脱走兵援助活動の経験の現在

(『飛礫』 1998年秋号)

吉  川   勇  一  

               

  かつて一九六〇年代末から七〇年代にかけて、ベ平連、ジャテックが行なった脱走兵援助活動、後には在日米軍基地内における米兵による反戦活動への援助は、有名なわりにはその実態は十分に明らかにされていない。数年前からこれを記録として残しておこうという作業が続けられてきたが、このほどそれがようやく『となりに脱走兵のいた時代』(思想の科学社)という大部の書物としてまとめられ、七月には、それを記念して関係者によるシンポジウムも行なわれた。

「違法な活動」もあった脱走兵の日本出国

運動が終了して三〇年後に出された記録だが、今回初めて明らかにされた驚くべき事実も数々ある。収録されている脱走兵、ジョン・フィリップ・ロウの『長い間をぬけて』という感動的な長い手記の中では、彼がジャテックから提供された「偽造」の税関出入国印の押された「偽造」のパスポートを用いて、フランス航空の旅客機で日本を出国し、パリに到着した事実が語られている。ジャテック・サイドのメンバーからは、「諸般の事情から今回は詳述できない……」として、その詳しい経緯は述べられていないが、しかしこの事実を肯定する文章も書かれている。

最初の脱走兵、空母「イントレピッド号」からの四水兵が、横浜港からソ連の定期船に密かに乗船してナホトカ経由、スウェーデンに向かったことや、その後のグループが釧路港から日本漁船に乗って出国し、公海上でソ連の沿岸警備艇に乗り換え、ソ連経由でスウェーデンへ向かった経路は、これまでに明らかにされていた。

だが、民間航空機を利用して日本の空港から出国した脱走兵(複数)もいたということは、ベ平連関係者、ジャテック・メンバーの中でも、実際にこの作戦にかかわったごくごく僅かの「特別作戦チーム」のメンバー以外にはまったく知られていなかった。

本書の中にある本野義雄の文によれば、「最後に神田(脱走兵ウィリーのペンネーム)が飛行機のタラップに立って右手のこぶしを挙げたのを見て報告した学生は、神田が何者で、どこへ行こうとしているのかも知らなかった。彼はつい最近、『お前は歴史的瞬間を見たんだぞ』と言われたが、それでも説明を受けるまで、何のことか見当がつかなかった」そうだ。また、同じ方法で脱出した「来栖」(脱走兵ロウのペンネーム)をパリで迎えた日高六郎も、本書に寄せた文の中で、「どこを廻ってパリへ着いたのか、私は知らない」と書いている。よくぞ、三〇年間も秘密が保たれてきたものだと思う。

米脱走兵への援助活動は、盗聴、尾行、家宅捜索、押収、逮捕など、日米の当局からのさまざまな弾圧をこうむり、逮捕された場合、米兵は米軍法によって裁かれ、有罪とされたが、しかし、援助した日本人の側の行動は、なんと、安保条約と地位協定によって違法とはされなかった。

一九六七年一〇月、私たちが最初のイントレピッド号からの脱走兵を受け入れたときには、そんなこともわかっていなかった。当然、犯人隠匿とか、密出国幇助とかの違法行為になることを覚悟したのだった。今、ビデオ化されている歴史的な記録映画『イントレピッド号の四人』を見ると、そこに脱走兵と並んで登場している小田実、開高健、鶴見俊輔、日高六郎氏らは、確かに緊張という程度を通り越した顔つきをしていることがみてとれる。

だが、こうした活動が違法ではないことが、仲間の弁護士から教えられた。逮捕の危険性があるから、米兵の居場所や出国は秘密裏に行われなければならなかったのはもちろんだが、しかしそれは「密出国」ではなかったのだ。すなわち、在日米軍の兵士は、軍籍にある限り、日本の出入国管理令、税関、検疫など、国籍を問わずすべての民間人が日本に出入国するにあたって適用される法律類が一切免除されているから、日本のどこの港であれ、海岸、空港であれ、どのような出方をしてもまったく違法ではなく、したがってそれを援助しても、犯人隠匿にも密出国幇助にもならないからだった。だが、いかに米兵の出国自体が違法ではないとはいえ、偽造の出入国印が押してあり、写真が張り替えられた偽造のパスポートを使って民間航空機を利用しての出国となれば、当然、公文書偽造のれっきとした「犯罪行為」になる。まったくの素人の市民の手によって、こんな大胆、緻密な作戦が実行されていたということは、今度の出版で初めて明らかにされたことだった。すでに述べたように、詳しい記述はないのだが、その仕事にあたった人びとの苦労はいかばかりであったか、と推察する以外にない。

