news-button.gif (992 バイト) 16 「失敗や不成功も含め、経験を伝える場をつくりたい」  

(『向い風・追い風』11号 1999/07/15発行 にのった原稿)

 

失敗や不成功も含め、経験を伝える場をつくりたい

 ――いまふりかえる私と安保・沖縄――

吉 川  勇 一

 

 「いまふりかえる私と安保・沖縄」これは大きすぎるテーマだ。私と安保とのかかわりの始まりは一九五一年九月にさかのぼる。大学生だったときの安保・講和両条約の調印に反対する運動だった。調印に対して十分な反対闘争を展開できなかったが、翌五二年四月二八日の両条約発効(沖縄の切り捨て)には、ストライキを行ない,学校当局が禁止した屋外集会とデモを強行した。私はそれで退学処分になった。それ以来のことだから,約50年をふりかえることになる。この紙面で到底できることではない。それに、こういうロートルが六〇年の安保闘争では三〇万人が国会を取り巻いた、七〇年の安保闘争は……だった、それに比して今は……などと、自分たちの失敗を棚に上げてぼやくのは、情けないし、みっともない。

 いずれにせよ、私の世代(私は一九三一年生まれ)は、頭の回転のスピードから見ても、体力から言っても、もう運動からは退かざるをえない時にきている。その今、このタイトルで考えてみると、まだ、一つだけやっておかなければならないことがあると思う。それは経験の継承という問題だ。約半世紀、この間にうまく成果をあげた運動もあれば、失敗もずいぶん重ねた。先日出した私の著書の中で、私は、大雑把に人生を振り返ってみると、失敗だったと言わざるを得ないが、しかし面白かった、と書いた(『いい人はガンになる』KSS出版)。だから、とても自慢できるようなものではないのだが、ただ、失敗は失敗として、その失敗や不成功の経験をどう残し、伝えたらいいのか、ということだ。時代が変わり、ものの考え方、受け止め方もずいぶん違ってきているのだから、昔の経験がそのまま役に立つはずはない。しかし、同じ過ちを何度も繰り返すのは実にもったいない話だと思う。

 つい先日の盗聴法反対の集会では、場内に入ろうとする革マル派とそれを阻止しようとする中核派との間でにらみ合いの事態がおこった。暴力沙汰にはならなかったものの、双方が撒いていたビラの主張などを見ると、三〇年前の繰り返しだ。私は、そのことについての感想をインターネット上の自分のホームページに掲載し、あわせて、「aml」という情報交換のメーリング・リストで知らせた。反応はかなりあり、アクセス数は一挙に増大している。もちろん、私の評価を否定する反論もあったが、それ以外に、内ゲバ、暴力、共闘などについての質問がずいぶん寄せられた。(その応答の一部はもう一つ別に開いている「旧べ平連」のホームページに載せて紹介してある。

 たとえば、こういう質問だ。「私の友人は、障害者福祉に関心があり、大学に入学後、手話サークルに入りました。ところが、そのサークルは過激派のサークルで、手話も授業もそこそこに過激派のビラ配りに毎日のように動員させられ、サークルから逃げ出すのも大変だったそうです。純粋な市民運動だと思って参加してこれでは、次に市民運動に参加しようという気力もわきません。どういう点を見て判断したらよいのか、もし良い基準があったら教えてください」

 かつて、七〇年代の初め、大学べ平連のメンバーが、その大学の内ゲバ派セクトの暴力に脅かされ、試験を受けることさえできず、退学せざるをえなかったことなどを思い出す。問題は解決しておらず、繰り返され、そして昔の経験も伝わっていないし、活かされてもいない。若い人びとのエネルギーが、こうした問題で萎縮させられてゆくのを見るのは、何ともやりきれない思いがする。

 先日来、コソボの事態と関連して、アメリカのZネットというホームページを見ることが多い。ここでは、ノーム・チョムスキーだの、ハワード・ジンだのといった、六〇年代の公民権闘争やベトナム反戦運動で活躍した今七〇歳代の知識人をはじめ、多くのすぐれた活動家が寄稿者グループとして登録され、時宜に応じてすぐれた分析の論文を掲載するほか、寄せられる質問にも丁寧に回答を発表している。データの蓄積もかなりのものだし、中には運動ですぐ使えるポスターやステッカーのカラー・デザインや反戦歌が集められているコーナーもあり、さすがだと思った。決して主張を押しつけるのではないが、求められる情報や質問には、即座に応じる一種の運動のシンクタンクだと言ってもいい。

 日本でも、こういう、信頼のおける反戦市民運動の情報蓄積、提供の場があったらと思う。こと、「旧べ平連運動」に関してだけは、一応、そういうものを私個人でつくったのだが、一人でやれることには限界がある。関心のある人びとが力を合わせてそういう場ができないだろうか。そうすれば、老人の思い出話でも繰り言でもない「いまふりかえる私と安保・沖縄」といった意見や経験が現在の運動の求めに応じながら、蓄積され、改善されて、ある役割を果たせるのではないだろうか。ご意見を求めたい。

(よしかわ ゆういち 市民の意見の意見30の会・東京)