
 弁護人から差し入れられる裁判資料や勉学のための図書等も保管数量に数えられ、在監期間の長短も配慮されていないシステムになっている。実際に訴訟事件の遂行に支障が生じている。このような取扱いは被拘禁者の刑事、民事の訴訟における防御活動の侵害であり、規約10条、14条3項b、1項に違反するものである。また、居房内で所持できる物品や数量は細かく規制されている。東京拘置所では1997年11月より居房内に所持できる裁判資料は積み上げて高さ2mまで、その他の書類は1mまでに制限されるようになった。複雑な事件の刑事被告人の場合、自分自身の裁判資料を手元に所持しておくことにも支障をきたしている。
(3)受刑者及び死刑確定者の裁判への出廷権
 受刑者が処遇の問題等で提訴した場合、本人の出廷は認められない場合が多い。また、別の事件の証人として呼ばれた場合も一般の法廷には出廷できず、本人の在監する施設へ訴訟当事者が出張して行われるが、この場合は一般の傍聴は認められていない。死刑確定囚においてはとりわけ出廷が制限されている。
 このような現状は、規約14条1項の定める裁判を受ける権利の侵害である。
(4)懲罰の適用における適正手続の保障
 被拘禁者処遇最低基準規則29条は、規律違反となる行為、懲罰の種類・期間、懲罰を科す権限を有する機関を法律または権限ある行政庁の規則によって定めなければならないとし、同30条1項は29条に定める法律または規則によるのでなければ懲罰を科される事はないことを保証し、被拘禁者保護原則30−1は、規則は公表されることを必要とする。
 しかし、監獄法及びその施行規則は懲罰の要件を定めず、実際には各拘禁施設の長が定める「所内生活の心得」の遵守事項によって懲罰の要件を定めているのであるが、公開されないことは、7条「刑務所規則の公開について」で述べたとおりである。職員に対する抗弁は、理由の有無を問わず懲罰の対象となり、看守の指示・命令に対してその理由を質しただけでも抗弁に当たるとされて懲罰の対象となることがある。裁判所は、このような措置を追認することが多い。
 また、懲罰を科すためには懲罰審査会を経なければならないとされてはいるものの、職員のみで構成されており、懲罰理由は口頭でしか告知されない。しかも被収容者が、証拠を閲覧したり、証人を申請したりする権利もなく、弁護士を選任する権利も保証されていない。このような現状は一定の重大な懲罰に着いては、適正手続きを保障した規約14条3項b,d,eに違反する。(事例4府中刑務所ケビン事件参照)

事例15 徳島刑務所;弁護人との秘密接見
 徳島刑務所で刑務所職員から暴行を受けたとして国に損害賠償請求訴訟を提起した受刑者と代理人である弁護士との訴訟打ち合わせについて、同刑務所長は1990年10月から翌91年2月までの間に14回にわたり面会時間を30分以内に制限し、かつ施設職員を立会させるなど接見を制限した。そこで、受刑者本人と代理人である弁護士らはこれら接見妨害を違法として国に対し損害賠償を求めた。この事件で徳島地方裁判所は1996年3月に、その面会時間の制限について国際人権規約第14条1項に違反するとして国に対し合計115万円の賠償を命じたが、面会の立会については刑務所当局の裁量の範囲内であるとした。国と原告の双方がこれを不服として控訴したが、控訴審である高松高等裁判所は1997年11月に賠償額を減額したものの、面会時間だけでなく、面会の立会の一部についても人権規約14条1項に反するとの判決を下した。
 この判決は規約の国内的効力を認め、さらに、被拘禁者最低基準規則、被拘禁者保護原則、ヨーロッパ人権裁判所の判例などについて規約解釈にあたっての先例的な価値を認めた点で、国際人権法の日本国内における適用に関しても画期的なものである。しかし、国はこの判決に従わず、現在最高裁判所に上告中であり、刑務所における実務的な取扱いはまったく変更されていない。

