『週刊 金曜日』 1999年月12日号 p.64 「論争」欄

佐高氏の日高・加藤・鶴見評に違和感

 

      佐高 信 様

 久野さんが亡くなられた日の夜、久野さんを収めたお棺の前で、親しくお話できて幸いでした。しかし、今日は、その佐高さんに一言、苦言を呈したく筆をとりました。

 翌日、久野さんを伊東市川奈の火葬場でお送りしてからほんの数日後、久野さんの遺影を先頭に、都心での反ガイドラインのデモに参加したことは、本誌の別項に書きました。その原稿を『金曜日』編集部に送った直後、届いた本誌二月一九日号の佐高さんの文章を拝見して、驚いたのです。

 久野さんの「一番弟子」「直弟子」「愛弟子」……と思っておられる方はたくさんおられます。久野さんはご自分より若い人びとを心から愛され、ときには激しく叱責し、ときにはやさしく慰め、ときには熱く激励されましたから、そういう久野さんのお人柄のなせることだと思います。久野さんの弟子と自認する人びとが、久野さんを尊敬し、あるいは賛美し、自分こそ、久野さんをたたえる気持ちを誰よりも強くもっていると思うのもよく理解できます。私もそういう何十人目か、何百人目かの一人だと思っています。

 しかし、久野さんをたたえるのあまり、日高六郎、加藤周一、鶴見俊輔と固有名詞まであげ、しかもそういう人びとが久野さんとは大きく違って、戦後、「より敵の動きに目を配る」ようにならなかった、とまで言われているのには、強い違和感を覚えました。

 私は、加藤周一さんとは、反戦運動の場でごいっしょしたことが多くありませんが、日高、鶴見のお二人とはべ平連やその他の反戦運動で、多くの場をともにしてきました。そういうなかで、お二人から、政府・支配層、あるいはさらにもっと深い世の動きにひそむ危険な動向やきざしを指摘されたことは、実に数多くあります。加藤周一さんのお書きになるものからも、敵の動きの危険さを教えられたことは少なくありません。私は、久野さんとならんで、日高六郎さんや鶴見俊輔さんらからも数々のことを学んできましたし、これらの方は、久野さんととともに、戦後反戦運動で重要な役割を果たしてこられてきたと信じています。もし、竹内・丸山・久野さんらと、日高・加藤・鶴見さんらとの間を分かつそれほど大きな違いがあったら、あの教えられることの多い『思想の折り返し点で』(久野・鶴見さんの対談、一九九〇年、朝日新聞社)などは成立しなかったでしょう。

 佐高さんが、久野さんをたたえようとする心情のあまり、久野さんとかなり重なる時期を、反戦・民主主義・平等などを求めて行動されてきた日高、加藤、鶴見という方がたが、「体制側の動きに目を配」ってこられなかったような文章を書かれたのは遺憾です。それは、亡き久野さん自身も決して自分への嬉しい誉め言葉などとは受け取られないことだろうと、私は思います。 

(東京都保谷市・市民の意見30の会・東京会員、67歳)  

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