globul1d.gif (92 バイト) 5 カンボジア・ベトナム・中国紛争の評価をめぐる栗原幸夫さんとのやりとり (1979年4月〜5月)

ま え が き

「論争・批判」3 の井川一久さんとのやりとりと関連し、当時の私の考えを再検討するための材料の一つとして、かつて「日本アジア・アフリカ作家会議」が発行していた『週刊ポストカード』(編集長=吉岡忍さん)の上で、栗原幸夫さんと私との間で展開されかかった討論を再録します。ご承知のように、栗原さんは、文藝評論家、以前『読書新聞』の編集長もつとめ、また、日本アジア・アフリカ作家会議の事務局長の仕事もされました。べ平連時代は、いわゆる「内閣」の一員、脱走兵援助の機関「JATEC」の責任者でもありました。著書は『歴史の道標から』、『革命幻想――つい昨日の話』など多数。

栗原さんは、『週刊ポストカード』の1979年4月1日号の「A・A・Oh!」欄で、「まず口火切ります――中越・四つの独断』という文章を載せました。続いて4月29日号の同じ欄に「あれは社会主義か――素直な人への挑発」という文を載せました。前者は、「論争・批判」3 で紹介した1979年に私も参加して発表されたカンボジア・ベトナム・中国間紛争についての共同声明に対する批判でした。後者は、この声明参加者への批判なのか、あるいは『世界』に載った日高六郎さんの文に対する批判か、それとも、一般の世間の風潮へなのか、はっきりしませんが、こんど、確かめてみたいと思っています。あるいは、もしかすると、1979年3月号の『月刊プレイボーイ』誌に載った、私の文章(この欄の最後に掲載)への批判かもしれません。

私は、その年の4月末になって、この批判文を知り、5月13日号に「拝啓栗原幸夫様――文革の大切さは如何」という栗原さんの文に対する私の意見を載せました。

やりとりはこれで終ってしまい、あとが続きませんでしたので、討論とも言えない尻切れとんぼのものになってしまったのですが、しかし、かつてべ平連にかかわっていた者の間でも、この問題をめぐっては、意見の分岐があったことを示す資料として、それらの全文を、栗原さんの了承を得て再録します。栗原さんの文は私の手元になく、今度、お願いをして、栗原さんの物置から探し出して送ってもらったものです。お礼を申しあげます。

このやりとりについての、私の現在の意見は、井川一久さんとのやりとりとも関連して、今後このホームページに載せて行くつもりですが、少し時間を頂きたいと思います。いろいろ考えたり、勉強しなおしたりする必要がありますので……。(吉川勇一)

まず口火切ります――中越・四つの独断

栗原幸夫 (『週刊ポストカード』1979/4/1)

ベトナム・カンボジア・中国の戦争をめぐっていま必要なのは何者にも気兼ねしない自由な討論だと思う。そこでまず口火を切る。小田実。吉川勇一両兄に、愛をこめて。
 カンボジアについては依然として情報は少ない。しかしあそこで起こったこと、現列に起っていることを、理念からではなくはなく事実に即して研究することが出発点だと思われる。あれを「独自の社会主義の実験」として言えるのか。人民権力のないコミューンは虐殺の体制だ(人民寺院を見よ)。数百万の人間が殺されとすれば、救国民族統一戦線を支援したベトナム軍の行動は正しい。となれば中国のベトナム侵入は無条件で非難される。ごちゃごちゃみんな絡ませて、社会主義はどれも駄目、という立場を、私はとらない。
 第二、大国にたいし正義はつねに小国にあるという主張はいただけない。日米戦争で正義は日本にあったか。大東亜戦争肯定論になりますよ。
 第三、国家でなく人民を、というのは良いが、国家を国家たらしめているのも人民だ。人民は常に被害者とは限らない。
 第四、普遍的・超歴史的な「人間の立場」というようなものは存在しない。以上、まず問題の羅列から。さて、討論をはじめませんか?

あれは社会主義か――素直な人への挑発

栗原幸夫(『週刊ポストカード』1979/4/29)

皆さん何か錯覚してるんじゃないでしょうか――社会主義国同士か戦争をした。モウ社会主義は絶望だ! ガックリきました。イヤ舌がもつれる……。
 もちろん私はモノゴトを善玉・悪玉と割り切って涼しい顔をしていられる人たちより、こんなに素直に心情を吐露できる人の方が好きだ。私もそういう人たちの仲間だと思っている。しかし、キョーサン党が政権をとりさえすれば、もう社会主義になったと考えるのは、これは錯覚というものではないでしょうか。革命とほ権力の問題であるとレーニンさんは言いましたが、社会主義は社会経済構造の問題です。そして戦争の原因は権力者の恣意にではなく、経済構造にあるというのが、レーニンさんの理論でした。中国やベトナムは、はたして社会経済的に社会主義になってしまったと言えるでしょうか。
 もちろん彼らは帝国主義国ではありません。しかしもしかしたら、絶対主義あるいはフランス革命後のナポレオン時代と、同し歴史的位位置に彼らはいまいるのかも知れない。それは御承知のように戦争とナショナリズムの時代でした。
 私も戦争に反対です。戦争を無くしたいと熱望する者です。
 しかし絶対平和主義というのは無力なイデオロギーだと思います――これだけ挑発したのだから、誰か反論を。

 

拝啓栗原幸夫様――文革の大切さは如何

吉川勇一(『週刊ポストカード』1979/5/13)

