globul1d.gif (92 バイト) 6 「君が代・日の丸」についての提案をめぐって(1999年8月〜11月) 

 「最近文献」の No.17 こういう宣言運動を始めませんか  「君が代」は歌わない、「日の丸」掲揚にも立たない という私の提案を載せましたが、それについて、弁護士の内田雅敏さんと、文芸評論家の栗原幸夫さんからご意見をいただきました。それぞれの方のご了解を得て、以下にご紹介しますが、ぜひ、ほかの方もご意見をお寄せください。 その後、埼玉大学の三輪隆さんから、ご意見をいただきました。
 なお、この宣言運動については、何度か検討が重ねられた結果、11月はじめに、26人の連名による「呼びかけ文」が発表されました。これについては、本ホームページの「市民運動」欄に掲載されていますので、ぜひご覧の上、ご賛同ください。


(掲載順は、新しいものが上になっています。)

3. 三輪 隆さんから (1999.8.14.)

初めてお便りします。8月1日付けの「歌わない・立たない」宣言運動の趣旨に賛成します。
栗原幸夫さんの懸念は、反対している人達の間に要らない分断を作りはしないかということのようです。私もこの点は十分に配慮すべきだろうと思います。しかし、この配慮をすることとデキル人から「立たない、歌わない」の運動を始めることとは必ずしも対立しないのではないかと思います。
私の関心は特に「嫌々ながらでも立ってしまう・歌ってしまう」しか対応のしようのない人達とどのように連帯しながら、公けの場面の文化的開放性と多元性そして公正さを実現するかにあります。
たまたま、同様の提案を弁護士さんたちが中心になっている団体に私もしましたので、とりあえず以下に再録してお送りします。

日本民主法律家協会 御中
君が代・日の丸ホットライン立ち上げの提案
1999年8月8日
三輪隆(埼玉大学)

理由:
法制化に反対する運動に加わるなかで、多くの人から「もし法制化されても反対し、抵抗しつづけたい。しかし、どんなことができるか。どうやって運動の連携をとっていけば良いのか分からない。何とかできないだろうか。」という声を聞きました。
おそらく、2000年3月の卒業式が学校教育現場での「定着」のヤマになると思います。ここでまともな反対運動が広がらなければ、これまでとは比べものならない社会的定着が実現してしまうでしょう。法制化反対運動に加わった人達を中心をして、8月15日の式典や即位10年式典を初めとするこの秋からの(2000年3月までの)次の局面で広い抵抗・反対運動をおこし、法制化されたけれど却って反対・意義申し立ては大きくなったという状況を作ることが大切だと思います。
しかし、どうやって反対運動を進めたら良いかについては、現在の刑事・行政法制の運用実態を知らない一般市民にはなかなか分かりづらいことがあります。「ご協力願います」「ご起立願います」「ご唱和願います」の呼び掛けに対して「踏み絵を踏ませるのか!そういう呼びかけ自体が思想良心の自由の侵害だ」と抗議できるのか。個人で買った日の丸を燃やしても構わないのか。君が代斉唱のときにブーイングをしても構わないのか。抗議の握り拳しを突き上げても良いのか。こうしたことは公務執行妨害罪にならないか。公の場所で日の丸・君が代を用いようとする主催者に、予め「違和感、抵抗感を持つ人がいるので十分な配慮をして欲しい」と申し入れるにはどうしたら良いか。現場での押し付けの証拠を取るにはどうしたら良いか。警察官による圧迫とどう闘うか、、、、等など。

提案:
「過労死110番」「セクハラ・ホットライン」などの弁護士を中心とした運動に学び、弁護士と研究者・運動ボランティアによる、電話&・or FAXによる相談ネットワークを期間を限ってたちあげる。

以上、まとまりの悪い文章ですが、ご検討いただければ幸いです。

(なお、これにつづいて、日本民主法律家協会発行「法と民主主義」 1999年8月号に載った三輪 隆さんの「歴史と憲法原則から法制化を考える」という文が転載されていましたが、長文なので、割愛させていただきます。 吉川) 


2. 栗原幸夫さんから (1999.8.1.)

