news-button.gif (992 バイト) 51 「有事法体制」下の九条的生き方 ( 『マスコミ市民』 2003年6月号)      (2003/06/17搭載)

 

「有事法体制」下の九条的生きかた――53日立川市の憲法集会での講演
 

吉 川 勇 一  

 53日、東京・立川市で、「市民のひろば・憲法の会」主催による憲法集会が開催され、吉川勇一さんを講師に迎え、講演会が行われた。ご自身、ガンを抱えながらも、三年前にご伴侶が失明状態になってからは介護や炊事などで「先に死ねなくなった」という吉川氏。長年にわたる活動の実践を踏まえたそのメッセージは力強く、まさに「生きかた」を訴えるものであった。ご本人と主催者の許可を得て、ここに抜粋・要約をご紹介したい。(編集部)

新聞の全面意見広告の意味

 これは、本当なら憲法記念日の今日の『毎日新聞』に掲載されるはずだった意見広告の紙面です。レイアウトを無償で引き受けてくださったデザイナーの鈴木一誌さんは、細かい字で並んだ2,000人を超える賛同者の名前に濃淡をつけ、それで「殺すな」という文字が浮かび上がる見事なデザインを作ってくれました。この「殺すな」という文字は、故岡本太郎さんの筆によるもので、かつてのベトナム反戦市民運動グループ、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)(*1)が、196743日、アメリカの『ワシントン・ポスト』紙に掲載したベトナム反戦の全面広告で使われたもので、アメリカの読者に強烈な印象を与えました。その後、和田誠さんのデザインで、反戦バッジも作られ、「殺すなバッジ」として運動の中で、現在も好評です。
 この広告の掲載は
54日に延期されたのですが、それは『毎日』記者によるアンマン空港での爆弾事故という出来事のためでした。不注意による過ちとはいえ、人を殺してしまったわけで、その謝罪の記事と「殺すな」の全面広告とを同じ日の紙面には載せられない、というのが『毎日』側の理由のようでした。今日の憲法記念日に出すことに大きな意義があると思っていただけに、残念なことでした。明日の紙面には、この広告ととともに、「毎日新聞広告部」の名で、それが本来なら3日の憲法記念日に出るはずのものだったという釈明文も載ることになっており、『毎日』側は、前例のないことなのだが、と言っていますが、前例のない事故を起こし、3日掲載の契約を変更したのですから、そのくらいは当然でしょう。
 日本で最初の反戦意見広告は、
19651116日、『ニューヨーク・タイムズ』にベ平連が出したものでした。それをよびかけた作家の故開高健さんは、4ヶ月間駆けずり回って掲載に必要な250万円を集めたのでした。ちなみに、全面広告の掲載料は日米では大きく違います。一つの理由は、日本の新聞の発行部数が非常に大きいのに対し、アメリカでは、基本的にローカル紙ではるかに少ないせいもありますが、しかしそれだけではなく、アメリカでは意見広告に対して一般の広告料より安い価格を設定して、それを歓迎・支援しています。また、PMC(パブリック・メディア・センター)のような市民団体が、少数民族や弱者のグループなど、十分な資金のない運動体の意見広告のために、超安価、場合によれば無料でレイアウトをはじめ掲載手続きを引き受けて支援しています。しかし、日本の商業紙は、意見広告にそうした理解をもたず、電気、石油、自動車など大企業の広告や大出版社の広告には、定期的な掲載だからという理由で割引料金を適用しつつ、市民運動などの意見広告は臨時の単発ものだからとして規定の料金を請求するのです。『ニューヨーク・タイムズ』で250万、『ワシントン・ポスト』で150万円ほどの料金ですが、日本では全国版だと『毎日』で1千万以上、『朝日』だと2千万円ほどです。大新聞の政治部や社会部のデスクでも、自分の社のこうした広告料金を知っている人はほとんどいないのではないでしょうか。意見広告への理解がほとんどないのです。
 そうした無理解や誤解は、運動自体のなかにもまだまだあります。募金目標が
1500万だの2000万円だのと聞くと、そんな大金を出してマスコミを儲けさせる必要があるのか、むしろ現地の戦争犠牲者への直接支援などに使ったほうがいい、というような意見が必ず寄せられるのです。これは、意見広告運動の意味をまったくわかっていない意見です。

