news-button.gif (992 バイト) 82 小田さんに言った最後の意見と、言えなかった意見 藤原書店 季刊『環』2007年秋号[特集]「われわれの小田実」に掲載) 07/12/09搭載)  

 小田さんに言った最後の意見と、言えなかった意見

 8月4日の告別式で、私は小田さんへの弔辞を読んだ。時間が短く決められていたので、用意していた長めの文を、直前に大急ぎでかなり削った。タイトルに書いた「小田さんに言った最後の意見」とか「言えなかった意見」というのは、この弔辞のことや、そこから削った文のことではなく、別のことだ。しかし、本誌の小田さん追悼特集に載せる文としては、この弔辞で述べたことを除きたくない。それで、まずは削る前のもとの弔辞を全部含ませて頂きたい。

 弔辞
 小田さん、あなたが逝った日、東京では激しく雷が鳴りました。「西雷東騒」という文を関西の新聞に書き続けてきたあなたの死を、東の雷神もまた悼んでいるような思いでした。
 ここ二、三ヵ月、私のもとには、手紙やメールで、多くの未知の人びとから、小田さんに伝えてほしいと、お見舞い、感謝のたよりがつぎつぎと送られてきました。二〇代、三〇代のときに、小田さんの言葉や行動に触れて、人生の道筋を定めることが出来たという人びと、その後も何かにつけて、あなたの主張と行動に励まされ、自らを律することができたという人びとからの、熱いメッセージでした。その思いは、今日ここに参加している多くの人びとの胸に共有されていた ことだったと思います。
 あなたの最後の小説のタイトルの通り、「終らない旅」は確実に多くの次の世代の人びとに受け継がれ、国家と軍隊と暴力から離脱し、個人として自律の道を切り開く旅は、決して終らずに続けられてゆくものと、私は確信します。あなたは千の風どころか、何万という人びとの胸の中に居続けることになるのでしょう。
 一九六五年、ベ平連の運動のなかで知り合ってから半世紀近く、私は、さまざまな市民運動で、あなたとともに活動してきました。ベ平連の運動のときには、「小田と吉川の二人の組み合わせで、この運動は進められた」というようなことが、よく言われました。しかし、振り返ってみて、私の代わりとなるような人は、私の周囲にいくらでもいました。私よりも若い世代の人びとの中から、私をはるかに超えるような能力を持った人びとはつぎつぎと生まれていました。しかし、あなたに代われるような人はついに現われませんでした。運動に加わった知識人のなかで、あなたは稀有な存在でした。
 正直言って、個々の細かい点や局面では、あなたの言うことに矛盾があったり、私に賛成できないことも少なくはありませんでした。よく喧嘩もしました。しかし、状況を骨太に捉えて、判断を述べ、進む大きな方向を示す、その点ではあなたは少しもブレルことなく、常に運動の中軸にあって信頼の置ける人でした。
 何よりも、一九六六年にあなたが提起された「被害者にして加害者、加害者になることによってまたも被害者になる」という主張は、一九四五年以降の日本の 反戦平和運動の歴史のなかで画期的なものでした。戦争の加害者としての自覚は、こうして、以後、日本の運動のなかでの中心的な課題の一つとなりえたのでした。
 その後の幾多の運動のなかで、たとえばイラク反戦の運動の中で、反戦を強く唱える作家や、評論家や、学者は多くいます。しかし、あなたのように、運動の最先頭の修羅場に身を置いて、そこで有名、無名の区別なく、ともに一人の個人、一人の市民として平等に行動を続けてゆく、そういう人を私は、残念ながら知りません。
 あなたと行を共にした場面がつぎつぎと私の頭に浮かんできます。
 一九六八年、佐世保に米原子力空母エンタープライズが入港しようとしているとき、あなたは私とともに二人だけで佐世保へ向いました。民間機をチャーター して、空母の上から撒こうと、英文のチラシを一万枚ほど抱えて。残念ならが飛行機はチャーターできず、私たちは小さな三とんたらずの木造小船を借りて七万五千七百トンのエンタープライズの周りを何度も回りました。その対比は、あなた自身、まるで戯画のようだったと言っていましたね。でもあなたはエンドレステープのように、イントレピッドの四人に続け、ベトナム攻撃から手を引けと、英語のアピールをし続けました。甲板には、耳を傾ける兵士が次第に増えてきましたね。夜は、佐世保のバー街で、上陸してきた米兵に、空から撒けなかった英文のチラシを撒きました。知らない多くの市民がつぎつぎとビラを持って散り、あっという間にビラはなくなりました。兵士たちは、上陸前、「ベヘイレンに気を付けろ、あれは北朝鮮の共産党系団体だ」と言われていたそうですね。翌日 は、二人だけでデモをしようと、歩道の上であなたは立て看板を書き始めました。あまりに下手くそな字なので、私が手を入れました。その間にも、「小田さんですか、私も加わります」という未知の人びとがつぎつぎと現われ、歩いているうちに、その隊列は三〇〇人にもなり、その晩、すぐにその人びとによって「佐世保ベ平連」がつくられたのでした。