第9、規約17条

「何人も、その私生活、家族、住居若しくは通信に対して恣意的に若しくは不法に干渉され又は名誉及び信用を不法に攻撃されない。」
9−1 日本政府への質問
(1)受刑者及び死刑確定者と友人、NGOとの面会、文通制限
 受刑者、死刑確定者が家族、弁護士以外の友人と面会、通信することが認められないことは、規約10条、17条に違反するのではないか。
(2)手紙の検閲
 すべての手紙を検閲しなければならない実質的な理由を説明されたい。
(3)面会
 土曜日、休日の面会を認める計画はあるか。
(4)外国語による面会通信
 立会いが不可能であることを理由に外国語による面会を認めない場合や検閲が施設内で不可能であことを理由に外国語による信書の到達が著しく遅れる場合があるか。
9−2 日本政府への勧告
(1)受刑者及び死刑確定者と友人、NGOとの面会、文通制限
 受刑者と死刑確定者が友人、NGOメンバーと面会・通信することのできるよう、監獄法を改正すべきである。
(2)手紙の検閲
 被拘禁者の発受信する手紙、閲読する図書、パンフレット類の検閲をやめることを求める。外国語文の閲読にあたって「翻訳料」の支払いを被拘禁者に強制しないことを求める。
(3)面会について
 土曜・日曜・祝日の面会を認め、面会時間を最低30分まで認めるよう求める。
(4)外国語による面会通信
 面会・通信の際に立会い、検閲が不可能であるとの理由で母国語の使用を制限している措置を撤廃すべきである。
9−3 現状
(1)受刑者及び死刑確定者と友人、NGOとの面会、文通制限
 未決被拘禁者は友人との面会を認められている。しかし、受刑者、死刑確定者は友人やNGOメンバーとの面会、通信を認められていない。家族との関係が断たれている被拘禁者には全く外部との交流がないこととなる。家族が遠隔地や海外にいる場合は手紙のやり取りは可能であるが、面会を受けることは不可能である。さらに、家族であっても認められていない死刑確定囚もいる。こうした環境の中で刑の定まった者は社会との接点が失われていく。1994年12月に死刑が執行されたY氏は刑が確定する寸前に養子縁組を行なった家族との面会・文通はついに認められなかった。養父母はY氏が遺体となってはじめて再会できたのであった。(※事例16安島死刑囚ケース参照)
 このような厳しい外部交通の制限は、非人道的なものであるだけでなく、社会との接点を喪失させ、社会復帰を困難にするものと言わざるをえない。
(2)手紙と図書の検閲
 被拘禁者の発受信物や、閲読する図書、パンフレット類がすべて検閲されているため様々な支障をきたしている。一般の新聞については検閲の作業が大変になるということから購読できる新聞の種類は限られている。外国語文は翻訳しないと検閲できないということから翻訳料を被拘禁者が負担しなければならない(※事例10益永死刑囚、17永田死刑囚のケース参照)。一般に市販されている書物であってもそうである。一般的に脱走等の事件がおこると抹消されるほか、死刑確定囚においては「心情の安定」を図るということから、執行の様子等が記された部分は抹消される。しかし、これらは実際に脱走を防いだり、心情を安定させるという意味からは無意味なものである。
(3)面会について
 日本では1990年4月から土曜日の面会が完全にできなくなった。そのため平日に仕事を持っている人の面会は困難になっている。遠方から訪れる場合は尚更である。平日よりも土・日・祝日の面会を求める声は多い。面会時間は「30分以内」とされているが、実際には5分、10分で打ちきられていることが多い。また、1日に面会できる回数、人数等は拘置所によって異なっているが、収容人数最大の東京拘置所は一番厳しく、在監者1人につき1日1回、同時に3人の面会者までとなっている。したがって、午前と午後に別の家族や友人と会うことなどはできない。
(4)外国語による面会、通信
 現在英語、中国語など極一部の施設側で立会いの対応のできる言語を除いて、一般人と外国人受刑者・未決被拘禁者との面会での使用言語が日本語に制限されている。通信についても、検閲のため翻訳が必要という理由で、大使館に検閲の為の翻訳を依頼し、その翻訳によって検閲しているため、著しく通信が遅延する例が指摘されている。府中刑務所などいくつかの施設に国際対策室が設置され、面会立会い、信書の検閲などを中心に外国語能力の強化を図っている。しかしながら、面会立会いと信書の検閲自体が、欧米諸国では既に原則として実施されなくなって来ており、ごく例外的なケースを除いては廃止すべきものと考えられる。
 自由を奪われた刑事被拘禁者にとっては母国語での情報はきわめて貴重なものである。しかし、拘禁施設内での外国語での新聞書籍の保障は極めて不十分である。英語の新聞、書籍は大きな刑務所、拘置所などには多少集められているが他の言語のものは極めて少ない。規模の小さい拘置所などには外国語の書籍はほとんどない。また、刑務所、拘置所では外国語でのテレビラジオ放送は認められていない。