吉川勇一(よしかわ ゆういち)1931年生まれ。72歳。講和条約・安保条約発効反対のストで東大を退学処分。その後、わだつみ会、全学連、日本平和委員会などで活動ののち、ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)に参加、6674年事務局長をつとめる。予備校講師をしながら反戦市民運動に参加。88年に小田実らと「市民の意見30の会」を結成し今日に至る。著書に『市民運動の宿題――ベトナム反戦から未来へ』(思想の科学社)、『いい人はガンになる』(KSS出版)、編書に『反戦平和の思想』(社会評論社)、訳書にD・デリンジャー『「アメリカ」の知らないアメリカ』(藤原書店)、H・ヘイブンズ『海の向こうの火事』(筑摩書房)など。ホームページは、http://www.jca.apc.org/~yyoffice

 今、手元に2千万の金がすでにあるのなら、別の使い方を考えてもいいでしょう。でも最初からそんな金があるわけがないのです。チラシを作り、人びとに趣旨を訴え、賛同を求め、千円、2千円と集める、その運動が、人から人へと拡大してゆく、そうしたプロセスが重要なのです。それに、身体の具合や家の都合など、さまざまな条件でデモや集会に参加できないが、反戦の思いは強いという人たちが多数います。意見広告は、そうした声を、目に見える形にして出す一つのチャンネルを用意することにもなるのです。今度のこの広告運動には、全障連など、障害者のグループも呼びかけ団体に加わっており、賛同金を寄せてきた人の中には、デモには出られないのだがどこかで自分の意思を表明したかった、いい機会を提供してくれたことに感謝する、という意見も多く寄せられています(*2)。

ベトナム反戦とイラク反戦との違い

最近よく聞かれる質問に、ベトナム反戦運動と比べて今の運動はまだ弱いのではないかということがあります。私はそんなことはないと思っています。それをこの意見広告運動を例にとって説明して見ましょう。
私はこれまで多くの意見広告運動に関わってきましたが、その経緯を見ると、市民運動の力はずいぶん大きくなってきていると思います。
先に触れた
67年の『ワシントン・ポスト』への殺すな広告では、150万円を集めるのに、1年近くかかりました。ですが、1991年の湾岸戦争反対の意見広告のときは3ヶ月で901万円が集まり、戦後50年にあたる1995年の815日に『朝日新聞』に市民の不戦宣言を出したときには8ヶ月で1.189万円が集まりました(*3)。そして今回のイラク戦争の場合にはなんと1ヶ月半で940万円が集まった。ベトナム反戦の時にはなかったインターネットやFAXという伝達手段が普及したということもありますが、人びとの反応の速さ、そして広さというものは驚くべきものでした。

