news-button.gif (992 バイト) 73 戦後平和運動の可能性と課題  平和人物大事典』2006.03 日本図書センター (06/07/31搭載  

 以下は2006年6月に刊行された『平和人物大事典』{監修・鶴見俊輔 日本図書センター刊)に掲載されたものですが、実際に執筆した時期は、1年以上前でした。最初に本書の刊行予定が2005年5月だったためです。

        戦後平和運動の可能性と課題 
                            
吉 川 勇 一
 

鶴見俊輔は、一九四五年八月一五日以後に起こった日本の社会変革が、米占領軍によって強制されたものであるとはいえ、それまでの戦時中の為政者や、戦時中と同じ官僚、同じ資本家、同じ新聞、同じ教師、同じ宗教家によって行なわれたものであり、自らの戦争責任追及の手続きを欠いたまま、平和主義、民主主義への転換が行なわれたとし、この、戦争責任追及抜きの社会変革は、悪い影響を戦後のわれわれに及ぼした、とのべている。(一九六八年八月、京都で開かれた「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」主催の「反戦と変革に関する国際会議」での報告)
 一九九五年、戦後五〇年を迎えたときの状況を、私はこの鶴見俊輔の言葉を引用して、次のように書いた。

 鶴見がいうように、一九四五年八月の敗戦は戦前からの完全な断絶をもたらさなかった。……
……戦後五〇年をめぐって、この間にさまざまの失敗や挫折を経つつも、そこから教訓を学びつつ続けられてきた反戦平和運動の営為と、それをまったくなきものとして、戦前への回帰、それとの連続を国是とさせようとする勢力との、せめぎあいが行なわれているのだ。……(「せめぎ合う『連続』と『断絶』」 吉川勇一編『反戦平和の思想と運動』社会評論社 
1995年刊 所収)

それから一〇年を経た現在、このせめぎ合いの状況はまさに大詰めを迎えようとしている。朝鮮戦争、ベトナム戦争などへの実質的加担はあったものの、とにかくこの国の軍隊が、国策として外国に派遣され、武器をもって他国の民衆を殺害する、あるいは殺害されるということは、この六〇年間に一度もなかった。だが、今この国は、大きな変貌を遂げつつあり、イラクではそういう事態が何時起こっても不思議ではない状況がつづいている。しかも、その種の海外への日本軍隊の出動を常時可能にさせるような法的整備が進められ、それを禁止している憲法第九条などの改悪の方向が為政者によって明示され、ここ数年のうちにも、憲法九条を改変するか否かの最終的決着を問われる時が来そうである。
このときに当たって、戦後の平和運動がたどってきた道をふりかえり、本書に採録されているような多くの先人たちの営為の中で、何が生み出され、遺産となってきたか、また何がこのような事態を導くことになった負債だったのかを検討してみることは、とりわけ重要なことになっていると思う。
 

被害と加害 

 鶴見は、先の文に続けて、その戦争責任追及抜きの社会変革が戦後日本に与えた悪い影響に気がつき始めたのが、ベトナム反戦運動の中であったと述べている。それまでの運動は、一九五〇年代後半に大きく盛り上がった原水爆禁止の運動にしても、あるいは一九六〇年の安保闘争にしても、戦争による被害の実体験に大きく裏打ちされたものであり、戦争の被害を二度と繰り返したくないとする強い要求に基づいたものだった。そして、あるいはそれゆえに、これらの運動では、日本の戦争責任、あるいは加害者としての側面への自覚などが非常に弱かった。それを明確な形で提起し、日本が単なる被害者ではなく、加害者でもあり、被害と加害とが一つのメカニズムの中に統一されているという思想を反戦運動の基礎の一つにすえたのは、ベ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)の中心となった作家の小田実だった。(「平和への具体的提言」19668月) それは七〇年代以降の反戦運動、さまざまな市民運動に大きな影響を与え、第三世界への加害責任、国内マイノリティや女性、障害者、社会の底辺に位置する人びとなどへの差別の問題への視野の広がりも用意した。
 同時に、六〇年代後半からのベトナム反戦市民運動は、並行して各地で起こってきた公害反対の市民運動とともに、すでに六〇年安保闘争の中で生まれていた(例、「声なき声の会」)大組織主導型の運動組織(典型的な例が原水禁運動の後期や、六〇年安保闘争の「安保共闘」)ではない、自立した個人の自主的連合としての市民運動組織の形態を普及、定着させた。
 