事例16 安島幸雄死刑囚のケース
 安島幸雄は、1985年5月27日、殺人罪で死刑判決が確定した。彼は、拘置されていた東京拘置所において、養父母との面会を禁じられた。彼は、死刑判決の宣告後、安島夫妻と養子縁組みをしており、彼自身と養父母は拘置所に面会や通信の許可を求めていた。
 これに対し、3人は1988年10月、東京地方裁判所に国賠訴訟を提起した。しかし、94年12月1日、幸雄は処刑され、その直後の12月13日、東京拘置所の外部交通禁止行為に違法はないとして原告敗訴の判決が言い渡された。養父母は高裁に控訴したが、これも敗訴。さらに最高裁に上告しているが、その結論は出ていない。

事例17 永田死刑囚のケース
 永田氏は1992年6月12日に刑事被告人として東京拘置所に収容されていた。A氏は拘置所に英文の手紙のコピーを送った。その手紙はアムネスティ・インターナショナルの国際事務局のメンバーの一人からの手紙であった。東京拘置所長は、6月16日、閲読の可否を判断する検閲の前提として、日本語翻訳費用を在監者に負担させる内規に従い、永田氏にその翻訳費用の支払を求めた。しかし、永田氏は翻訳費用の支払いを許否したので、東京拘置所長はその手紙の写しの閲読を不許可とした。
 差し入れられた英文は以下のとおり。

amnesty international INTERNATIONAL SECRETARIAT, …
Mr. (name)(address)
Dear Mr (name)
We have received the 240 copies of the "Plea fo International Support to allow Nagata Hiroko to get Medical Treatment" which you sent us in January 1991, as well as several petitons from other sources in the following months.
We have discussed the case of Ms Nagata with medical doctors in the UK are supportive of Amnesty International's work and we understand they subsequently mate inquiries with the authorities about the medical condition of Ms Nagata.
Please let us know if there are any changes in her condition and in the medical treatment she is receiving.…

 A氏と永田氏は国家賠償請求訴訟を提起した。東京地方裁判所と東京高等裁判所の判決は「拘置所長の判断に誤りはない」と判断し、最高裁判所も98年5月26日、これを支持して上告を棄却した。現在でも外国語の手紙の閲読に翻訳費用を本人が負担することを条件とする実務が継続している。

第10、規約18条

1項「すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。」
2項「何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。」
10−1 日本政府への質問
 イスラム教徒に対して、ラマダン中に強制的に食事を与える処遇を行っているか。
10−2 日本政府への勧告
 被拘禁者の信仰に配慮するよう、例えば、イスラム教徒のラマダン(断食)中に食事を強制してはならない。
10−3 現状
 東京拘置所ではラマダン中であるにもかかわらず鼻からチューブを押し込み流動食を食べさせられたというケースさえ報告されている。

事例18 イスラム教徒の断食
 これはパキスタン系の英国人男性、A氏、21才の事件である。彼が東京拘置所収容中の98年1月19日午前10時30分から11時までの間、東京拘置所内医務室において担当医に対し自分の体調について説明しようとした。
 しかし彼は担当医から診察を拒まれ、同室において5人程の拘置所看守らに体を押さえ込まれ、強制的に自分の房まで引きずり戻された。その際に、複数の看守から暴行を受け、右脇腰部に傷を負った。
 その日は正午から翌日の昼過ぎまで、24時間くらい懲罰房に入れられ、ひどく寒い思いをした。
 また、97年の12月28日から98年の1月28日までラマダンという断食の期間であった。この期間はイスラムの教えでは、日の出から日没まで食事をしてはならなかった。イスラム教徒であるA氏は、ラマダン(断食)中の1月19日午後4時ころ(日没前)に、看守二人から体を押さえ込まれ、鼻からチューブを押し込まれ、流動食を無理矢理与えられた。そのとき、その二人の看守に後頭部を殴られたり、顔面を殴打されたり、5〜6回の暴行を加えられた。
 A氏は、98年1月21日に、東京地裁に国家賠償請求訴訟を提起した。

