これはかつて「週刊アンポ社」(ベ平連が作った有限会社)が発行していた『週刊アンポ』に掲載された支持者からの小説です。すべて、原稿料無料で『週刊アンポ』のために提供されたものです。

(『週刊アンポ』 第5号 1970年1月12日号)

 

どこでもないところ

日野啓三

 (え=山口はるえ)

 

 男に比べて女は誰でも多少はそうらしいけれど、とくにわたしは自分の意志や決心というものを信じません。そのかわり、ふと、どこか遠いところから何か呼び声のようなものが聞こえることがあり、その声に従って自分の心を決める習慣がいつ頃かついてしまったのです。

  あのときもそうだった。子供たちの作文の採点をやっと終って寝ようとしたとき、不意にわたしはその声を聞いたのでした。はじめはどこか夜の奥からひびいてくるような低いかすかな声だったのに、いつのまにか、まるで同じ部屋の隅で誰かが話しかけているようにさえ感じられるほど、身近かな感じだった。あまりにその声――いつもそうなのですが、年とった男のややかすれ気味の声が、はっきりとわかったので、その声の主の姿が薄暗い部屋の隅にぼんやりと見えるようにさえ思われたほどでした。

  「さあ出かけるんだ」とその黒い影はいいました。

  「おまえは呼ばれている。任命されたんだよ」

  わたしが驚いてきき返したのは当然です。

  「任命されたのですって。どういうことです、それは」

  「教師にだよ」

  と老人らしい人影は、落ちついた声です。

  「わたしはもう三年も教師をしてますよ」

  「ここじゃない、あそこの教師にだ」

  「どこですか。あそことは」

  「あそこはあそこだ。名前なんてない」

  「名前のないところなんて……」

  と思わず高めた自分の声で、はっと気がっくと、わたしは部屋の中にひとり立っているだ けだったのですが、その声を疑ったり、まして逆らったりはできません。

  その夜中、わたしは考えました――ここではないどこか、名前のないところとはどこだろう、と。そして朝近く、やっとわかりました。わたしたちの住む半島に、名前のない地帯のあることが。北緯三十八度線に沿って北と南に二分された半島のその境界線の両側に幅二キロの狭い地帯があります。正式にはたしか非武装地帯(DMZ)という名前ですが、中立地帯とも呼ばれていて、そこは北にも南にもどこにも所属しないいわば国籍のないところ、完全な空白、名前のない場所なのです。

  わたしはそれまで勤めていた小学校に辞表を出して出発しました。出発を決心したのではありません。呼ばれたからそれに従うだけなのです。

  国境地帯へと向かう汽車の中で隣席の人が「どこまで行かれるのですか」とききました。「教師として赴任するのです」と答えると、その人は「たしか板門店の近くに、”自由の村”という村があります。戦争前にあのあたりに住んでいた農民たちが、無理に住みついたという話ですが、そこに行かれるのですね。国籍がないから税金もないとかでいいですなあ」といいました。

  だがそれはちがいます。こちらの政府が間接的に面倒をみて、”自由の村”などという向こう側への政治的ショーウィンドーのような形にしているところでないことは、わたしの勘が教えてくれました。わたしの呼ばれているところは、本当に名前のない空白のところ、本当には実在しないはずのところだということが、国境地帯に近づくにつれて、次第にはっきりと感じられてきました。

  汽車は国境地帯まで通じません。国境地帯は一般には立ち入り禁止です。歩かなければなりません。しかも軍隊や警察の警備の間をくぐりぬけて。国境地帯はもう早い冬が訪れかけていて、山も野も黄色く枯れて乾いて冷えていました。戦争からもう何年もたつというのに、まだ砲弾の痕の残った橋げたや、荒れたままの畠がありました。点在する農家に泊めてもらっては、とり入れの手伝いをしたり、居酒屋のようなところで働らいて、いやらしいことをされかけたりもしましたが、そうしてわたしは国境地帯の端に沿って移っていったのです。わたしを待っているところ、わたしの行くべきところ、わたしが任命されたところを探して。

  幾度もそれとなく、あの”自由の村”のような村が非武装地帯の中に他にもないか、と尋ねてみましたが、誰も知りませんでした。幅四キロの非武装地帯の中は、特別に人数を決められた憲兵たちが定期的に巡察する以外、人間はだれも入れないので、鳥や獣たちの天国になっている、と人たちはいいました。

  だがとうとうわたしは再びあの声をききました。国境の山なみのみえる小さな村の農家の納屋で、わらにもぐって寒さに震えている夜のことでした。慣れない労働と無理な生活のために、わたしの体は疲れきり痩せ衰えて、熱のあるのがわかりましたが、頭ははっきりと冴えてました。

  「とうとう来たな。この山の向うだよ」

  と例の老人風のかすれ気味のいかめしい声が、納屋の入口のあたりから聞こえました。扉もない入口からは、黒く輝くような真冬の夜の硬い空がみえ、星が幾つも青白く燃えていました。

  「そこでは男の子たちは、兵隊に行かないでいいんですね。女たちは夫や息子がいつ不意にいなくなるか心配しなくてもいいんですね。秘密警察もデモもないんですね」  とわたしはいいました。

  「そうだ。そんなものはない」

  「わたしは国語と数学だけを教えれぱいいんですね。それに絵と音楽と。クレオンもオルガンもないでしょうが、何よりうれしいのは、本当の言葉、正しい言葉だけを教えられることです。政治家と商売人たちが、めちゃくちゃにしてしまわない本来の言葉を」

  「そのとおりだ。そのためにきみを呼ぶんだ」

  黒い空はいよいよ奥深くひろがって静まり返り、底知れぬ湖の水面をのぞきこんでいるように感じられました。

  「いまわかりました。言葉よりもっと大切なことがあります。それをわたしは教えましょう。それは沈黙です。言葉が生まれるその元の力です」

  そういいながら、わたしは誰も耕さないために茂り放題に草の茂った野原、自由に伸びた林、その間を飛び交い駆けまわる鳥や獣、丘の斜面に並ぶ粗末だが清潔な小さな村の家々を想像しました。境界線の柵をうまく越えて丘の下から村を見上げると、家々が重ってまるでひとつの巨大な塔のようにみえ、塔は空中に浮かんでいるようにみえます。

  その塔のことを考えながら、わたしはいつか眠ったようでした。そして夢の中で遠く人声を聞きました。あの老人の声ではなく、もっと若い男たちの声で、女たちの声もまじっていました。

  「こいつ、死にかけているらしいぜ。医者呼ばなきゃ」

  「いや、警察の方がいい。もしかするとスパイかもしれないよ。国境の向こうのことをよくきいてたからな。若い女のくせに」

  「気ちがいかもしれないわよ」

                 (おわり)

 

(『週刊アンポ』 第5号 1970年1月12日号)

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