アメリカは何を学んだか

 ベトナム戦争からアメリカが学んだものとは何だったのでしょうか。ベトナム戦争でのベトナム側の死者は、正確な数字は分かっていませんが300万人以上と言われています。一方、アメリカ軍の死者は58,000人です。ここに驚くべきデータがあります。米軍の従軍者300万人のなかで、帰国後に自殺をした人、または自殺を試みた人の数が戦死者の数を上回る6万〜10万人にのぼるというのです(*4)。事情も判らずベトナムに送り込まれたアメリカの青年が、そこで何の意義も認められぬ理不尽な殺戮に従事させられて、そのいかに多くの者が精神を崩壊させていったかを窺わさせる数字です。
当時、アメリカ軍は徴兵制をとっており、ベトナムに送られた青年たちの多くは
2年という服務期間を精神的に持ちこたえることができなかったのです。アフガン戦争のときには、すでに徴兵制ではなくなり、米政府は従軍期間を6ヶ月に減らしました。現地を訪ねた吉岡忍さんの話ですと、米軍基地は都会から数十キロも離れた荒地の中に現地社会と隔絶されたものとしてくつられ、そのなかには、スポーツや娯楽施設も含めアメリカ社会をそっくりそのまま持ってくるという策をとっているそうです(*5)。基地住民との接触は一切ないので、住民トラブルも起こらない。ジャングルでの対ゲリラ戦のような戦闘は回避して、ピンボール・ゲームのようなミサイル発射作戦が中心になる。
また、ベトナムのときには、アメリカ兵が生首をぶら下げているようなカラー映像がTVでお茶の間に流され、ショックを与えましたが、今回はボタンを押すだけの戦争で、その上、マスコミの報道が軍部によって厳重に制限・管理されましたから、人びとに厭戦・反戦の感情を持たせるような映像は決して流れることがない。
アメリカの政府と軍部がベトナム戦争から学んだことは、そういうことだけだったのです。各民族は、自らの運命を自ら決する権利を持っているということ、国際紛争は武力によってはまったく解決できないということなど、最も学ぶべきことは何一つ学びませんでした。そして、ベトナムで傷ついたアメリカの威信を、湾岸戦争から今度の対イラク戦争などで回復しようとし、「アメリカこそ世界の守護者、正義の体現者」という姿勢はベトナム戦争当時よりも増幅しています。

反戦運動の流れに思う

 旧ベ平連のホームページに中学1年生から質問が寄せられました。社会科のレポートで「反戦運動・ベトナムとイラク」を書かねばならないのだが、共通点、相違点など教えてほしい、というのです。私もあらためて考えてみました。そして、まず今度の反戦運動は、戦争が始まる前から全世界で巨大な行動が組まれた点で、前例のないすごいことだということをあげました。 654月にベ平連ができたときにはすでにベトナム戦争は何年も前に始まっており、世界で運動が高まるのは、大規模な北爆が始まった直後からでした。その上、今の運動は、グリーンピースなどの環境保護運動や、東南アジア、中東、アフリカなどでの活動に関わるNGO,NPOなどのグループが、多く参加してきています。反戦平和というジャンルを超えて、戦争を可能とさせている世界の構造全体を変えようとする運動へと展開する可能性も生じています。アメリカのやってきたことを既成事実とさせ、今後の世界の規範などにさせてはなりません。これからの世界を律するものは、昨年以来、示されてきた全世界での巨大な反戦運動で示された人びとの声でなくてはならないと思います。今回の運動の速さと広がりは市民運動の可能性をますます感じさせるものでした。
 運動の組まれ方も変わってきました。ベトナム戦争の初期、日本では、社会党、共産党、労働組合といった大きな団体・組織が中心的役割を担っていましたし、大きな行動も、著名人が呼びかけ、それに応えるという形をとっていました。しかし、湾岸戦争以降は、そうした大組織や著名人の呼びかけに待つのではなく、人びとが思ったときにその場で動くということがベースとなり、数十人、数百人規模の行動が各地域ごとに持たれるようになっています。そして今度のイラク反戦運動では、従来の反戦運動グループの枠を超えたさまざまな運動体が、連合して数万の人びとが参加するような場を設けるという新しい動きも生まれました。
今の運動では、「デモ」という表現があまり使われず、「ピースウォーク」「…ラリー」「…パレード」」などといった名前が付けられています。私自身は、「パレード」と聞くと、なんだかおめでたい祝賀の行進のようなイメージがあり、数千、数万の犠牲者の出る戦争に反対する行動の呼称としては、そぐわないような気がするのですが、しかし新しい時代の新しい行動には、新しい言葉が求められているのかもしれません。
 「市民運動」という言葉が生まれたのは
1960年の安保闘争のときでしたが、その当時でも、運動全体は、「国民運動」と呼ばれていました。さまざまな団体が連合して行なう行動も、「統一行動」とか「一日共闘」などと言われていました。振り返ってみると、ベトナム反戦運動をはじめた当時、私たちも、それまでとは違う新しい運動を作りだすのだという思いを抱き、言葉を選びました。「国民運動」と言わず「市民運動」と自称し、「平和運動」と言わず「反戦運動」と呼び、「統一行動」ではなく「共同行動」と称しました。そして運動が積み重ねられ、根付いていくなかで、言葉も内容を伴って定着してゆきます。
今も、そういう時期なのでしょう。イラクで人びとが死んでいるのに「パレード」、ましてや「フェスティバル」は適切とは思えないのですが、しかし、運動の展開のなかで、事実に即した新しい表現が生み出されるか、あるいは、言葉自体の意味が変容してゆくのかも知れません。そこはこれからの若い人たちの感性に任せたいと思います。
ただし、今の運動に注文や希望したいこともあります。私たちが、これまでの運動のなかでやった失敗も少なくはありません。若い人びとによるこれからの運動のなかで、同じ間違いを繰り返す必要はありません。これまでの運動の経験が、どう継承されてゆくのかは、重要な課題です。

