news-button.gif (992 バイト) 79 小田実さん葬儀での弔辞(全文) 2007年8月4日、東京・青山葬儀所での小田実告別式にて) 07/08/05搭載)    

 小田実さんの葬儀は、8月4日(土)、東京の青山葬儀所で、鶴見俊輔さんを葬儀委員長として行なわれ、約800人の参列者がありました。その第一報は、旧ベ平連運動のホームページの「ニュース」欄、No.486に掲載されていますので、ご覧下さい。
 以下にそこでの私の弔辞を掲載します。実際には、発言時間が3分間という制限になったため、大幅に削除して、短縮したものを述べることになりましたが、ここでは、削ってない元の原稿を全文掲載します。

弔  辞

 小田さん、あなたが逝った日、東京では激しく雷が鳴りました。「西雷東騒」という文を関西の新聞に書き続けてきたあなたの死を、東の雷神もまた悼んでいるような思いでした。

 ここ二、三ヵ月、私のもとには、手紙やメールで、多くの未知の人びとから、小田さんに伝えてほしいと、お見舞い、感謝のたよりがつぎつぎと送られてきました。二〇代、三〇代のときに、小田さんの言葉や行動に触れて、人生の道筋を定めることが出来たという人びと、その後も何かにつけて、あなたの主張と行動に励まされ、自らを律することができたという人びとからの、熱いメッセージでした。その思いは、今日ここに参加している多くの人びとの胸に共有されていたことだったと思います。

 あなたの最後の小説のタイトルの通り、「終らない旅」は確実に多くの次の世代の人びとに受け継がれ、国家と軍隊と暴力から離脱し、個人として自律の道を切り開く旅は、決して終らずに続けられてゆくものと、私は確信します。あなたは千の風どころか、何万という人々の胸の中に居続けることになるのでしょう。

 一九六五年、ベ平連の運動のなかで知り合ってから半世紀近く、私は、さまざまな市民運動で、あなたとともに活動してきました。ベ平連の運動のときには、「小田と吉川の二人の組み合わせで、この運動は進められた」というようなことが、よく言われました。しかし、振り返ってみて、私の代わりとなるような人は、私の周囲にいくらでもいました。私よりも若い世代の人びとの中から、私をはるかに超えるような能力を持った人びとはつぎつぎと生まれていました。しかし、あなたに代われるような人はついに現われませんでした。運動に加わった知識人のなかで、あなたは稀有な存在でした。

 正直言って、個々の細かい点や局面では、あなたの言うことに矛盾があったり、私に賛成できないことも少なくはありませんでした。よく喧嘩もしました。しかし、状況を骨太に捉えて、判断を述べ、進む大きな方向を示す、その点ではあなたは少しもブレルことなく、常に運動の中軸にあって信頼の置ける人でした。

 何よりも、一九六六年にあなたが提起された「被害者にして加害者、加害者になることによってまたも被害者になる」という主張は、一九四五年以降の日本の反戦平和運動の歴史のなかで画期的なものでした。戦争の加害者としての自覚は、こうして、以後、日本の運動のなかでの中心的な課題の一つとなりえたのでした。

 その後の幾多の運動のなかで、たとえばイラク反戦の運動の中で、反戦を強く唱える作家や、評論家や、学者は多くいます。しかし、あなたのように、運動の最先頭の修羅場に身を置いて、そこで有名、無名の区別なく、ともに一人の個人、一人の市民として平等に行動を続けてゆく、そういう人を私は、残念ながら知りません。

 あなたと行を共にした場面がつぎつぎと私の頭に浮かんできます。

 一九六八年、佐世保に米原子力空母エンタープライズが入港しようとしているとき、あなたは私とともに二人だけで佐世保へ向いました。民間機をチャーターして、空母の上から撒こうと、英文のチラシを一万枚ほど抱えて。残念ならが飛行機はチャーターできず、私たちは小さな三とんたらずの木造小船を借りて七万五千七百トンのエンタープライズの周りを何度も回りました。その対比は、あなた自身、まるで戯画のようだったと言っていましたね。でもあなたはエンドレステープのように、イントレピッドの四人に続け、ベトナム攻撃から手を引けと、英語のアピールをし続けました。甲板には、耳を傾ける兵士が次第に増えてきましたね。夜は、佐世保のバー街で、上陸してきた米兵に、空から撒けなかった英文のチラシを撒きました。知らない多くの市民がつぎつぎとビラを持って散り、あっという間にビラはなくなりました。兵士たちは、上陸前、「ベヘイレンに気を付けろ、あれは北朝鮮の共産党系団体だ」と言われていたそうですね。翌日は、二人だけでデモをしようと、歩道の上であなたは立て看板を書き始めました。あまりに下手くそな字なので、私が手を入れました。その間にも、「小田さんですか、私も加わります」という未知の人びとがつぎつぎと現われ、歩いているうちに、その隊列は三〇〇人にもなり、その晩、すぐにその人びとによって「佐世保ベ平連」がつくられたのでした。

