「雑多」で行こう

市民I

 コスタリカそのものの感想は皆さんが書かれるだろうから、私は今回の旅行のメンバー構成について感じたことを以下に。

 一言でいえば、もっと雑多な構成だと良かったなあ、ということ。法律家に特化(純化)されがちなのは分かるとしても、今後の会のすすめかたを考えると、純化はよくない。人間社会もやはり「多様」でなくちゃ、との思いを強くした。

 いまや環境問題に感心のある人なら誰でも知っていることだが、生物の「多様性」を保つことが重要だ、と。だが、何故いま「多様性」なのだろうか。

 どんな種でも他の種との間に数限りない連鎖(種相互間の関係)を持っている。ここでひとつの図を思い描いていただきたい。環の周辺に無数(沢山)の種が存在する。それらの種は蜘蛛の巣のように互いに無数の糸で結ばれている。ところで、周辺に存在する種の数が極端に減ったらどうなるだろう。今までひっぱりあっていた糸の数が極端に減るのだから、環はたちまち不安定になってしまうこと必定。この環が地球なのである。今のまま生態系の中で種が滅び続ければ、この連鎖の環はたちまちもろくなり、地球上の生物は危機に瀕することになるだろう。

 いま私たちのまわりでは、コメはコシヒカリばかり、抗菌グッズが流行し雑菌は排除され、といったことがすすんでいる。しかしこのような「純化」すなわち種の減少の行きつくところを考えると恐ろしい。

 「多様性」とは言い換えれば「雑多であること」。ヒトも人間も(生物的にも社会的にも)生存をかけて「雑多であること」を意図的に選択しなければならない、と思っている。雑多でいきましょう、雑多で。


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