市民的不服従

 そのひとつは、「非暴力」にかかわることです。最近、「非暴力」と「無抵抗」を混同して理解するような傾向が出ているように思います。ある会合での質問で、参加した学生から「ガンジーの無抵抗主義」という表現を使って質問を受け、驚いたことがあります。非暴力は無抵抗では決してないし、合法主義とは無関係です。ガンジーは非暴力という方法を使ってイギリス帝国主義の支配に対し、苛烈な抵抗を組織したのです。ところが非暴力→無抵抗→合法的→警察とトラブルを起こさない、というような誤解からか、デモの中で警官と同じように、隊列の幅を縮めることに懸命になっていたり、解散地でグループごとの集まりなどをやっていると、それを止めて早く流れ解散するよう怒鳴っている整理係も見受けます。これでは、かつて可能だった道路いっぱいのフランス・デモや数寄屋橋交差点での座り込みなどの再現はありえなくなります。個々の警察官を敵視することは間違いですし、かつて一部の党派がやったような「機動隊殲滅」といった戦術は問題外ですが、しかし、警察が軍隊、裁判所と並んで、強力な権力装置の一つだという認識は大事です。重要なことは、「非暴力」を単に多くの人びとが安心して参加できるようにする保証としてだけでなく、それが「直接行動」と結びついて「市民的不服従」の行動へとつながる可能性を考慮に入れることです。「市民的不服従」とは、自分の良心、信念に従い、国家、法律、権力の命に反してでも、やるべきことでないことはやらないということです。たとえそれが自分にとって不利益を生じても、です。このことは、今後、ますます重要になってくるでしょう

