news-button.gif (992 バイト) 45 追悼●山住正巳さん 「日の丸」を隠した記者会見 ( 『 「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会News』 2003年2月19日号)  (2003/02/24搭載)  

 教育学者で、元東京都立大学学長の山住正巳さんが2月1日、肺炎で逝去されました。72歳でした。私たち、「『日の丸・君が代』強制反対意思表示の会」の呼びかけ人では、すでに戸井昌造さん、高木仁三郎さん、松井やよりさんがなくなられており、大切な方が次々と逝去されるのが残念でなりません。
 山住さんは、ひろく教育政策の研究にあたられましたが、とりわけ家永三郎さんの教科書裁判以後、文部省の文教政策に対して民間教育の立場から鋭い批判を加えてこられました。そして1999年、学者、弁護士、市民運動家らによって「『君が代・日の丸』強制反対ホットライン」の開設にあたっては、いちはやくそれへの協力を表明され、代表の一人ともなられました。 
 私が、山住さんと個人的にお付き合いをするようになったのはそのときからです。それまでは、元大学の学長という経歴からしても、また、いかにも篤実で謹厳な学者然とした風貌からしても、ちょっと近寄りがたいというか、冗談など言い合えないお方のように思っていたのでしたが、決してそうではないことも、わかってきました。そのときのことを、ありありと思い出します。それをご紹介してみます。
 「ホットライン」開設発表の記者会見は、その年の11月5日、文部省内の記者クラブの会議室で行なうことにしたのですが、直前になってその部屋には日の丸が常時置かれていることがわかりました。私たちは、記者クラブと文部省に、少なくともこちらの記者会見中は撤去するよう申し入れたのですが、拒否されました。記者会見に出席したのは、山住正巳さん、大津健一さん(日本キリスト教協議会総幹事)、庭山英雄さん(元専修大学教授)の「ホットライン」代表三人と、事務局長の澤藤統一郎弁護士、事務局次長の内田雅敏弁護士、それに市民運動を代表して、私、吉川勇一、教育現場から上岡義晴さん(教員)などでした。会見には、マスコミなどの記者約30人が出席しました。
 この席でも、文部省側と部屋にある日の丸の撤去をめぐって10分ほど激しいやり取りがあったのですが、文部省側は、この部屋は文部省管轄のものであり、絶対に撤去しない、と言い張りました。すると内田弁護士は「では、記者会見が終わったら元に戻しますから」と言って正面の日の丸に近寄ると、それを担いで裏のドアから隣の部屋に持ち出したのです。あっけに取られる文部省側や記者団を前にして、記者会見は淡々と始められました。山住さんは、教科書検定のひどさなどと関連付けながら、政府側の主張と違って、日の丸や君が代が教育現場で強制されていることを、教壇からの講義のように冷静に話されました。
 会見がほぼ終わりに近づこうとしたときでした。衛視に囲まれた文部省の役人らが10人ほどで、別室にあった日の丸を囲んでどやどやと記者会見場に入ってきたのです。そして、撤去は認められないので元のところへ戻します、というのでした。各社の記者はみな立ち上がり、呆然とみていました。一瞬、空気は極度に緊張しました。会見は一時中断されました。ですが、私たちは、大きな黒い布を用意していました。それが取り出されて、三脚の上におかれた日の丸が覆われ、さらにその前には、日中戦争に駆り出された日本の兵士が携えていた武運長久などの文字のある汚れた日の丸の旗が掲げられたのでした。
 司会の澤藤弁護士は、これで日の丸を認めないという私たちの意思は貫徹されたので、再び会見を続けますと言い、以後約10分、また淡々と記者会見は続き、終了しました。
  この間、文部省側が出した日の丸は、最後まで、黒布と、侵略戦争に送り出された兵士が持っていった汚れた日の丸で覆われていました。思いがけぬハップニングで、記者会見は意外な効果も生むことになりました。
  日の丸・君が代を強制しようということに反対し、それへの市民的不服従の行動を起こそう、そして、それに伴う問題に対処するための相談窓口として、電話によるホットラインを創設するという発表の記者会見の場が、実は、そういう不服従の行動を実際に実践してみせる現場に転化してしまったのです。しかも、その場所は、文部省の建物の中だというわけです。
 会見が終わって、文部省から引き上げてくる路上で、山住さんは、私には驚きだったのですが、意外なほどはしゃいだ様子で「面白かったですねぇ、効果的でしたねぇ、成功でしたねぇ」と繰り返し言われるのでした。私は、これでいっぺんに、山住さんとは気楽にお付き合いできる、という気持ちになったのでした。
 最近、「国語」か「日本語」かの表現方法も議論になっています。山住さんは1931年1月30日生まれ。私と同年です。とすれば、あの体験も山住さんは共有していたはずです。あの体験とは、私たちが10歳、小学校5年生のときの4月のことでした。歴史の教科書がみなに配られたとき、歴史の教師が生徒たちにこう尋ねました。「これまでは『日本史』という教科書だったんだ。ことしからそれが『国史』と変わったんだ。なぜだか、わかるか?」 模範的「小国民」の一人だった私は、挙手をしました。教師に指された私は、「日本史というと他の国の歴史を勉強してるみたいだけど、国史というと、万世一系のすぐれた僕たちの国の歴史という気がしてきます!」 教師は大喜びで「よく言った! その通りだ!」と私をほめちぎりました。この年の6月22日、ドイツ軍はソ連に攻め入りました。そして半年後の12月8日、太平洋戦争が開始されたのでした。
 それを繰り返すまいとする運動が、ますます必要になってきている今、山住さんを失ったことは、大きな痛手です。謹んで哀悼の意を表します。