10ベ平連関係図書・文献の中の誤りの訂正リスト  (2014/05/11に 新規に作られたファイル、未完)

 ベ平連関係の図書や文献で、ベ平連批判やベ平連中傷など意図的な歪曲や事実と違った記述ではなく、ベ平連関係者自身が執筆した文献でありながら、思い違いや、十分な引用確認などがなかったために、事実と違う部分が含まれたものがあります。それを以下に正誤表として記します。政治問題や運動への意見上、対立したり、定評となっている評価と違っているものなどは、意見の問題なので、ここには含みません。また、 読んですぐ気がつく校正ミスや文字間違いは以下には含みません。
 以下は未完で、今後追加
してゆきます。現在のリストは、
1. 久野収『市民として哲学者として』【聞き手】高畠通敏(毎日新聞社、1995年)
2. 鶴見俊輔
『新しい風土記へ』(朝日新書、2010年)
3. DVD『鶴見俊輔 みずからを語る』【聞き手】黒川創(テレビマンユニオン、2010年)
4. 小中陽太郎『市民たちの青春――小田実と歩いた世界』(講談社、2008年)
5. 
横須賀ピース・フェスティバル25年誌編集委員会『ピースフェスの作り方』(第25回横須賀ピースフェスティバル実行委員会、2010年)

、発行された『ピースフェスの作り方』の中の、「反基地運動65年史」の年表に、米空母イントレピッド号の4米兵の脱走の日付が1967年10月31日となっています。実際は、これよりも早い10月中旬のことで、31日は、池袋の鶴見良行さんの宅で、4米兵の記録映画を行なっていた吉田茂国葬の日でした。
です。

1. 久野収『市民として哲学者として』【聞き手】高畠通敏(毎日新聞社、1995年)

ページ 誤り 訂正・事実、あるいは、より正確
44 6 一九六五年にフランス全土を揺るがす大学闘争が起こる 一九六八年にフランス全土を揺るがす大学闘争が起こる  
264 10 それまでの両君(小田実と開高健)は、六〇年安保には参加したが、 開高君は六〇年安保には参加したが、小田君は、六〇年安保にの参加しておらず、 小田さんはフルブライトから帰国した直後で、在日はしていたが、いわゆる「六〇年安保闘争」には参加していなかった。
266 7 京都にも同日、京都ベ平連が発足しています。 京都では、東京より一ヶ月遅れて、65年5月22日に発足しました。 『復刻 ベトナム通信』(1990年 不二出版刊)の「座談会」p.1〜4に、飯沼二郎発言にあり。また、小田実『「ベ平連」・回顧録でない回顧』(1995年、第三書館)の年表p.637の3段に「京都で『ベトナムに平和を!京都集会』(京都ベ平連)発足。同志社大学寧静館。三百名」とあり。
266 16 それ以後、毎月の定例デモが同じコースではじまることになります。 それ以後、9月25日から、毎月の定例デモが清水公園出発で始まることになります。最初は毎月第4土曜日、のちは第1土曜日のごご2時集会となりました。 小田実『「ベ平連」・回顧録でない回顧』(1995年、第三書館)の年表p.640の1段にあり。
269 1 日本の数学者も、彌永昌吉教授はじめ約一四〇名が連名で返電したのです。 百三十四人の署名が一夜に集まり、五月二十日に電報を打った。(手紙にして送ったときは署名者総数計百八十三になっていた。) 福富節男『人がその地に生きること』(1999年、私家版)p.63
280 1〜13         ニヒリズムに陥った開高健氏

 ――ところで、べ平連の運動のこういう広がりの中で、小田実氏とペアで呼びかけ人の代表になっていた開高健氏が、運動から手を引くという問題が起きましたね。

『週刊朝日』の特派員として開高君が、何回か現地へ行って、直接取材し、実見して来た結果、
彼は、                                                         「アメリカのやり口はとてもひどいが、ベトコンのやり口もひどい。ぼくは、そのさまを見て、
ニヒリズムになった。べ平連を降りたい」
 と漏らしはじめた。
 べ平連のリーダーの一人からこう言われたのに、われわれはほんとに弱った。それで彼は、小田君とじっくり話し合い、結局、開高君は身を引くという形式になった。ただし、この二人が相互に守る約束、すなわち、開高君とべ平連は絶対に非難し合わない、べ平連はベトナム戦争反対の市民運動を続けていくから、開高君は黙して立ち去るという条件だった。こうして、脱退″につきものの、相互非難の泥仕合は回避されました。べ平連的市民運動の新しさ≠ニいうか、特色は、こういうところにもはっきり出ていたと思うんです。
「それで彼は、小田君とじっくり話し合い、結局……という条件だった」以降の記述を、全部削除。  小田実さんと開高健さんの間で、こういう話し合いが特の行なわれたことはなかった。この点は、小田さんに直接確かめ、そんなことはなかったと説明されている。ただ、開高さんとベ平連のあいだに「相互非難の泥仕合」がまったくなかったことは確かだった。

 この点は、『季刊 運動〈経験〉』23号(2007年12月)の吉川勇一「インタビュー ベ平連の経験と共同行動の論理――開高健問題から」(p.50)に記述があり、「そんな話し合いはやってない。全然事実じゃない。それは久野さんの希望が事実にすりかわったんだろう」という小田さんの話も出ている。

 