大きな方向を見失うな

 今日の話の題にはずいぶん硬い表現とは思いましたが、「有事法体制下の九条的生き方」と掲げました。有事関連三法案は、連休明け国会にかけられ、それを阻止するための行動もいろいろ準備されています。それに参加される方も多くおられると思いますが、しかし、成立の可能性も大きくあります。それと関連して私がお話したいことは2つあります。
ひとつは、大きな方向を見失わないことです。個々の事態に対する個々の対応はもちろん必要です。ですが、日本をめぐる国際関係のそのときそのときの出来事や、個々の法案、国会での審議などへの対応に追われて、私たちの進むべき大きな方向の中での位置づけを見失ってはなりません。北朝鮮の拉致問題にしても、国際情勢、とりわけアジア全体の動向などと合わせて考えなければなりません。
 たとえば、そのなかには日米安保体制という問題があります。私たちは、現在の日米安保条約に代わって、「日米平和友好条約」を結ぶことを提唱しています(*
6)。太平洋を挟む二つの有力な国が、軍事条約でしか結びついていないというのはあまりにも時代錯誤、不自然すぎる状態ではないですか。すでに締結されている日中平和友好条約のような結びつき方が、両国のあいだに可能なはずです。私たちはすでにその条約の試案も作成して、『ニューヨーク・タイムズ』に意見広告として発表し、アメリカの心ある人びとに訴えました。ノーム・チョムスキー、ハワード・ジン、チャールズ・オーバービー氏ら、アメリカの反戦運動指導者から賛同が寄せられています。
 また、小田実さんは、各国の中で個々人の権利として次第に認知されるようになってきた「良心的兵役拒否」という考え方を、国際社内の中でのこの国のあり方に写して「
良心的軍事拒否国家日本」という構想を提唱しています(*7)。私たちの進むべき大きな方向として、これはもっと注目されべきものだと思います。少し前のことになりますが、憲法学者らによって提唱された「サンダーバード・日本国際救助隊」設立の構想もあります(*8)。PKO協力法に代わる日本の国際貢献のありかたとして、重要な提案でした。
  北朝鮮問題についてもそうです。これは現在、拉致問題にすりかえられ、出口がまったく見えなくされています。もしイラク戦争が正しいのであれば、北朝鮮への予防戦争も正しいということになります。そして有事法体制下では、アメリカが北朝鮮と軍事的に事を構えれば、日本は間違いなくそれに参戦することになってしまいます。ベトナム戦争のとき、相模原市にある米軍補給廠から南ベトナム政権に渡される戦闘車両の搬出を阻止する大きな運動が行なわれましたが、そのときできた「ただの市民が戦争をとめる会」の創設者の一人、梅林宏道さん(現「ピースデポ」代表)は、国家間の信頼関係をつくりだすことを政府官僚に任せるのではなく、市民社会が深く関与してゆくプロセスを作ることが重要だとして、ロシア、蒙古、中国、南北朝鮮、日本を含む「東北アジア非核地帯」の設置を提案し、その具体的モデルもつくっています(*
9)。この夏、北朝鮮を訪問する予定の「ピースボート」は、日朝両国市民のあいだで討議する中心テーマの一つに、この構想をすえています。このような市民レベルの運動が北朝鮮問題解決への出口を見出す窓を開くかもしれません。個々の問題への個別の対応に追われて、全体の流れと、世界を見据えた大きな方向を見失わないようにすることがこれからますます必要になると思います。

個人の生き方を問う

 もうひとつは、これからのきびしい状況のなかでの私たち個人、個人の内面的な問題です。2つの例をあげてお話してみます。
 イギリスのヨークシャーテレビが
1989年につくった『4時間で消された村』というドキュメンタリー番組があります(NHKで放映された)。これは今から35年前、1968316日に、ベトナム中部のソンミ村でおこった米軍による村民の大虐殺事件を扱ったTVです。それは、生き残りの村民や、虐殺を行った側の元米軍兵士をたずねてのインタビューで構成されているのですが、そこに登場する元アメリカ兵のほとんどは、「自分は命令に従っただけ、言われればもう一度やるだろう」と答えています。番組のナレーションは、彼らが、当時のアメリカでごくごく平均的な家庭出身の青年だったと解説します。「はじめは抵抗があったが、一人殺せば、あとはもう大丈夫」と答えた人もいた。しかし、なかに1人だけ、殺戮を拒否したという黒人が出てきます。学歴もあまり高くないのでしょう、朴訥な言い方で彼はこう言います。「人間としてやっていいことと悪いことがあるだろ。そんなこと、大学なんか出ていなくても、教会へ行ってりゃ分かることじゃないか。白人も黒人も関係ない。発砲しなきゃ、軍法会議にかけるって脅されたが、それでも私は断った。かけるのならかけてみろ、って答えたんだ」。
 この違いはいったい何なのか。どこでこの違いは出てくるのか。ベトナム戦争のときに限らず、今後海外に派遣される自衛隊員にも訪れるかも知れぬ選択の場面です。有事法が通れば、自治体職員、運輸交通・医療などに携わる人びとにも、あるいは私たち一般市民にも突きつけられる可能性のある問題です。皆さん自身はどうされますか。これはまさに、さきにのべた非暴力直接行動、市民的不服従の問題です。国旗国歌法が制定されたあと、お子さんの小学、中学などの入学式、卒業式に出られる皆さんが突きつけられる状況は、それにつながるものです。ご起立願います、ご唱和ください、という声に、それぞれはどう対応するのか。戦争は別さ、そのときは拒否するよ、という人がいるかもしれません。いや、人間はそれほど強くありません。日ごろから、そういう姿勢を訓練し、そういう生き方をつくりだしておかない限り、戦争だけを拒否するということは難しいと思います。
 私は、数年前に教えていたある女子大学のゼミで、このTVを生徒たちに見せ、感想を語ってもらいました。戦争がいかに悲劇をもたらし、普通の人間を異常な精神状態にさせるのか、そして、軍隊の中での、特に海兵隊のブートキャンプで行なわれるような殺戮訓練が、いかに人間の正常な判断を狂わせ、残虐行為にまで走らせるようになるのか、といったような感想が語られました。
 私は、それらの感想が間違いだとは言いませんが、しかし、戦争という特殊に異常な状況下だったから、という枠組みのなかだけのこととしてはいけないだろう、と生徒たちに言い、次のような話をしました。

