news-button.gif (992 バイト) 71  『市民の意見30の会・東京ニュース』の編集担当交代のお知らせとお願い ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.95  2006. 4.1) (06/04/12搭載    
 

『市民の意見30の会・東京ニュース』の編集担当交代のお知らせとお願い            吉川 勇一

以下、かなり個人的なことも含めて率直に記します。
 昨年の暮、何人かの知人の方に「年末のご挨拶」のハガキをお送りしました。その中で、私は次のように書きました。「◆
75歳をすぎる来年前半に、市民運動の責任ある立場からは引退する予定です。もちろん、出来る反戦行動は続けますが、電子ピアノの練習や、溜まっている本を読んだり、CDを聞いたりもしたいですし……。」
 「市民運動の責任ある立場」とは、具体的には、『市民の意見
30の会・東京ニュース』の編集担当のことです。
 2003年の半ばまでは、『ニュース』の編集は、事務局内の
6人ほどのメンバーが、交代で担当してきました。しかし、03年に、事務局にとってはかなり大きな出来事があり、それまで編集も担当していたメンバーのうち、4人が事務局を辞め、事実上、編集態勢は崩壊しました。その経過や評価などはここでは触れませんが、それが会の存亡にもかかわる大きな打撃であったことは確かでした。残った人びとによる事務局会議では、もうこれまでのような会の活動は維持、継続できない、『ニュース』の廃刊、会の解散もやむをえないという意見さえ、複数の人から出されるほどの危機的状況でした。
  私は、廃刊、解散ということに反対しました。イラクでの戦争は激化し、憲法改悪への動きも次第に大きくなっているこの時期に、「市民の意見
30の会・東京」が、事務局内部の事情が理由で活動を停止し、反戦市民運動の場から消え去るなどということは、どうしても避けたいと思いましたし、また、力を寄せてくださっている全国の会員、読者のみなさんの期待をうらぎることにもなると思ったからです。
  それで、かなり無理なことを覚悟の上で、それまで私が担当してきた会員名簿の維持・管理、パソコンによる会計管理の仕事に加えて、『ニュース』の編集も担当すると申し出ました。すでに最後の勤務先であった私大講師の仕事も
01年に終わっており、無職の状態でしたから、目がほとんど見えなくなっていた連れ合いの介護以外の全ての時間をこの活動に充てれば、何とかなるかもしれないと思いました。
  こうして、『ニュース』の
79038月)から、現在の95064月)まで、編集企画、原稿依頼、紙面への割付け、レイアウト、印刷所への送稿、執筆者への礼状送付などの大部分を、私一人で担当してきました。(もちろん、他の事務局メンバーも原稿依頼や校正などの面ではずいぶん力を貸してくれましたが。)それにしても、毎号の締め切り間際になると、徹夜に近い作業日が二日も三日も続くのは、障害をもち、70歳を超えたものにとってはかなりつらい仕事でした。
 それで、なるべく早く、編集を複数の人による合議で出来るようにしたいと希望し、そのための努力をしてきました。昨年の春からは、何人かの方々にお願いをして「編集についての相談会」を毎号の『ニュース』の発行の後に定期的に開くことを始めました。現在では、そこは、『ニュース』前号の合評をするとともに、次号の内容について議論し、執筆依頼の分担もできる場になっています。
 また、昨年夏以降、発行のたびごとに、執筆者の一人に来ていただいて開いてきた「読者懇談会」も『ニュース』を支える重要な場になりつつあると思います。
 さらに嬉しいことには、この間に連続して行なわれてきたイラク派兵反対・改憲阻止・九条実現の意見広告運動と連動したために、『ニュース』の読者、つまり、「市民の意見
30の会・東京」の会員が激増したのです。03年、会員は822人だったのですが、現在では1300人を超えるにいたっています。毎号多数寄せられる読者からのお便りも、好評のものばかりです。おかげさまで、まだ十分にとはいえませんが、会の財政も、かなり安定する方向に向かっています。
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号では、初めて表紙をカラー印刷にしました。確かに費用もかかりますので、その号だけのつもりだったのですが、カラー印刷による金子静枝さんのきり絵の表紙が非常に好評だったため、つぎも、つぎもと続いて、今では止められなくなってしまった感があるのですが、それでも、印刷費は何とかカバーできています。
 こうふりかえってみますと、
2年半前の会の危機的状況は、離脱できたように思えます。もう、このへんで無理をして引き受けた私の仕事を、そろそろ交替していただいてもいいように思えてきました。実を言えば、責任ある立場から引きたいという希望は、5年以上前から事務局会議で何度も表明してきていたのですが、一向にまじめにはとりあげられてこなかったのです。昨年末のご挨拶のハガキの文面は、もう、このように公表してしまう以外には辞めさせてもらえそうもないと思った私の一種、クーデター的な宣言ともいえます。事前にはどなたとも相談せずに送ってしまったのですから。
 もう一つ、個人的な事情ですが、長年、介護してきた連れ合いが、昨年
6月に死去したということがあります。それについては、思うことを私の個人ホームページなどでいろいろ書いていますので、ここでは述べませんが、私にとって大変な打撃でした。私の健康状態も悪化し、昨年暮からは、降圧剤の投与が始まりましたし、年末には、久しぶりにイレウスの急襲を受けて、救急車で入院する羽目にもなりました。
 そういう事情や経過からして、今号をもって、私は『ニュース』編集担当者の立場からおろしていただくことにします。でも、「編集委員会」には参加しますし、協力できることはやらせていただくつもりです。また、それ以外の会員名簿の管理、会計処理などは、しばらく担当せざるを得ないと思っています。

 
長年の反戦運動の中で、私にもそれなりの人脈が出来ていて、『ニュース』への執筆依頼も、そのかぎりでは出来たのですが、当然のことながら、年配者が多く、執筆陣はかなり偏ってきていると自分でも思います。とくに若い人びとからの寄稿は多くありませんでした。男女別でいえば、男性の執筆者が圧倒的です。これは、私の能力に関わることでした。今後、とくに改められるべき点でしょう。これ以上、この年寄りが編集責任の仕事を続けることは、会にとっても、『ニュース』にとっても、マイナスの結果の方が大きくなってくるように思えます。
 
96号(6月号)からは、新しい複数のメンバーの協力によって一新された紙面が登場することになると思います。このことが、この会が新局面を開き、新しい飛躍の機会になることを、心から期待しております。
 「読者からのお便り」欄には、高齢化や健康状態の悪化のための退会のご挨拶が時々載ります。会発足以来の長年の会員の方が去られるのは、残念な思いですが、しかし、これは、人間にとってやむをえない現象です。生ある限り、できる範囲での活動は続けつつも、より若い次の世代に期待することになります。
 昨晩は、近くの市であった「月桃の花」歌舞団の公演を見に行って、そこで、意見広告のチラシなども配ってきました。世代交代のためにも、こうした活動が大事になってきていると思います。
 みなさんのご理解とお力添え、よろしくお願いいたします。                            (二〇〇六年二月二六日記)

(『市民の意見30の会・東京ニュース』No.95 2006年4月1日号)