news-button.gif (992 バイト) 42 新たな運動の時代への期待をこめて――小林トミさんの逝去を悼む ( 『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.76  2003.2.1)   (2003/02/06搭載)  

新たな運動の時代への期待をこめて――小林トミさんの逝去を悼む
                                 吉 川 勇 一

 松井やよりさんの訃報に続いて、年明けに小林トミさんの急逝の知らせを受けた。昨年秋から病床にあったというが、小林さんは広い範囲に知らさないように頼んでいたのだという。新聞等には十二指腸潰瘍と報じられていたが、以前わずらった乳がんの転移によるものだったそうだ。72歳。
 市民の意見
30の会・東京が6月に主催した反戦デモに参加され、一緒に渋谷の町を歩いた。小林さんの絶筆となった『声なき声のたより』98号に書いた文では、そのデモ参加のことから話を進めている。また、9月初めにあった128「殺すな!」集会の準備会にも顔を見せられたが、それが私が小林さんとお会いした最後だった。会場(教育会館)がなかなか見つけられなくて、九段下から神保町あたりを1時間も迷い歩いたのよ、と陽気な声で話しておられたのが、耳に残っている。17日に行われた葬儀での弔辞で、東京芸大時代以来の友人も、「声なき声の会」の細田伸昭さんも、みな、小林さんがいつも「太陽のような存在」で周囲に明るさと信頼性を放っていたとのべている。
 言うまでもなく、小林さんは「声なき声の会」の設立者であり、ずっと代表者。
60年の安保闘争のさなかの64日、友人と二人だけで「誰デモ入れる声なき声の会」という横断幕をかかげて歩き出したところ、列は三百人もに膨らみ、「声なき声の会」が誕生した。小林さん自身は、この会のことを「無党無派であること、あれかこれかの意見の保留も大切にすること、直接意思表示の場を守り、本部・支部をおかないこと」などを決め、「ふつうの人でも参加できる場を残したいという強い意志によって」活動を続けてきたと書いている(三省堂『戦後史大事典』)。それは日本の市民運動のまさに始まりだった。65年、「ベ平連」運動が発足し、以降ベトナム反戦運動が大規模に展開されるようになるが、小林さんは「ベ平連」の呼びかけ人の一人でもあり、以後、デモの中には「声なき声の会」の青い三角の小旗と日本山妙法寺の僧侶・信者たちのうちわ太鼓の音が目立つことになる。
 物理学者の渡辺一衛さんは、
60年代前半の運動の退潮期には、小林はほとんど人で『たより』の編集からあてな書き、発送まで引き受けなければならなかった。こうした無名性と手しごとの中に、市民運動の原点はあるのだといえる。危険なデモの現場にいつも姿を見せながら、自分は闘士でもないし、かっこよくもないと内心思っている、小林トミのゆったりとした姿勢が、若い人たちに信頼され、この会の活動を底から支えてきた。」と書いている(『朝日新聞社 現代人物事典』)が、まさに小林さんの人となりを見事に表現したものだと思う。
 鶴見俊輔さんは、弔辞の中で、
小林さんが「誰でもが思っている戦争はいやだということを、誰でもができるやり方でやった人だった」とのべ、「43年、小林さん、ありがとう」という言葉で結ばれた。60年に始まった市民運動だが、この43年を経た小林さんの死で、一つの区切りが付けられたような思いが私には強くする。6月の渋谷デモでは、よびかけた福富節男さんが、「第二の小林トミよ、出でよ」と強く訴えられていた。その第二の流れは、118日にある「イラク攻撃反対のピースアクション」の準備の中心でめまぐるしく動き回っている20台の若者たちの中に生まれているのかもしれない。それを強く期待したい。(03110