第11、規約19条

1 すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。
2 すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
11−1 日本政府への質問
 ジャーナリストと被拘禁者との取材目的での面会は認められるか。
11−2 日本政府への勧告
 ジャーナリストと被拘禁者との取材目的での面会を認めらるべきである。
11−3 現状
 死刑確定者や受刑者はもちろんのこと、友人とも面会が可能な未決被拘禁者の場合も、ジャーナリストとの取材目的の面会は一切認められていない。東京拘置所長は、死刑判決を受け、上告中の未決被拘禁者と雑誌編集者との取材目的の面会を不許可とした。東京高等裁判所はこの処分に違法はないとした。
 このような措置は規約19条が保障する表現の自由、取材の自由を侵害するものである。
事例19 名古屋拘置所;ジャーナリストへのアクセス
 ジャーナリストTは、名古屋拘置所に刑事被告人として在監中のKとの三度にわたる接見を申し出た。目的は、第一回目の1987年5月25日には「安否確認」、第二回目の1987年6月17日には「取材」、第三回目1987年7月6日には「訴訟打ち合わせ」というものだった。その約半年前、1986年11月18日にTとY記者は同じ名古屋拘置所に在監中のXと接見した。その際、Xに関する取材を目的とするものではなく面会内容を外部に発表しない旨の自筆の誓約書を提出していたにもかかわらず、同行したY記者がセンセーショナルな記事を発表していた。
 Kに対する第一回目の申し入れに際して、Tは拘置所当局より、同様の誓約書の提出を求められ、これを拒否したところ、拘置所長は接見を許可しなかった。
 拘置所長は第二回目に対しては取材目的での接見を不許可として面会を不許可とした。
 またT及びKが第二回目の面会不許可処分の取消請求訴訟を提起した後の第三回目の面会についても、接見を不許可とした。
 TとKは、Kの接見の権利、Tの取材の自由、Tらの裁判を受ける権利などを侵害する違憲・違法なものであるとして国家賠償請求訴訟を提起した。裁判は現在最高裁で係属中である。二審判決では、以下のような理由でこの行政処分を違法ではないとした。「これら接見不許可処分の理由がジャーナリストの取材目的による在監者との接見を一律に禁止したものとは考えられない」とした上、面会を許可すれば監獄内の規律又は秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があったとした。
 現在まで、実務上は全国の施設において、記者との面会は理由のいかんを問わず許可していない。その理由として、第一に、収容者の名誉・プライバシーの保護、第二に、施設の秩序維持である、としている。

第12、規約20条

2項 「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的〔national民族的〕、人種的又は宗教的憎悪の唱導は、法律で禁止する。」
12−1 日本政府への質問
 看守による人種差別的な言動を防止するため、どのような措置をとっているか。
12−2 日本政府への勧告
 人種差別撤廃条約の4、6、7に基づき、職員の人種差別的言動をやめさせるための実効的措置、とりわけ職員に対する人権教育を実施すべきである。
12−3 現状
 日本の施設では職員の外国人被収容者に対する差別的言動が後をたたない。府中刑務所のイラン人被拘禁者は「イラン人はみなうそつきだ」と言われ、東京拘置所ではナイジェリア人の被拘禁者が「ゴリラ」と呼ばれた。(※事例20府中刑務所B氏ケース参照)

事例20 東京拘置所:外国人に対する暴行
 R氏は、27歳のエジプト国籍の男性で、93年6月から東京拘置所に収容されていた。彼は93年11月と94年3月に、規律違反行為による懲罰として「特別房」に収容された。最初の収容の際には、房が汚れていて非衛生的で多くの虫や汚物にまみれていたために、皮膚病を患った。2度目の収容の際には15人ほどの看守らが彼に暴行し、深刻な外傷を負い、さらに右目がほとんど失明に近い状態となった。
 C氏は、28歳のナイジェリア人で94年2月から東京拘置所に拘禁されていた。ある日、C氏が毛布が足りないと訴え、看守に対し、寒いのでもう一枚毛布をほしいと願い出ると、その後、5人の看守が房に入ってきて、何度も彼を殴り始めた。さらに、彼は保護房に連行され、裸にされてさらに暴行を受けた。
 C氏が収容されていた区画の担当であった看守は、時々、彼をゴリラと呼んでいた。ある日、C氏が昼食をとっていると、看守がまたゴリラと彼を呼んだため、C氏が「バカヤロー」と言い返した。その後、94年8月4日に、C氏は、軽へい禁を命じられた。彼が命令には従わないと言うと、特別房に連行され、看守らがくり返し彼を持ち上げては床に落とし、さらには壁に向かって放り投げた。そのため、彼の歯は欠け、鼻血が約10時間も止まらなくなった。右耳からの出血は2週間ほども続き、左目の視力はぼんやりとしか見えない状態になり、背中にも深刻な痛みが残った。
 R氏とC氏は、94年11月1日にあわせて4千4百万円の国賠訴訟を提起した。R氏の訴訟は係争中であるが、C氏の訴えは97年に証拠不十分で棄却され、東京高裁に控訴している。