 既成の大政党や大労組のデモが、「隣に見知らぬ人がいたら、気を付けてください。それは警察のスパイか、極左暴力集団の挑発者です」と呼びかけていたの に対して、あなたは、「誰でも入れるデモです。一緒に歩きましょう。エンタープライズに抗議して」という看板を掲げ、見知らぬ人びととつぎつぎと腕を組みました。既存の運動と異なる市民運動のあり方の典型を見る思いでした。
 あなたの小説『冷え者』が、運動のなかで問題になったことがありました。被差別部落に対する差別小説だとして、糾弾の対象とされ、発行中の『小田実全仕事』の中から削除するよう要求されたのでした。ベ平連の若い人びとの中からもそれに同調する意見が強くなりました。そのときの小田さんの確固とした姿勢も私は決して忘れられません。
 糾弾の対象とされた途端、作品集の中からそれを削って口を閉ざしてしまう作家も少なくないなかで、あなたは決してそういう態度をとらず、批判者の文章を共に掲載することで、その小説を出版し、世の討論に資するようにしよう、と提案したのでしたね。なんと、そうなった途端に、批判者は姿を消してしまい、あなたはやむを得ず、解放同盟員であり、作家である土方鉄さんに批評文を依頼して、それを含めた出版を実現したのでした。おかげでいま、私たちはその作品を読むことができます。
 一九七〇年七月、岩国の米軍海兵隊基地のなかで反戦暴動が起こって弾圧が加えられているとき、たまたま岩国にいて、深夜その知らせを受けた小田さんは、追ってきた日本警察の車が基地正面で止められている間に、入り口の警備をしていた反戦派の米兵に通されて、タクシーで基地の中に難なく入り込み、反戦米兵らを激励してきたのでしたね。そのほかにも、あるいは一九六九年夏、大阪での反戦万博で、ベ平連を批判する日大全共闘などの激しい攻撃に、二人で防戦、反論に必死であったときのこと、そしてあるいは一九六九年四月二八日の沖縄デーの日の一万数千のベ平連デモが、銀座の手前で機動隊に阻止されたとき、かなり迷い、みなと急遽相談したあとで、デモは市民の権利だと主張して、催涙弾と火炎瓶の炎の点在する大通りを先頭に立ってデモを進めたときのことなど、思いはつぎつぎとよぎり、留まることがありません。
 あなたの死後、こうしたあなたを先頭とする運動を、「華々しかったが、空回りだったのではないか」とする意見をたまたま眼にしました。しかし、それこそ、表面的なことしか見ていない見解でしょう。阪神淡路大震災のあと、あなたが、自民党から共産党まで、議員をつぎつぎと回って説得に努め、私有財産を国家は補償しないと言い張っていた政府に対し、市民=議員立法を対置し、まだ十分ではないものの、災害犠牲者を公的に支援する法律を実現させたことなど、実際に勝ち取った大きな現実的成果を見ただけでも、そうした見解が皮相的なものだったことは明らかです。
 今年の秋、一〇〜一一月は、あなたが『終らない旅』のメインテーマにすえられた脱走兵援助の一番初め、あの米空母「イントレピッド」からの四人の米兵の 脱走から満四〇年を迎えます。ということは、羽田闘争の四〇周年でもあり、エスペランチスト由比忠之進さんの焼身自殺抗議からの四〇周年でもあります。私たちは、一一月一七日、そのための集会を準備しています。決して後ろ向きの回顧ではなく、自衛隊の戦地派遣が続き、集団自衛権の容認の方向が強まっている なかで、ますます重要になってきている、国家と軍隊からの離脱、市民的不服従の道を語るという、極めて現代的な意義をもったものにする予定です。あなたとともに、脱走兵援助に力を割いた多くの人びとがそれに加わるはずです。脱走兵への援助にも加わられた鶴見和子さんの歌に「脱走兵援助の歴史アジアにて末来へ向けてうけつがむとす」という一首があります。小田さんの志を継ぐ催しになるものと信じています。
 私たちの手でスウェーデンに送り出されたかつての脱走兵の一人、マーク・シャピロさんからは、「巨人のように偉大な人間、小田さんへの尊敬と哀悼の念のささやかなしるしとして、葬儀に花をお送りした。小田さんはこの世界のために実に大きな仕事をなされた。小田さんとベ平連の皆さんにどれほどの恩義を感じているか、言葉に尽くせない」という趣旨の便りが来ていることもお知らせします。
 個人的な思いを述べる時間がなくなりました。私のこれまでの人生の道筋を定める上で、ベ平連運動でのあなたと鶴見俊輔さんとのお付き合いが決定的な位置を占めております。ありがとうございました。
    二〇〇七年八月四日