 既成の大政党や大労組のデモが、「隣に見知らぬ人がいたら、気を付けてください。それは警察のスパイか、極左暴力集団の挑発者です」と呼びかけていたのに対して、あなたは、「誰でも入れるデモです。一緒に歩きましょう。エンタープライズに抗議して」という看板を掲げ、見知らぬ人びととつぎつぎと腕を組みました。既存の運動と異なる市民運動のあり方の典型を見る思いでした。

 あなたの小説『冷え者』が、運動のなかで問題になったことがありました。被差別部落に対する差別小説だとして、糾弾の対象とされ、発行中の『小田実全仕事』の中から削除するよう要求されたのでした。ベ平連の若い人びとの中からもそれに同調する意見が強くなりました。そのときの小田さんの確固とした姿勢も私は決して忘れられません。

 糾弾の対象とされた途端、作品集の中からそれを削って口を閉ざしてしまう作家も少なくないなかで、あなたは決してそういう態度をとらず、批判者の文章を共に掲載することで、その小説を出版し、世の討論に資するようにしよう、と提案したのでしたね。なんと、そうなった途端に、批判者は姿を消してしまい、あなたはやむを得ず、解放同盟員であり、作家である土方鉄さんに批評文を依頼して、それを含めた出版を実現したのでした。おかげでいま、私たちはその作品を読むことができます。

 一九七〇年七月、岩国の米軍海兵隊基地のなかで反戦暴動が起こって弾圧が加えられているとき、たまたま岩国にいて、深夜その知らせを受けた小田さんは、追ってきた日本警察の車が基地正面で止められている間に、入り口の警備をしていた反戦派の米兵に通されて、タクシーで基地の中に難なく入り込み、反戦米兵らを激励してきたのでしたね。そのほかにも、あるいは一九六九年夏、大阪での反戦万博で、ベ平連を批判する日大全共闘などの激しい攻撃に、二人で防戦、反論に必死であったときのこと、そしてあるいは一九六九年四月二八日の沖縄デーの日の1万数千のベ平連デモが、銀座の手前で機動隊に阻止されたとき、かなり迷い、みなと急遽相談したあとで、デモは市民の権利だと主張して、催涙弾と火炎瓶の炎の点在する大通りを先頭に立ってデモを進めたときのことなど、思いはつぎつぎとよぎり、留まることがありません。

 あなたの死後、こうしたあなたを先頭とする運動を、「華々しかったが、空回りだったのではないか」とする意見をたまたま眼にしました。しかし、それこそ、表面的なことしか見ていない見解でしょう。阪神淡路大震災のあと、あなたが、自民党から共産党まで、議員をつぎつぎと回って説得に努め、私有財産を国家は補償しないと言い張っていた政府に対し、市民=議員立法を対置し、まだ十分ではないものの、災害犠牲者を公的に支援する法律を実現させたことなど、実際に勝ち取った大きな現実的成果を見ただけでも、そうした見解が皮相的なものだったことは明らかです。

 今年の秋、一〇〜一一月は、あなたが『終らない旅』のメインテーマにすえられた脱走兵援助の一番初め、あの米空母「イントレピッド」からの四人の米兵の脱走から満四〇年を迎えます。ということは、羽田闘争の四〇周年でもあり、エスペランチスト由比忠之進さんの焼身自殺抗議からの四〇周年でもあります。私たちは、一一月一七日、そのための集会を準備しています。決して後ろ向きの回顧ではなく、自衛隊の戦地派遣が続き、集団自衛権の容認の方向が強まっているなかで、ますます重要になってきている、国家と軍隊からの離脱、市民的不服従の道を語るという、極めて現代的な意義をもったものにする予定です。あなたとともに、脱走兵援助に力を割いた多くの人びとがそれに加わるはずです。脱走兵への援助にも加わられた鶴見和子さんの歌に「脱走兵援助の歴史アジアにて末来へ向けてうけつがむとす」という一首があります。小田さんの志を継ぐ催しになるものと信じています。

 私たちの手でスウェーデンに送り出されたかつての脱走兵の一人、マーク・シャピロさんからは、「巨人のように偉大な人間、小田さんへの尊敬と哀悼の念のささやかなしるしとして、葬儀に花をお送りした。小田さんはこの世界のために実に大きな仕事をなされた。小田さんとベ平連の皆さんにどれほどの恩義を感じているか、言葉に尽くせない」という趣旨の便りが来ていることもお知らせします。

 個人的な思いを述べる時間がなくなりました。私のこれまでの人生の道筋を定める上で、ベ平連運動でのあなたと鶴見俊輔さんとのお付き合いが決定的な位置を占めております。ありがとうございました。

二〇〇七年八月四日

吉 川 勇 一