数年前、テレビ朝日系の『驚き、もものき、 世紀』というシリーズものの一つで『ベ平連、友情の大脱走作戦』という番組が放映されたことがあった。(九五年八月一八日放映) なかなかよくまとまったドキュメンタリだったし、出演した鳥越俊太郎は最後に涙を見せ、また、壇ふみはジャテックの活動について「こういう日本人がいてくれて私は誇りに思いますね」と語っていた。しかし、一九六八年一一月、北海道の弟子屈で、一九歳の米脱走兵、ジェラルド・メイヤーズ氏と同行していた同じく当時一九歳だった山口文憲氏の逮捕をもって北の出国ルートが閉ざされたことと関連した画面では、「それはアマチュアがプロに破れたときだった。その後ベ平連による脱走兵の国外脱出は行なわれていない」というナレーションがあった。

警察側の発表でも、またそれを何度もセンセーショナルに報じた一般マスコミでも、これまではこの事件をもってべ平連の脱走兵出国ルートは壊滅したとしていた。だが、実は、アマチュアがプロを破っていたのだということが、今、本書で明らかにされたのだ。

弟子屈で逮捕された後のメイヤーズ二等兵が、どんな扱いを受け、その後どんな暮らしをしてきたかも、私たち関係者のずっと気にしてきたことだった。『驚き、もものき、 世紀』のスタッフが所在をつきとめて以後、本書の編者の一人、坂元良江氏とメイヤーズとの間では、多くの書簡が往来したが、そのメイヤーズの手紙で初めて知らされた逮捕以後の獄内での彼の体験も衝撃的だ。カリフォルニア沖の監獄の中では囚人が虐殺され、メイヤーズ自身も死の恐怖にさらされたという。

私自身も、初めて明かす三〇年前のエピソードをこの本に書いた。幻の『ベ平連ニュース』――印刷はされたのだが、『ベ平連ニュース縮刷合本』には入っていない『ベ平連ニュース』――恐らく、モスクワのKGBのファイルの中にだけある『ベ平連ニュース』のことだ。

しかし、そういう話もさることながら、いちばん心打たれるのは、マスコミでも華やかに取り上げられ、有名となったジャテック第一期の活動の後、いつ国外脱出が出来るか、まったく見通しのない状況下で、増えつづける脱走兵を抱えてひたすら苦闘、苦悩する第二期のメンバーの回想記だ。先に述べた「特別作戦」が終了した「一九七一年夏のある日、私(本野)とJ(この作戦の責任者)は、高田馬場の喫茶店で京都から来た鶴見俊輔さんと会うことになった。席につくなり、Jは一言、『先生、全部成功しました』と言うと、そのまま言葉が続かなくなった。その時、彼は文字通りはらはらと涙を流していた」という本野義雄の文などからも、その大変だった苦労がしのばれる。

本書に寄稿したり、談話を寄せたりしている人びとは、それ以外に多くの有名、無名の人びとの参加、協力を語っている。たとえば、堀田善衞夫妻、中野重治夫妻、永川玲二、種谷俊一、鶴見和子、松田道雄、山田塊也、飯河四郎・利貴夫妻、為永清之氏らの名が挙げられており、あの人が、この人もか、と、この活動の裾野の広がりに驚く。