経験の継承 

 こうして、ベトナム反戦運動の中で、それまでの「保守対革新」の対立軸とは異なる指向性をもった運動のもう一つの傾向が登場することとなった。こうした傾向が、充分な一つの運動主体として形成されたとは言えないまでも、戦後六〇年の運動の中で、それは大きな転機を画するものだった。
 だが、この経験の継承が、今、危うくされそうな傾向も生じているように思える。イラクへの自衛隊派兵に反対し、憲法九条の改変を阻止するための広範な連合が希求される中で、幅の広い結集のためには、日本の加害者性の自覚などは阻害要因となる可能性が大きく、戦争による被害の側面の強調こそが運動にとって必要だとする主張が登場してきているからである。そしてその主張とともに、加害者性や戦争責任、差別などを問題にしてきたこれまでの運動は、時代遅れとなったマルクス主義の影響を受けており、また、暴力的で暗い性格のものであって、これからの運動には適さないという評価も出てきている。
 これらの説は、これまでの運動の歴史の具体的事実の検討なしに恣意的に主張されているものが多い。そもそも加害と被害の問題は、二者択一のものとして提起されてきたのではなかったし、またマルクス主義の立場から主張されたものでもなかった。確かに、七〇〜八〇年代には、機動隊殲滅を叫んだり、対立する党派に対し、暴力による殺人
(内ゲバ)まで行なう党派もあったし、仲間へのリンチ殺害に及ぶグループも生まれた。しかし、それが、七〇〜九〇年代の運動の特徴であったかのように理解し、あたかも魔女狩りがすべてであったように描く卑俗な中世史観のように、これまでの運動を暗黒のものとして描き出すのは、運動の貴重な経験をすべて葬り去ってしまうことになる。必要なことは、プラス・マイナスの遺産の事実に即した検証であって、本書も、その検証のための重要な素材を提供してくれるものと期待したい。 

 憲法九条の持つ世界史的意義 

 日本国家のありようを大きく変貌させてしまうような危機を迎えるにいたった契機は、一九九〇年八月のイラクによるクウェート武力併合の試みに始まる湾岸危機から、九一初頭の対イラク湾岸戦争、そして細川・羽田内閣を経て社会党首を首班とする村山内閣の登場にいたる時期であった。
 アメリカは、衛星放送時代のマスコミを完全にコントロールし、国連の名を騙って日本とドイツに強力な圧力を加え、両国はともにこれに屈服した。いや、戦前からの継続を願う日本支配層は、この機を利用して一挙に日本を、軍事力をもって世界の事態に介入しうる国家へと推し進めようとした。
 日本のそれまでの「護憲勢力」の弱点は、国際的な危機に際して、「国際社会において、名誉ある地位を占め」るには、どのような貢献をなすべきかについて、具体的な方策を憲法九条の原理に基づいてはっきりと用意していなかったことだろう。そこを突かれて、社会党は一挙に崩壊した。湾岸戦争のような事態こそ、まさに日本がこの憲法前文と第九条の原理に基づいた国際的イニシアティブを発揮すべきときだったのだ。
 反戦市民運動の側も、この事態に充分対応できなかった。それまで、国会内に、社会党、共産党という野党が三分の一近くの議席をもち、また、総評などの労働運動や、各派の学生運動が存在していたとき、それらから相対的に離れた地位にいて、それらを批判しつつも、総体の中で補完的役割に任じて活動してきた勢力は、そうした反政府勢力の構造が崩壊したとき、独自の展望を持って事態に正面から対することが出来なかったといえよう。
 日本国憲法の平和理念の重要な意義についての再認識が運動によって行なわれるのは、こうした事態に直面してから以後のことになった。特に、改憲への動きが急速になってから、この憲法が、単に日本を戦争への直接参加を回避させるという役割を果してきたという一国的意義だけではなく、近隣諸国をはじめ諸民族への国としての盟約の意味と、今後の世界のあり方をも示す世界史的意味を持っているという側面が、次第に自覚されてきつつある。それまでも、こうした重要な指摘は運動内部に存在はしたのだが、それは運動の中で大きな位置を占めるにはいたらなかった。現在、昨年発足した「九条の会」への支持が広がっているが、今後、改憲阻止のための大きな連合が模索される中で、このことの持つ意味はますます大きくなってゆくであろう。