285 5〜6 小田君、福富君、吉川君たちを中心とするヤングベ平連は、…… 小田君、福富君、吉川君たちよりも、もっと若い予備校生や高校生らを中心とするヤングベ平連は、  
287 10 平和主義週刊誌『リベレーション』 平和主義月刊誌『リベレーション』  
287 10〜11 ベトナム徴兵令状を集団的に焼却した「シカゴエイツ」の主要人物 一九六八年八月、シカゴ民主党大会に抗議する大集会・デモに対する暴動罪として逮捕・起訴された「シカゴ・エイツ」の主要人物 D・デリンジャー『「アメリカ」が知らないアメリカ』(1997年、藤原書店)p.369以降の「シカゴ裁判」の章。
288 6 パキスタンの詩人、アイズもきました。 パキスタンの作家、フェイズ・A・フェイズもきました。 『文芸』1966年10月号 「特集 《ベトナムに平和を!日米市民会議》より」p.181の参加者氏名リスト。
291 14 横浜ベ平連の古屋能子さん 新宿ベ平連の古屋能子さん  
294 11 小中君のような映画プロデューサー出身が 久保圭之介君のような映画プロデューサー出身が 小中さんなら、NHKのTVプロデューサー.
296 3 一九七三(昭和四八)年にベトナム戦争が終結、ベ平連も解散する。 一九七三(昭和四八)年にベトナム停戦協定が発効し、ベ平連も七四年一月に解散する。  

2. 鶴見俊輔『新しい風土記へ』(朝日新書、2010年)

ページ 誤り 訂正・事実、あるいは、より正確
187 3 そのときのベ平連の事務局長は映画プロデューサーの久保圭之介だった。 そのとき、ベ平連の前事務局長の映画プロデューサーの久保圭之介もいた。 この撮影の日は、吉田茂の国葬の日だった1967年10月31日のことで、このとき、ベ平連の事務局長は吉川勇一だった。事務局長は、1965年12月に久保圭之介から吉川に代わっていた。
187 6 そこで、事務局長が映画に撮ろうといった。 映画に撮ろうと言ったのは小田実だったが、そこで前事務局長の久保が映画を撮ることになった。 この日、カメラマンなど少数の撮影スタッフを集め、撮影のプロデュースをしたのは、久保圭之介だったが、4人の脱走兵の記録映画を作ろうという提案をしていたのは、小田実だった。その経過は、小田実『「ベ平連」・回顧録でない回顧』(1995年、第三書館)のp.166〜168、関谷滋・坂元良江『となりに脱走兵がいた時代』(1998年、思想の科学社)のp.21などに詳しい。

3.  DVD『鶴見俊輔 みずからを語る』【聞き手】黒川創(テレビマンユニオン、2010年)

ページ 誤り 訂正・事実、あるいは、より正確
チャプター5 2007年11月12日、京大会館 ヘリコプターを借りて、ヘリコプターで空からビラを撒こうとしたんです。 小型飛行機をチャーターして、空からビラを撒こうとしたんです。 小型飛行機をチャーターして、空から米原発空母エンタープライズ号にビラを撒こうと考え、実行しようとしたのは、小田実だった。長崎県の大村空港で、飛行機のチャーター交渉をしたのは、吉川勇一だった。交渉は失敗で、大阪空港まで電話で交渉もしたが、これも同意得られなかった。小田実『「ベ平連」・回顧録でない回顧』(1995年 第三書館)のp,377に記述がある。
彼は浜辺を歩いて、モーターボートに交渉した。……また、街でメガホンを買ってきた。……メガホンで怒鳴った。 佐世保地区労などから、3トンほどの小船を借り、それについていた大きなスピーカーを使って、エンタープライズ号に英語のアピールを送った。 実際に使うことが出来た船は、ベ平連に協力した佐世保地区労と長崎県反戦青年委員会(山下さん)の援助で、モーターボートよりはもう少し大きな3トン前後の小船を貸与できたことで、スピーカーも、その船につけてあった地区労のかなり大きなスピーカーを使ってアピールをしたことが事実だった。この佐世保での報告は、小田実「『物』と『人間』」(『世界』1968年3月号)に詳しい。また小田実『「ベ平連」・回顧録でない回顧』(1995年 第三書館)の375〜379ページにもある。
本当に脱走兵がでるとは思わなかった。だが、ところが数ヶ月後、本当の脱走兵が出たんです。…… この部分は、かなり時間的前後が誤っており、そこは全体として訂正しなければならないだろう。 鶴見俊輔は、エンタープライズ闘争のときは脱走兵は出なかったが、そののちに実際に米空母イントレピッド号から脱走兵が出るとのべているが、エンタープライズ闘争は1968年1月であり,横須賀でのイントレピッド号からの脱走問題は1967年10月のことだから、順序は時間的に逆となる。エンタープライズ号から、米兵の脱走は出なかったが、それ以前にすでにイントレピッド号からの4人の脱走は出ていた。

4. 小中陽太郎『市民たちの青春――小田実と歩いた世界』(講談社、2008年)

 これは、すでに「ニュース」欄のNo.523に載っていますが、この正誤表には、若干の意見の批判に対する記述も入っています。次をクリックしてください。小中陽太郎『市民たちの青春――小田実と歩いた世界』(事実の誤りについての正誤表)

5. 横須賀ピース・フェスティバル25年誌編集委員会『ピースフェスの作り方』(第25回横須賀ピースフェスティバル実行委員会、2010年)

ページ 誤り 訂正・事実、あるいは、より正確
172 右段1〜3 1967年10月31日、横須賀港に入港中の空母イントレピッドから4人の兵士が脱走し、 1967年10月中旬、横須賀港に入港中の空母イントレピッドから4人の兵士が脱走し、 10月31日は、イントレピッド号の4人の記録撮影をした日 だった。実際の脱走決意の日はそれよりも前の10月23日で、ベ平連に保護を求めた日は10月28日。関谷滋・坂元良江『となりに脱走兵がいた時代』(1998年、思想の科学社)の年表、p.608の中段。

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