ミルグラムの実験

 それが、もう一つの具体的な事例の話で、195063年に行われた「ミルグラムの実験」といわれるものです(*10)。有名な実験ですから、ご存知の方もおられるでしょう。ニューヨーク大学の心理学教授、スタンレー・ミルグラムが行なったもので、彼のチームは、学習と記憶と処罰の関係を調査するという実験への協力者を一般から募集します。協力者は一人一人、公衆電話のボックスのような箱に入れられます。その向こう側には、見えないのですが、その実験を受ける被験者が座っています。被験者には、単語が読み上げられ、そのリストを記憶によって復元することが求められます。正しい答えが出されればいいのですが、間違った答えをした場合、その被験者を担当する実験協力者は、目の前に並んでいるボタンを押して、処罰を与えることになっています。ボタンは、椅子に固定された被験者の腕に巻きつけられた電極に電線でつないであり、ボタンは、被験者に電気ショックという処罰を与えるようになっています。電気ショックは、軽い15ボルトから最大450ボルトまで30段階に分かれており、実験協力者は、被験者の答えの間違いが重なるたびに、だんだんと強いボタンを押すように求められます。被験者の答えや、ショックを与えられたときの声、あるいは叫びなどは、マイクを通して協力者に聞こえるようになっています。実験開始の前に、協力者には、大学側から教授陣の説明があり、その実験には危険はともなわないこと、仮に万一被験者に何らかの傷害が生ずるようなことがあったとしても、大学が全責任を負うのであり、協力者の責任は問われいこと、などが保証され、被験者が大げさな叫びをあげたからといって、ボタンを押すことを躊躇しないように、これはまったく純粋な科学データをあつめるための学術的実験なのだ、といわれます。
 さて、実験が始まり、被験者の答えが間違うにつれ、協力者の押すボタンの電圧はだんだん高くなり、マイクを通して聞こえる被験者の叫びも「やめてくれ」とか「死んでしまいそうだ」などと変わってきます。協力者の中には、心配になって大丈夫だろうか、と念を押すものも出てきますが、教授陣は絶対大丈夫、科学のために協力してもらいたい、と再度保証されます。
 さて、これが実験だったのですが、実は、これには裏があって、実験への協力者とされた人びとが、実は真の被験者だったのです。真の目的は、学習能力と処罰の関係の調査などではなく、答えを言ったり、悲鳴を上げたりする「被験者」と説明されていた人びとも、実際には存在しておらず、すべて事前に録音された偽りの音声だったのです。つまり、正統であると保証された権威――この場合は大学の研究のためという科学的な権威――が与えられた場合、人びとは、ふつうの常識から考えれば生命の危険を生ずるに違いないはずの
450ボルトという電流を、生きた人間に加えることをあえてするのか、どうかを試す実験だったのです。さて、みなさん、「協力者」とされていた真の「被験者」のうち、どれくらいの人が最大のショックレベルのボタンを押すことになったと思いますか。被験者のうち、三分の二までが、最後まで「協力」し、450ボルトのボタンを押した、とミルグラムは報告しているのです。
 これは戦争という、異常な精神状況におかれたときの反応ではありません。政府が決めたことだ、法律が定めてあることだ、大学が保証する科学の進歩のためだ、そういう権威が与えられたときに、ごく普通の、私たちと少しも違いのない市民に起こったことなのです。ごくごく普通の常識を捨てず、いかなる法律、あるいは権威の命令であろうと、自分の信念に反することは決してやらないという姿勢を、日ごろから身につける努力がない限り、ソンミ村の事件は、私たちとも無縁ではないでしょう。有事法体制下で、憲法
9条の精神を持ち続けで生きようとするために、ぜひお考えいただきたい実例なのです。

