news-button.gif (992 バイト) 34 体験の継承のために――ベトナム「戦争証跡博物館」に日本の反戦市民運動の資料を届ける――(『週刊 読書人』2002年4月12日号) (2002/04/06新規搭載)  

体験の継承のために

――ベトナム「戦争証跡博物館」に日本の反戦市民運動の資料を届ける――

吉 川 勇 一

 

 二月末から三月はじめにかけて一週間、ベトナムを訪ねた。主要な目的は、ホーチミン市にある国立「戦争証跡博物館」に、日本のベトナム反戦市民運動の資料を、運動の仲間たちと同行して届けることだった。 
 ベトナム戦争を中心に様々な資料を展示しているこの博物館には、年間三五万人もの来館者があり、毎年それは増え続けている。うち半分以上が外国人で、日本人の参観者は年間七〜八万人だという。いま、ベトナム観光は日本でブームとなっている。ベトナム行きの飛行機は連日満席、座席の確保は容易ではない。ホーチミン市の繁華街を歩けば、老若の日本人女性がゾロゾロと土産物品店をめぐっている。そして、「戦争証跡博物館」は、どんな観光案内書にも、一度は訪ねるべきところと出ているから、ここを訪れる日本人観光客も増えている。インターネットのウェッブ検索で「戦争証跡博物館」を探すと、写真を含む多数の訪問記の一覧がズラッと出てくる。
 それらを眺めると、ベトナム戦争の過酷さにショックを受け、戦争はおこすべきではない、平和は大切だ、という意見がほとんどだ。アメリカはひどいことをやったものだ、という感想も多い。ただ、残念ながらそこどまりなのだ。この侵略戦争では、日本が不可欠の役割を果たしたこと、政府は一貫してアメリカの侵略を支持し続け、大企業もこの戦争遂行のために全面的に協力したことなど、日本の加担、責任などにふれたものはほとんどない。ベトナム停戦協定が成立したその翌日、それまで全面的に侵略を支持し続けてきた自民党の本部の上に、「祝ベトナム停戦・つぎは復興と開発に協力しよう」という破廉恥な文句の大看板が掲げられたこと、そしてそれ以来、この破廉恥路線に沿って現在の日本に至っていることなど、知る人は少なくなった。戦争が終わってすでに四半世紀以上が過ぎ、学校教育の中ではそんなことはまったく教えられないのだから、若い人びとが知らないのは無理もない面もあるが、それでいいとは決して言えない。
 別掲の図は、この博物館のシンボル・マークだが、そこに並んだ三つの爆弾のうち、一つはフランスの、もう一つはアメリカの侵略を表し、そして三つめは日本のそれを示しているのだという。
 博物館の展示の中には、アメリカをはじめ各国の反戦運動を示す資料もあり、日本のものも含まれてはいたのだが、市民運動の資料は皆無、日本の戦争協力についても同様だった。そこを訪れた人びとからは、ぜひそういう資料を贈るべきだという提案が、私たちのところにずいぶん寄せられてきていた。
 そこで昨年秋、かつての仲間たちと相談し、ベトナム反戦運動で活動した人びとに呼びかけ、募金を始めるとともに、展示用の写真や資料の収集にとりかかった。百万円目標の募金には倍以上の金額がよせられ、展示用資料も続々と送られてきた。若き日の思い出のためにと、大事にとっておいたポスターや反戦バッグなど も、ベトナムに送るのであれば手放してもいい、というメッセージとともに届けられた。マスコミ各社や多くのプロ写真家から無償の写真提供もあり、引き伸ばして額に入れられ、反戦ゼッケン、ポスター、バッジその他のグッズ類もすべて保存用にコーティングされた。さらに、ベトナム語、英語、日本語のナレーションが三チャンネルで入った日本の市民運動を紹介する五四分のDVDまでが制作された。このシナリオを書いたのは、かつて『ベ平連ニュース』の編集にあたり、脱走兵援助にも活躍した作家の吉岡忍さんだった。
 そのナレーション(日本語朗読は山根基世さん)の一節はこういう。
――戦後世界を二分したイデオロギー対立は、一人ひとりの人間を粗末にする、シニカルで残酷な考え方を生みだし、浸透させていた。そこに、なんとかして人間の声を響かせたい。そこに響き渡る人間の声を、なんとかして聞き取りたい。理不尽に殺される人間の悲しみと怒りの声、殺せと命令された人間のおびえと寂しさの声。市民運動はこれらにまっすぐに向きあおうとした――