 吉川勇一様
 昨日はご苦労様でした。さっそく『ニュース』とメールを拝見しました。私の感想
はつぎのとおりです。
 吉川さんの提案は、とくに現在という時点では「運動」的に慎重に検討する必要があると思いました。個人の原理として「日の丸、君が代」拒否の意志表示をすることに、もちろん私はなんの異論もありません。私個人のことを言えば、戦後50数年、ただの一度も立ち上がって「君が代」を歌ったこともなく、日の丸に敬礼したこともないので、個人原理としてこれらを拒否することをあらためて、ことさらに「宣言」するのは、なんとなく違和を感じますが、しかしそれはあくまでも個人的な問題ですから措きます。
 私が、ここはひとつ慎重に考えたいな、と思うのは、吉川さんの提案を運動化した場合、どういうことがおこるかという点です。「日の丸・君が代」に反対の人、法制化に反対の人、強制に反対の人、「君が代」はダサイから嫌だと思っている人はおそらく「国民」の半数はいると思います。しかし「個人宣言」に、このうちのどれくらいの人が参加するでしょうか。おそらく「反対」の人のうちでもごくごく少数でしかないだろうと思います。私や吉川さんのように、もうクビになる職場もなく、再就職先をさがすにはあまりに年をとりすぎた人間は気楽ですが、多くの人は、立ち上がってもだまって下を向いていたり、そそくさとその場を立ち去ったり、……それぞれの情況に応じた対応をするでしょう。そういう反対だがさまざまな事情で明確な行動をとれない圧倒的多数の人たちと、ある意味では気楽な「勇気ある人たち」とのあいだに、分断を生み出さないか。吉川さんの「『君が代』演奏に起立を求められて拒否できないようで、どうして戦争への参加を拒否できるだろう」という言葉に、私はそのような分断に通じる危険を感じます。「君が代」はそれらの人にとってはせいぜい2、3分の我慢ですが、戦争に引っ張られるのは命の問題です。次元が違います。そして「本当に」反対しているのはあのごく少数の「立たない人たち」だけなのだというようなことになれば、これは敵の思う壺でしょう。
 私は「立つ人」のなかに、理屈や政治意識からではなく、自分の感性や好みや倫理感からどうしても「日の丸・君が代」を容認できない人が多数いると思います。その人たちの大部分は、大声で叫んだり、人と違う目立つ行為をすることを好みません。ある意味ではまったく「内気」な人たちです。私は「日の丸・君が代」問題の解決は、この「内気」な人たちの力なしにはあり得ないと考えています。吉川さんの提案する「ちょっと勇気が要る」運動が、この人たちを勇気づけることになるのか、あるいは遠ざけることになるのか、そこらの見極めがとても重要になってくると思います。 
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栗原幸夫


1. 内田雅敏さんから (99. 7. 24.)

吉川勇一様

 「日の丸・君が代」不服従運動の提唱大賛成です。「日の丸・君が代」の強制は、「普通の国家」どころか「天皇の国家」へと戻るものですので我慢ができません。
 それで、私達法律家の役割もあると思うのですが、この不服従運動に連動させて、「日の丸・君が代」強制
110番みたいなものを作ったらどうかとも思われます。もちろん法律家だけでなく、宗教者、市民運動家達と相談しながら進めてみてはいかがでしょうか。
 昨日
(7/22or21)の朝日、天声人語に、秋田市の体協の会長が式典で「日の丸掲揚、君が代斉唱に座っていた人は出て行ってくれ」と言ったという記事を見て、血が逆流しました。このような際には「憲法第19条、思想及び両親の自由はこれを侵してはならない」と即座に抗議しなければならないと、思います。74日、「秩父宮」ラグビー場で、日韓選抜試合がありました際、(イギリス国歌を韓国国歌とまちがえて演奏したハプニングがありましたが)、君が代の演奏に対しては静かに座っているつもりでした(妻と一緒でしたので)。しかし、ちょっと離れたところで年配の男性が一人ポツンと座っているのを見て、これは彼を励まさねば、と思い、「『君が代』は憲法違反です」と叫びました(妻からは文句も言われませんでしたが)。今後は、強制なり、不埒な発言があったら、すかさず「憲法19条、思想及び良心の自由は――」と叫ぼうと思っています。
 同封の一文は、ずいぶん前に書いたものですが、流し読みくだされば幸いです。なお、原稿のものは『軍縮』
9月号に8月発表したものです。
(「君が代・日の丸」問題について、内田さんの文章のコピーが同封されていましたが、それは省略。吉川注)
 ではまた、お会いした際に
       四谷総合法律事務所           内田 雅敏

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