市民的不服従 

 最後にもう一点、今後の運動の中で、重要な位置を占めてくると思われる非暴力直接行動、市民的不服従の問題にもふれておきたい。自己の良心に照らして不正義と信ずることは、たとえ法の命ずるところであってもこれに従わないとする市民的不服従の思想と行動は、日本では、絶無ではなかった(戦前の一部宗教者などによる兵役拒否など)にせよ、伝統としては弱いものだった。ベトナム反戦運動の中で、アメリカの市民運動や黒人運動などの影響を受けたベ平連などが、米反戦脱走兵への援助や、在日米軍の内部での反戦地下活動支援などを行ない、また、一部のアナーキスト系グループによる軍需産業への攻撃の試みなどもあったが、日本全体の運動の中では充分に思想化されたとは言えない。残念ながら、非暴力が、無抵抗や合法主義と同一視されるという誤った認識も、まだ運動の中には残ってもいる。だが、「国歌国旗法」が処罰を伴って強要され、「国民保護法」などが制定されて戦時における軍隊活動への協力が法的に義務化されてくる状況の中では、この市民的不服従の行動は重要な位置を占めてくるだろう。そして、個人としてのこの市民的不服従、非暴力直接行動の思想は、国家レベルでの日本の非戦・非武装の憲法精神と深い関係をもつはずである。その点でも、今後の運動での、思想的、行動的深化が期待される。 

 民衆の間での、運動の中での、討論の期待 

 いま、日本国憲法の改変をめぐる大詰めの時期を迎えて、反戦平和運動としては、それを阻止するための広範な勢力結集・連合が求められており、さまざまな運動体による模索の努力が続けられている。改憲阻止のために、大同団結が必要であることは言を待たないが、しかし、そのためには「小異を捨てて大同につく」ことが必要であるから、護憲派内部での細かい議論は不必要、あるいは有害だとする主張が出てきていることには、注意を要するだろう。憲法の改変は、第九条にとどまらず、生活のあらゆる面に影響を及ぼす全面的なものになる可能性が大きく、それにかかわる運動グループも実に多様にのぼる。それぞれの運動体が、自己の立場に基づいて、護憲の大連合に加われるようにするには、お互いの立場の相違があるならば、それが相互に理解された上で、有機的な連携が必要となる。そのためには、議論や討論が抑えられるのではなく、大いに歓迎されなければならないだろう。議論を抑えることは、運動の中の少数意見を切り捨て、排除する危険性をも生み出す。そうして作り出された「連合」は、脆弱なものとなってしまう。かつての原水禁運動の分裂・対立は、議論が行なわれたからではなく、適切な形での議論ではなかったからだったという経験を汲み取る必要がある。
 本書に収録されている戦後反戦平和運動の先人たちの実践から、そのプラスとマイナスとの遺産を検証しつつ、実りある議論が運動の中で、民衆の間でなされることを期待したい。

(『平和人物大事典』2006.03 日本図書センターに掲載)