 吉岡さんは、「ナレーションのこの一節にたどり着くまでに、年末から年始にかけての三週間がかかった」という。
 多くの人の無償の協力で、専門家が驚くほど見事なドキュメンタリが完成、これを来館者が見るための大型テレビやDVDデッキも博物館に寄贈することになった。
 いっしょにベトナムを訪問したのは、かつてのベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の代表だった作家の小田実さん、ジャテック(米反戦脱走兵援助日本技術委員会)の責任者だった翻訳家の高橋武智さん、先にふれた吉岡忍さん、『ベ平連ニュース』の編集長だった福生市議の遠藤洋一さん、米軍朝霞野戦病院への反戦放送などで活躍した「大泉市民の集い」の代表だった歴史学者の和田春樹さん、脱走兵援助の膨大なドキュメンタリ『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社)を編集した関谷滋さん、活発な活動を展開した旧埼玉ベ平連の小沢遼子さんや東一邦さん(吉岡、遠藤、関谷、東さんらは、当時はみな一九歳、二〇歳という浪人生、大学生だった)、そして八年の間、反戦のゼッケンを胸につけて通勤し続けた夫(徳好さん、療養中)を支えてきた切絵作家の金子静枝さんなどなど、一九六五年以降、ベトナム戦争に反対してきた市民運動の活動家たち約三〇人、その一人ひとりが、語りつくせぬほどの運動経験への思いを抱いてのベトナム行きだった。
 二月二八日、同博物館で行なわれた贈呈式には、ハノイからわざわざグエン・ティ・ビン副大統領も出席、パリ和平会談の南ベトナム臨時革命政府代表だった頃、パリで会っていた小田さんや高橋さんらと二〇数年ぶりの握手を交わす場面もあった。
 ビン女史ら多くのベトナム側指導者を前に、DVDはプロジェクターを使って上映されたが、みな、食い入るように画面を見つめていた。彼らが日本のベトナム反戦市民運動の全体像を知るのは、おそらくこれが初めてのことだったろう。中には涙をぬぐっている人もいたという。提供された多彩な資料やDVDの映像、きれいなベトナム語で流れるナレーションなどが、彼らに大きな感銘を与えたことも確かだったろうが、同時に、それをやった人びとが、二七年も経ってから、このような形で資料をまとめ、三〇人も揃ってベトナムに届けに来たという事実も、かつての解放闘争の戦士たちの心を強く打ったのだと思う。博物館の館長をはじめ、人びとの喜びようは、お世辞ではなく本当だと私には思えた。
 アフガニスタンで、パレスチナで、殺戮が続き、日本の加担がさらに増している現在、かつての経験は風化されることなく次代に継承される努力がいる。今回の訪問は、私たちが当初考えていた以上に成功だったと思うが、それが歴史体験の継承に少しでも役立ってほしいと願っている。
 帰国後、戦争証跡博物館からは、同館の展示を東京で開きたいと希望しているが、協力してもらえないか、というメッセージも届いた。私たちは、ソンミの大虐殺事件の現場も訪ね、生存者たちから直接話を聞く機会ももてたのだったが、来年三月一六日は、同事件の三五周年に当たる。この前後にでも、同博物館の展示が日本で開催されるならば、それは大きな意味があるだろう。
 (今度の訪問で、驚いたことがもう一つあり、それも報告したいのだが、四月三〇日のサイゴン解放記念日に、旧ベ平連の活動家ら二〇名を招待したいという話がベトナム側から届き、小田さんや鎌田慧さん、加納実紀代さんらとともに私も加わることになった。それで、その帰国後に、あらためて続きを書かせていただく予定になっている。)

(よしかわ・ゆういち、「市民の意見30の会・東京」会員、元ベ平連事務局長)

(写真・図は、上から、(1)「戦争証跡博物館」のシンボル・マーク。(2) 館長に日本からの展示品を贈呈する小田実さん。(3)グエン・ティ・ビン副大統領と握手する筆者。)

(『週刊 読書人』2002年4月12日号)