 脱走兵援助や軍隊解体の活動は異常なものか

 本稿は、書評ではない。それなのに、長くこの本について触れたのは、脱走兵援助活動にかかわった一人である私でも、本書で読むまでは、まったく知らなかったことが実に多くあったからだ。秘密を要する活動の関係上、縦の系列の連絡網があるだけで、余計なことは一切言わぬように、聞かぬようにしてきたからで、この活動の期間中、全国的レベルではもちろん、一都市の中でも関係者が集まって討論したり、経験を共有し合うような会合など一度も開かれていなかったからだ。ようやく、事実(それもまだ一部分と言うべきなのだが)が明らかになった今、それをどう評価し、位置付け、今後の教訓としては何が残されているのか、などはまだ今後の課題なのである。

先日のシンポジウムはその出発点に過ぎなかった。しかし、三〇年を経過してみれば、あの活動にかかわり、経験を共有していた人びとの間にも、当然ながら評価や意見の分岐が見られる。たとえば、和田春樹氏の発言などはその一例だったろう。和田氏は、当時、自分が米軍の朝霞野戦線病院で「反戦放送」(これはユニークな活動で、その後各基地に広まった)に関わったり、米軍解体、あるいは自衛隊解体などを主張として掲げていたことに触れ、「今から考えても、それが間違っていたとは思わない」とした上で、しかしそれは、「極めて非道なベトナム戦争という異常な事態の下であったからこそ、普通の市民が極めて異常な活動をせざるをえなかったのであって、いつでもああした行動や主張がなされていいとは思っていない。そういう意味では、私の考えは変わったと言えば変わったかもしれない」と続けた(引用は記憶によるので、表現は多少不正確かもしれない)。参加していた石田雄氏が、それにすぐ反論されていたが、私もこの発言にはもちろん同意できなかった。言葉尻をとらえるようだが、「極めて非道ではなく、異常ではない事態としての戦争」とはどんなものなのか、聞いてみたかった。

かつて私自身もこう書いたことがある。少し長くなるが一部を引用する。

 ……べ平連とは、ふつうの市民が、ベトナムの平和のために、自分たちの出来る範囲で、しかし出来るだけの努力を自発的にやってゆこうという行動のグループである。ジヨーン・バエズといっしょにフォーク・ソングを唄ってみたり、徹夜でティーチ・インをやってテレビで放送させたり、デートのためのお小遣いの一部をさいてくれなどといって金を集め、アメリカの新聞に反戦広告を出したりしてきた。「まじめな」評論家は眉をひそめ、「文化人のベトナム祭だ」といったり、「安い免罪符の売出しさ」といったりした。

それが今度の事件では、一躍、半非合法のレジスタンス地下組織に転化したかのごとく描きだされてしまった。この事件発表の記者会見のあと、連日のように押しかける記者諸氏は、べ平連の「細胞」(!)の数はどれくらいかとたずねたり、つぎの脱走兵に備えての秘密のアジトは完備したかと聞いたりする。小田実の身辺を防衛しているか、小林多喜二の例をどう思うかなどという恐ろしい質問をした人もいた。

警察の尋問にも一言も口を割らず、身を挺して闘う平和の戦士団。これではふつうの市民ではない。立派かもしれないがオッカナクテ近よれない。そうではないのだ。私たちべ平連の構成はちっとも変っていないし、変ってはいけないのだと思う。これからも、ふつうの市民が、つまり主婦がいて、サラリーマンがいて、浪人がいて、花屋さんやクリーニング屋の主人がいて、お琴の師匠さんや新聞記者や、小説家や屑屋さんがいる――そういう人たちがいて、そしてみんなで出来ることをベトナム平和のためにそれぞれやっていく運動であり、続けなければならないのだろう、と思う。

たしかに、脱走兵を援助し、それを匿まうというのは、ふつうならば、ふつうの市民がやるふつうの運動ではない。だが、そうした「異常な」ことをやったからといって、べ平連が変ったのではない。ふつうの市民が、そうしたことをやらなければならないほど、私たち日本人の生活のなかに、異常なベトナム戦争が入り込んでいるのだ。