第13、規約22条

1項「すべての者は、結社の自由についての権利を有する。この権利には、自己の利益の保護のために労働組合を結成し及びこれに加入する権利を含む。」
13−1 日本政府への質問
 日本の刑務所職員は団結権などの労働基本権を保障されているか。
13−2 日本政府への勧告
 刑務所職員に対して団結権などの労働基本権を保障すべきである。
13−3 現状
 国家公務員法108条の2第5項は、警察と海上保安庁職員と共に監獄に勤務する職員の団結権、団体交渉権などの労働基本権を完全に否定している。現実に監獄職員の労働組合は存在しない。監獄職員の労働条件改善の機関としては、人事院という制度が設けられているものの実効性に乏しく、その労働条件は劣悪である。特に夜勤の勤務や転勤に不満が集中している。規約22条2項は、軍隊及び警察について、労働基本権に制限を課すことを認めているが、監獄職員はその対象とされていない。
 ILO87号条約第9条を根拠として消防職員と刑務所職員を団結権の対象から除外すべきではないというILO専門家委員会の見解が示されている。ちなみに、ILO報告書によると、刑務所職員の団結権を否定しているのは、カメルーン、マレーシア、メキシコ、ナイジェリア、パキスタン、スリランカ、スワジランドなどとされている。

事例21 刑務所職員の自殺
 鳥取刑務所に赴任して間もない処遇係長のM氏が、98年5月20日に官舎で首をつって自殺した。刑務所の医務課長は解剖もせずに検視し、「心筋梗塞」による病死と報告した。
 M氏は、前任の広島拘置所では医務係長を務めていた。異動が決まった後、処遇係長という不慣れな職務について周囲に不満を漏らしていた。
 最近、自殺する受刑者より自殺する職員の数の方が多い。受刑者の自殺事故に関してはマスコミにも発表され、内部的にも詳細な報告書が作成されて法務大臣に上申されるが、職員の自殺に関しては公式に報告されることはない。
 1996年から97年に起こった逃走事件や処分などのいくつかの不祥事事件以来、刑務所職員の異動が定期的に行われるようになった。その理由は「職員と被拘禁者との癒着を防止すること」と説明されている。したがって職員の仕事も非常に短期のサイクルで変化している。
 また、職員の適性を調査するため、年に2回、定期的に全施設職員の面接調査が行われるようになった。この時、職員はプライバシーに関する情報を調査されている。このため、職員たちは常日頃から幹部職員の顔色をうかがうような仕事ぶりが横行し職業倫理も歪められており、施設内での被収容者の処遇にも悪影響を及ぼしている。
 M氏のケースに見られるように職員の人権状況の実態を秘密にすることが、こうした重要な問題を覆い隠している。

第14、最後に

 以上指摘してきた問題点、改善されるべき点は、被拘禁者や、出獄者から、直接私たちや、センターに協力している弁護士が受けている報告をもとにしたものである。政府報告で記されている被拘禁者処遇は決して日本の状況を正確に記述していない。日本で最大規模の東京拘置所や、府中刑務所をはじめとする多くの施設における実態とは大きくかけはなれているものである。また、政府報告では全く触れられていない問題も多い。
 確かに日本の刑務所は世界の多くの刑務所が失業の問題に悩まされている中で、失業の現象はみられない。また、長く刑務所内での暴動も発生していない。また、被拘禁者は定員数を下回っており、過剰拘禁もみられない。
このような評価すべき点もあるとはいえ、日本政府が主張するように、「日本の行刑は世界的に評価されている」とはいえない。
ところが、日本政府はこのような国際的な批判を「日本人の勤勉性と集団性」無視した批判であり、理由がないとしている。貴委員会の公正な審査を通じて、日本政府がこのような頑なな態度を改め、国際的な批判に耳を傾け、今後の改善を約束するように、適切な勧告を期待する

−以上