地域の運動が中央の政治を直撃する

『沖縄の怒りと共に』第16号  1998. 11. 18

(「うちなんちゅの怒りと共に!三多摩市民の会」発行)

吉  川   勇  一 

自分たちの住む地域を基盤とした活動が大事だとは、以前から思っていて、それなりの活動をしてきたのだが、最近、あらためてその意義の重大さを考え直している。

50 年代以来、私が参加した集会やデモなどは、多くは清水谷公園、日比谷野外音楽堂、明治公園、あるいは代々木公園といった都心の場所に集まり、国会周辺、アメリカ大使館、防衛庁、あるいは新橋、銀座などを目指すものが多かった。50年代の砂川基地測量阻止の行動以外は、60年安保闘争をはじめ、10年近いベトナム反戦運動でも、ほとんど行動の場は都心だった。

私の個人的状況にかぎらず、運動全体の傾向として、大きな政治的課題を掲げる運動は、都心に集まることが当然のこととしてあったようだ。

それが変わったてきたな、と思ったのは1991年の湾岸戦争のときだった。当時、マスコミは、ベトナム戦争時に比べて、反戦の動きがずいぶん鈍いという報道をいっせいにした。アメリカ国内の状況を伝えた外電もそうだった。それは事実に反していた。

ちょっとでも事実を見れば実際は明らかだ。例えば、大規模な北爆が開始された1965年2月からの数ヶ月間と、対イラク空爆が始まった91年1月17日からの数ヶ月間の二つの年表を作って、戦争の推移と民衆の運動とを比べてみれば、湾岸戦争時の民衆の対応の速さは歴然としている。べ平連が最初のデモをやるのが4月24日のことなのだから、北爆開始後 76日目だったが、湾岸戦争は爆撃開始後39日目には終結しているのだから、べ平連ができるまでの期間が過ぎれば、とっくに終わってしまっていることになる。だが、湾岸戦争のときは、爆撃開始の2日後には、すでに「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)が緊急のデモをやり、翌日には日本各地で抗議、反戦のデモが数多く行なわれた。故開高健氏が先頭に立って有名なベトナム反戦の『ニューヨーク・タイムズ』への意見広告が出たのは、北爆開始から10ヵ月後だったが、湾岸戦争批判の全ページ広告を私たち日本の市民が同じ新聞に出したのは、イラク攻撃開始後 58日目だった。立ち上がりのスピードの速さは格段の差があった。

しかし、違いはそれだけではない。湾岸戦争開始 2日後の各地のデモは、東京、大阪などという大都会の都心部ではなく、東京で言うなら、武蔵野、三鷹、福生などで、人数こそ50名とか100名という規模だったが、そうした周辺の地域でいっせいに行なわれたのだ。かつてのように、全国に名を知られた著名文化人が呼びかけるのでもなく、それぞれの地域で、自発的にこうした行動が展開されたのだ。私の住む保谷市でも集会やデモは行なわれた。アメリカの政府や軍部はベトナム戦争の経験から大いに学び、彼らなりのその教訓を湾岸戦争のときは見事に生かしたのだが、市民の側にだって、自己の判断で自発的に行動するという運動の経験は着実に蓄積され、力になっていたのだ。以後、こうした地域ごとの独自のイニシアティヴに基づく行動は、ことあるごとに広がってきている。

保谷市議会が戦後50年に際して決議した文は、衆議院のあのなんとも恥ずかしい決議に比べて実に立派なものだったと思うし、また、私も少しは協力したり、せっついたりもしたが、阪神淡路大震災の被災者が中心になって進めていた大規模災害被災者への公的資金援助の市民立法を要求する運動では、保谷市議会は全国ではじめて、それを支持する決議を採択して政府に提出し、その後のこの種の自治体決議に弾みをつけた。

今日、11月3日、上野の水上音楽堂で反ガイドライン・関連法案反対の集会、デモがあり、そこから帰ってきたばかりのところなのだが、そこでの広島、横須賀、練馬、三多摩等々からなされたそれぞれの報告は、こうした地域を基盤とした運動が、政治状況全体を視野に入れながら、ますます緻密に、着実に発展していることを示していると感じた。

だが、同時に、地域の運動が横につながり、必要な場合には中央の政治を直撃するような場を用意するということも必要だ。大規模災害被災者救援の市民立法を進めていた小田実さんは、まずこうした地域の運動に依拠しながら、何度も被災者とともに上京し、国会の各党を回り、議会周辺でデモをし、両者を有機的に結びつける努力をした。最後をつめる決定的なことは中央政治であり、首都東京なのだ、とも彼はよく言った。

今、新ガイドラインに反対し、関連法案を阻止しようというとき、まだこうした全国的連携と中央政治に直接に狙いを定めた行動は十分ではない。今日の集会にも、各地域の運動の代表は参加して、先にのべたように、すぐれた実践の報告をしてはいたが、それぞれからは1人か2人の参加で、ほかの人びとは、まぁ、報告を頼まれたのなら、お前、行って報告してこいや、というところにとどまっているただろう。都内と周辺地域だけでも、こうした活動を続けるグループは数十、いや100を超えるかもしれない。それぞれから10人ずつが参加したとしても千を超えるデモとなるはずだ。だが、そういう求心力はまだ生まれていないようだ。今日の集会とデモは、主催者は 300名参加と報告していたが、私の見るところ、250名ほどだったと思う。

各地域で運動するグループが、新ガイドラインに反対し、各自治体に働きかける活動と並行して、政治全体を動かすには、どうしたらいいのか、さらには、実質的に進行する「戦争国家=軍事社会」化をストップさせ、さらに「非武装国家=非軍事社会」化させる方向におしもどす、そうした日程を具体的にどう描き出すのか、何らかのありうる政治状況下で、一夜にして自衛隊が解体されるようなことが、描けないとするなら、それはどのようなプロセスをたどる(いや私たちがつくりだす)のか、それを議論することが必要なのだと思う。

力をつけてきた地域の運動は、そのレベルに今、進んで行かねばならないのだと、私は思う。(67歳 保谷市在住 市民の意見30の会・東京)

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