若者よ議論せよ

 イラク反戦と有事法制反対の運動はここしばらく結びつかないものとして扱われてきた。人道的立場でイラク反戦運動を行なっている人には有事法制の問題は政治的と映り、逆に労働組合などを中心とした有事法制反対の運動では、イラク反戦は政治的として扱われないということが、昨年秋までありました。政治的と思われると参加者の集まりが減ると思われていたのでしょう。しかし、最近になって、これがかなり変わってきました。それらが、別々の問題ではなく、日本にあっては深く結びついた問題なのだという見方が広がってきつつあります。
 それでも、最近、人びとのあいだに議論の機会がずいぶん少なくなったと思います。イラク戦争と有事法制との関係なども、それぞれの運動の中で、もっともっと議論する場が設けられてもよかったと思います。ベトナム反戦の時代には、若者同士で、あるいは学者や学生、運動参加者と一般市民のあいだや、活動家と取材に当たる新聞記者などのあいだで、政治的問題、社会的問題が激しく論じられていました。赤提灯の店などでも、あちこちで口角泡をとばす、といった情景もよく見られました。今は世の中全体に間違った「優しさ」が広まってきているような気がします。相手を批判することが避けられ、違いがそのまま違いとして残されてしまいます。ジャーナリストでさえ議論をしなくなりましたね。歴史意識や社会意識がほとんどなく、サラリーマン化し、共通の問題意識がないから議論からも学ぶことがなくなっているようです。有事法制が通ってしまうような社会で憲法九条的生き方を求めようとするのであるならば、大いに議論も重ね、一人ひとりが「市民的不服従」の思想を深めてゆく必要があるだろう、ということを申し上げて、話を終わります。ありがとうございました。

【注】
(1)ベ平連については、吉川勇一『市民運動の宿題』(思想の科学社)、小田実『「ベ平連」回顧録でない回顧』(第三書館)およびそのホームページ参照。
http://www.jca.apc.org/beheiren/ 
(2)この意見広告への反響などは、そのホームページ参照。
http://www.ikenkoukoku.jp/ 
(3)前者については『「アメリカは正しい」か――湾岸戦争をめぐる日米市民の対話』(第三書館)、後者については『〈戦後
50年〉あらためて不戦でいこう!』(社会評論社)
(4)W・T・ディヴィス・
Jr.著 大類久恵訳『打ち砕かれた夢――アメリカの魂を求めて』(玉川大学出版部)34ページ
(5)パンフレット『殺すな!――ベトナム・アフガン・パレスチナ・イラク……と私たち』
02128日の講演とシンポジウムの記録。(同集会を呼びかける人びとの会発行)55ページ。
(6)パンフレット『日米平和友好条約を促進するには』(市民の意見
30の会・東京発行)
(7)「良心的軍事拒否国家日本実現の会」のホームページ 
http://www.y-salon.com/jitugennokai_001.htm
(8)
サンダーバードと法を考える会編『きみはサンダーバードを知っているか』(日本評論社)
(9)前出パンフレット『殺すな!』
7172ページ
(10)ロニー・ブローマン、エイアル・シヴァン著 高橋哲哉ほか訳『不服従を讃えて――「スペシャリスト」アイヒマンと現代』(産業図書)
1316ページ
 前記パンフレットなどの申し込みは、「市民の意見
30の会・東京」へ。ホームページ http://www1.jca.apc.org/iken30/