 この弔辞の中で、私は、「正直言って、個々の細かい点や局面では、あなたの言うことに矛盾があったり、私に賛成できないことも少なくはありませんでした。よく喧嘩もしました」とのべた。喧嘩にはならなかったものの、小田さんが末期の胃ガンだとわかって、西宮のお宅にお見舞いに行ったとき、私はかなり強面で小田さんに言った意見があった。「よく、あなたとは議論もした。これが最後の議論になるかもしれないけど……」と前置きをして、私が言ったのは、入院するのだったら、東京の病院ではなく、関西の病院に入るべきだろう、ということだった。関西にいい病院がないわけでは決してなく、「西雷東騒」の筆者としては、それが一貫しているように思うのだ、という意見を伝えたのだ。
 だが、小田さんは、議論はしないよ、もう決めてしまったことだ、聖路加に入るよ、と言った。もちろん、それは本人と家族とが決めるべきことで、私はそれ以上は言わなかった。ただ、小田さんが多くの知人に送った手紙にあったように、一定期間の加療が終ったら、西宮の自宅に戻って生あるかぎり執筆を続けたいという計画は、ぜひ可能にしてもらいたいと希望した。
 東京の病院での加療期間が延長されることになったとき、私は、もう一度新しい意見を伝えた。それは、万一病状が悪化した場合、少なくとも西宮の自宅に帰れるだけの体力がある間に、退院、帰宅をさせるよう、病院当局と約束を取り付けておいてもらいたい、ということだった。だがこれも、そうはならなかった。
 もちろん、小田さんの気持ちは、痛いほどよくわかっていた。
彼からは、どうしても書き遺したい小説のあらすじも聞いていたし、やっておきたいギリシャ語の翻訳のことなども承知していた。小田さんとしては、治療によって、一月でも、いや一週間でも生が延び、書く時間が得られることを強く強く望んでいたことは、よく理解できた。彼自身、「三ヵ月生きられたらいい、六ヵ月生きられたらもっといい」と語っていたのだから……。しかし、病状は予想をはるかに超えて早く進行し、入院後三ヵ月も過ぎぬうちに亡くなられ、危惧していたとおりになってしまった。死去の知らせを聞いたあと、私はしばらく呆然と、雷鳴を聞き、稲妻を見続けていた。
 「言えなかった意見」とは、また別のことで、小田さんの最後の著書『中流の復興』(NHK出版)のなかのある文章のことだ。彼はそこで、戦後の日本が「平和経済」の国だったと何度ものべている。確かに、日本はアメリカのように産軍複合体が国の政治全体を独占しているような国にはなっていないし、ヨーロッパの資本主義大国やロシア、中国のような大規模軍需生産国家にはなっていない。でも、疲弊した戦後日本を一挙に復活させたのが、朝鮮戦争による特需だったことや、またベトナム戦争の際の特需のことには触れてほしかった。何よりも、小田さんに言いたかった文句は、「左翼はすぐ、これは軍事産業だ、三菱はどうしたこうしたと言っているが、基幹的には平和産業で、それで豊かさを形成した」(158ページ)という一文だ。
 小田さんが生きていれば、私は早速「小田さん、いくらなんでもその言い方はないよ」と言うだろう。小田さんの「左翼」嫌いはよく承知しているが、三菱はどうしたなどというのが左翼だとはひどい。ベ平連のなかで、私は三菱重工業への反戦一株運動に参加し、そこの株主総会に二度出席した。そして私たちは、総会屋や三菱がやとった右翼、暴力団などによって引き倒され、殴られ、蹴られ、総会場から叩き出された。
 だが、そもそも、この三菱重工業の一株運動を思いついたのは、小田さん自身だった。一九七〇年九月に開いた「満州事変のころ生れた人の会」の講演集会で、小田さんがそれを提唱した。だが、彼はその直後、体調を崩して入院してしまったため、実際の運動には関われず、私や他の若いベ平連のメンバーたちがこの運動を引き受けることになった。やむをえなかったとは言えるが、この運動は「言いだしっぺがやる」というベ平連の原理からは外れたものになったのだ。
 また、一九七三年、ベトナム停戦が発表されると、自民党本部のビルの上には「祝ベトナム停戦 次は復興と開発に協力しよう」という大きな看板がかかげられた。私たちは恥知らずなこの看板に憤激したが、小田さんは、「なにがベトナム復興だ、ケイダンレン、おまえにそんなことがいえるか!」というアピールを書き、経団連への抗議デモを呼びかけた。こうして、ベ平連の後期、経団連への抗議デモは小田さんを先頭に何度もくり返された。もちろん、防衛生産委員会などへの抗議がメインテーマの一つだった。
 小田さんが生きていれば、私は、この著書の表現に文句をつけ、彼がそれに反論し、またまた議論が始まったことだろう。彼は何と反論するのだろうかな、私はそれを考える。こうして、私の頭の中で、小田さんとの議論が始まる。これが「言えなかった意見」にかかわることだ。
 弔辞でのべたように、小田さんは、こうして、人びとの胸の中に生き続け、いつまでも私たちとの議論を可能にしているのだ、と私は思う。

藤原書店 季刊 『環』 2007年秋号[特集]「われわれの小田実」に掲載)