news-button.gif (992 バイト) 25  ミライ(ソンミ)事件、雪印乳業、三菱自動車、そして「日の丸・君が代」強制への不服従  (『「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会ニュース』 No.4 2000.10..15..)   

 

 ミライ(ソンミ)事件、雪印乳業、三菱自動車、そして「日の丸・君が代」強制への不服従

吉川 勇一 

 

 イギリスのヨークシャー・テレビが制作した『四時間で消された村』というドキュメンタリがあります。「4時間で消された村」とは、ベトナム中部クァンナム州の海岸沿いにある半農半漁の村落、ミライです。ベトナム戦争中の一九六八年三月一六日、そこで米軍による村民の大量虐殺が起きたのでした。このテレビは、事件にかかわった多くの人たちのインタービューを含め、事件の跡をたどります。

 老若男女を問わず、四時間のうちに多数の村民を殺戮し(不思議なことに、殺戮の数字は、さまざまある記録の中で一六〇人から六〇〇人までと開いています)、一つの村を抹殺してしまう――それに参加したある黒人兵は自分は二〇人以上の村民を殺したとカメラの前で告白します。ナレーションは、この虐殺にかかわった兵士たちは、「アメリカのごく普通の中流家庭の子どもたち」だったと解説します。

 いったい、普通の人間がどうしてそんな恐ろしいことをできるようになるのか。このフィルムは、関係者のインタービューを通じて、そこのところに深く分け入ってゆきます。コソボ、東チモールなど、同じような虐殺事件が、今でも各地から報じられている時、それを考える上でも、これは貴重な記録映画と言うべきです。

 私は、ある女子大学でアメリカの対アジア政策についての講座をもっていますが、先週、その授業でビデオを学生たちに見せ、全員に感想や意見を求めました。

 普通の人間をこんな恐ろしいことができるようにさせてしまう、それほど、戦争というものは異常なのだ、そういう感想が多くありました。また、この映画でも描かれるのですが、戦地へ派遣されるまで、「武力の精髄は殺すことにある、KILL、KILL、KILLだ」と青年たちに徹底的に叩き込まれる教育の恐るべき影響力を指摘するものも多くいました。もちろん、どちらも間違った意見ではありません。戦争という場は正常な精神を狂わせてしまう恐るべき場ですし、また、スタンリー・キューブリックが『フルメタル・ジャケット』の前半でリアルに描き出したように、すさまじいしごきが、青年たちから人間らしい判断力を奪い取ってしまうのも事実でしょう。

 しかし、残虐行為が、戦争という特殊に異常な場と、軍隊のなかでの特殊に異常な教育のゆえにのみ可能になったとするだけでは、十分でないように私には思えます。私は、ニューヨーク大学の社会心理学教授、スタンリー・ミルグラムがやった実験について学生たちに話しました。(ミルグラムの実験については、最近話題になったアイヒマン裁判の記録映画『スペシャリスト』の作者、ロニー・ブローマンとエイアル・シヴァンが、その著書『不服従を讃えて』[産業図書、二〇〇〇年]の中で紹介していますから、お読みになった人も少なくないと思います。)ある学問的実験(「学習に及ぼす罰の効果」を調べるものだと説明された)に協力を依頼され、その実験自体の公共的意義、権威ある大学の科学者たちの保証、万一の事故の場合の責任の免除などがあたえられると、ごく普通の人間である実験参加者の全員が、電極を取り付けられた人間に二〇〇ボルトの電流を流すボタンに手を出し、さらに四五〇ボルトという致命的な電流を流すボタンまで押してしまう者が三分の二までいた、という驚くべき事実を明らかにしたものでした。   

 しかし、『四時間で消された村』の中には、この作戦に参加しながら虐殺命令を拒否した一人の黒人元兵士の証言も出てきます。彼は、こう語ります。

 ――キャリー中尉に「村人を撃て」と言われた時、私は拒否しました。「軍法会議にかけるぞ」と言われましたが、こう言い返しました。「罪のない人々を撃つなんて狂気のさたです。私にはできません。軍法会議にかけるならかけてください」 仲間が命令を実行すると思うとぞっとしました。私も仲間も真のアメリカ人のはずでした。黒人か白人かは関係ありません。仲間も私も同じ国の出身だから、同じ価値観を持っているはずだと思っていました。たとえ学校に行かなくたって、教会とか、いろんな所でまともな価値観を身につけられたはずです。あの村で命令されたことは、私にとっては非道徳的なことでした。――

 こう考え、殺戮に加わらなかった兵士が少なくとも一人はいたのです。この差、分岐はどこにあったのでしょう。権威あるものの命令であろうが、処罰の脅迫であろうが、「私にとっては非道徳的なこと」と思えるものには服従せず、身についた「まともな価値観」に従って行動するということ、それがこの兵士と他の仲間たちを分けた分岐点でした。

 このことは、殺戮を命ぜられるという特殊な戦場でのことに限られることではないと思えます。雪印乳業・大阪工場での食中毒事件の作業工程にかかわった従業員は何人いたのでしょう? 賞味期限を過ぎた乳製品を作り直し、新たな日付をつけて再び消費者のもとに送り出すということを知っていた人は少なくないでしょう。それでも「まともな価値観」に従って異議を唱えた人はそこにはいなかったようです。隠されていた事実は、中毒事故の発生によって明かになりました。三菱自動車の場合も、致命的な事故の発生を長い間隠し通し、事故がさらに起こる可能性のあることを承知しながらそれを社会的に明らかにしなかったわけですが、しかし、ここには、少なくとも一人、それを見過ごせず、内部告発をして明らかにしようとした人がいたようです。事実はそこから明らかになりました。

 上司からの指示、業務命令、違反した場合の不利益などがあろうとも、「まともな価値観」に従い、「私にとっては非道徳的なこと」を拒否する――それは戦場に限らず、社会的な生活を営む私たちすべてにとって、分かれ目となる点でしょう。

 「日の丸、君が代」強制への不服従宣言に参加しながら、私はこんなことを考えています。

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 ……市民はたとえ一瞬間であろうと、あるいはほんのひとかけらであろうと、自己の良心を立法者の手にゆだねなくてはならないものだろうか? それならば、なぜひとりひとりの人間に良心があるのだろう?

 私の考えでは、まず第一に人間でなくてはならず、しかるのちに統治される人間となるべきである。正義に対する尊敬心とおなじ程度に法律に対する尊敬心を育むことなど、望ましいことではない。私が当然ひき受けなくてはならない唯一の義務とは、いつ何どきでも、自分が正しいと考えるとおりに実行することである。団体には良心がない、とはよく言ったものだが、良心的なひとびとの団体ならば、良心をそなえた団体である。法律が、人間をわずかでも正義にみちびいたためしなど、一度だってありはしなかった。いや、法律を尊敬するあまり、善意のひとびとすら、毎日のように不正に手を染めざるを得ないのである。

                ヘンリー・デイヴィッド・ソロー『市民の反抗』(岩波文庫版)より

                          (よしかわ・ゆういち 市民の意見30の会・東京)