今度の四人を実際に助けている多くの人びとは、これを読んでいるあなたと全く変らないふつうのサラリーマンであり、主婦であり、学生たちである。戦争が異常であり、非人間的なものになればなるほど、ふつうの米兵はどんどん脱走し、ふつうの日本人は、どんどんとそれを援助するだろう。異常な脱走が米兵にとってふつうのことになり、異常な脱走兵援助が日本人にとってふつうのことになるほど、それほどベトナム戦争が異常になる前に、すでに十分に異常なこの戦争を一刻も早くやめさせなけれぱならないわけだが、それまでは、私たち、ふつうの市民の集りのべ平速は、相変らず「軽佻浮薄なべ平連」といわれたり「不まじめなお遊び平和運動」などといわれるような活動をつづけつつ、しかし、また脱走兵が出れば、援助しなければならないだろう。四人の若い米兵は、今では、日本が、平和な暮しを送れる国ではないこと、イントレピッド号の艦上とあんまり違わない国だということを知っている。(『アサヒグラフ』一九六七年一二月一日号)

 これは、最初の脱走兵、イントレピッドの四人が出た直後に書いた文章で、そこには、和田さんの発言と似た表現がある。それは、べ平連の活動を異常な集団によるものと描き出そうとするマスコミへの反論と、当時、次第に表面的な行動形態だけが過激化してゆく反戦運動全体の傾向に、べ平連が巻き込まれたくないという警戒心も含めて書いたものだった。

だが、ベトナム以後の状況は、異常な事態が終わって、普通の市民が普通の平和な暮らしを送れる状態に戻ったとは、私は思っていない。そう言う意味では、私の姿勢もこの三〇年以上前の文章で書いたことと「変わった」といえるかもしれない。いや、私の姿勢が変わったのではない。世の中の事態があのころから少しも変わっておらず、むしろもっとひどくなっているのだ、と言うほうが正確なのだろう。三〇年前、私は、日本の自衛隊の海外派兵が、社会党の賛同まで得て、こんなふうに実現するとは、まったく予想できていなかった。

 脱走兵援助活動の経験は過去の思い出か

先日のシンポジウムのパネリストの中には、現在の新ガイドラインの危険性について言及した人が二人いたし、また、その後の記念パーティでの挨拶では、当時脱走兵援助にかかわり、米軍の軍事裁判にも証人として出廷したこともある女性が、やはり自衛隊の海外派兵や、新ガイドラインについて触れ、「脱走兵援助の活動は決して過去の物語や思い出話ではない。もしも、海外への出動を命じられて離脱してくる自衛隊員が出てきたら、そして出てくる可能性はますます現実化してくるのだろうが、私はいつでも彼らを喜んで受け入れるだろう」と発言して、大きな拍手をよんだのだった。周囲の政治的、社会的状況はもちろん同じではないが、このかつての経験が役に立ちそうな事態は、残念ながらまた訪れそうな気配である。

有事立法と、それに関連して今後引き続き出てくるであろう一連の法制化の動きの中では、現在の自衛隊法の中にはまだ存在しない、軍法、軍事裁判の規定もやがて立案されるかもしれない。軍命令に違反する兵士への処罰(現在でも服務規定違反への処罰はなされるが、もっと厳しく)や、それを援助する市民への規制の立法も予想される。

三〇年前の脱走兵援助活動の意義、それが今後の反戦運動にもつ意味などについては、これからの仕事だと先に書いた。だが、すでにいくつかの注目すべき問題提起はなされている。これからの検討の最低限の材料として、現在容易に入手可能な資料を最後に挙げておきたい。脱走兵援助活動が実際にどのようなものであったかも、本稿ではほとんど触れられなかった。それも以下の文献をぜひ見ていただきたいと思う。

坂元良江・関谷滋編『となりに脱走兵のいた時代――ジャテック、ある市民運動の記録』(思想の科学社、一九九八年)

鶴見俊輔・吉岡忍・吉川勇一編『帰ってきた脱走兵――ベトナムの戦場から二五年』(第三書館、一九九四年)

テリー・ホイットモア『兄弟よ、俺はもう帰らない』(吉川勇一訳、第三書館、一九九三年)

ベトナムに平和を!市民連合編『べ平連ニュース・脱走兵通信・ジャテック通信・縮刷版』(べ平連発行、一九七四年、これは新宿・模索社などで入手可能)

(よしかわ ゆういち、市民の意見30の会・東京、元べ平連事務局長)

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