4月1日号の本欄で“口火”を拝見したのは4月の末のことです。私はAA作家会議の会員でも『週刊ポストカード』の読者でもなかったし、またこの号の寄贈も受けていませんでした。本人が読んでいないことが明瞭(私はAAの会月名簿に載っていない)なところで、論争の口火を切られるのはいささか困ります。それに。小田、吉川がなんで論争の対象とされたのか、多くの読者には不明でしょう。関心のある方は、雑誌『世界』5月号の日高六郎氏の文章をお読み下されば、その背景がご理解いただけると思います。以上は中味に入る前にお断りすべき前提です。
 さて、以下箇条書き。
 第一。事実に即すこと大賛成。したがってカンボジアで「数百万人が虐殺された」という事実を、私は確認できない。かりにそうだとしても、べトナム軍がクメール民族の内政に介入することは正当化されえまい。それはカンボジアの問題である筈。
 第二。国家を国家たらしめているものも人民だ、とされる。それなら、“人民権力”といえども人民か変らなけれぱ虐殺の体制となるのでは?
 第三。社会主義が社会経済構造の問題とされますが、その限りでは、虐殺は防げないのでは。社会主義的人間変革、文化大革命の要素を加えるべきと思います。

(以上)

なお、そのあと、1982年になって、同『週刊ポストカード』12月1日号に、栗原さんは『ワガベトナム・カンボジア紀行』なる文章を載せらた。これは必ずしもこの問題の議論の続きとは言えない栗原さんの感想文だが、関連はあると思うので、それも掲載する。

わがべトナム・カンボジア紀行

栗原幸夫(『週刊ポストカード』1982/12/1)

一九六〇年代から七〇年代にかけて、私たちの関心の的だったベトナムはいまどうなっているのか。ベトナム人民のたたかいに熱い心をかよわせた反戦運動の参加者はいま何を考えているのか。AA作家会議執行委員会に出席のためベトナムとカンボジアを訪れた栗原氏に報告をお願いした。(編集部)

わがベトナム・カンボジア紀行  栗原幸夫

 クーロン・ホテルの食堂から目の前のサイゴン河を眺めながら、私たちは、月並みな言葉になってしまうが、やはり感慨無量であった。
 一九六五年の北爆以後、ゆっくりと、そしてある時点でとつぜん、燃えあがるようにひろがった日本のベトナム反戦運動のなかで、小田実も私も共にべ平連をやってきた仲間である。二人でそこに、そうやって坐っているだけで、言葉は無用だった。私たちのまわりを十八年の歳月が音をたてて流れる。
 しかし現実のホーチミン市(旧サイゴン)は、そんな私の回顧的な心情など吹きとばすほど騒然として活気にみちていた。道いっぱいにあふれて流れる自転車の群れ、その間をぬうように走りまわるモーターバイクに自動車。目ぬき通りの道ばたにならぶ無数の露店、闇タバコ売り。――それは一瞬、私に敗戦直後の闇市を思い出させた。

▼過酷な“戦後”を生さる

ベトナムはいま、まさに“戦後”なのである。一九七五年の解放当時、南ベトナムの状況は、失業者三〇〇万人以上、売春婦嫌・麻薬患者数十万人、暴力団数万人、結核患者一〇〇万人、性病患者者教十万人、文盲の人四〇〇万人――というものであった。それまで南の財政を支えていたアメリカの年間二〇億ドルに及ぶ経済援助は、もちろんない。祖国の解放・統一とは、このぼう大な負の遺産を引きうけることでもあったのである。
 「ヤミをやっている人間をつかまえたら、ホーチミン市には一人も人がいなくなりますよ」と、共産党のある中堅幹部は率直に語った。「生活は解放前よりも苦しくなりました。現在の困難は解放戦争中の困難よりもはるかに大きい。しかし私たちはあせって無理をしません。無理をすればかならず失敗します、民衆はだまっていませんからね」
 “ベトナム人民との連帯”という私たちの標語は、いまいったいどうなっているのだろうと、私自身をふりかえってみる。わが青春の……とはとうてい言えないにしても、馬齢を重ねたわが人生のうちの十年間をそのためについやしたベトナム反戦運動とは、いま、私にとって何なのかと考えてみる。旧大統領官邸、旧アメリカ大使館、チョロン地区、アンクワン寺……と、わが記憶のなかの“戦跡”を歩きながら、“私のなかのベトナム戦争”という小中陽太郎の言葉を思い出していた。べトナム人民のたたかいがつづいているのなら、私のたたかいもまだつづいているのだ、と。

▼ボルポトと椰子の木

カンボジアにはプノンペンにわずか二泊しただけである。何を見たというほどのものもない。見たとすれば、私は幻想を見たのだ。ポルポト体制下のカンボジアについては、十分な情報を私たちは持っている。血ぬられた拷問室を見ても、一万体近い骸骨が掘り出された処刑場の跡を見ても、ああ、あれだな、と私は思う。しかし、積みあげられた髑髏の山から転じた私の目に、死体の埋められた穴のところにだけ、八つ手のような植物が青々と繁っていて、その彼方に青空に向って椰子の木が二、三本立っていて、その向うに大きな河が光っている――そういう風景がとび込んでくる。ふりむくと見わたすかぎり一面の稲の青い波だ。その時、私の耳に殺される人びとの絶叫が地鳴りのようにきこえたのだ。なぜだ!と問いかけるように。
 プノンペンは中性子爆弾で生き物だけが消滅した街を思わせる。椰子の木だけがやたらに多い。ポルポトの植樹運動の名残りである。子供たちのために彼は椰子を植えた。遊びつかれた子供たちが、いつでもその実でのどをうるおせるようにと。なんと美しい夢か。しかし子供たちもまた大人と一緒に死んでしまったのだ。私の見たプノンペンは一つの幻想だ。その幻想を解く。なぜだ、という問いに答える。その努力を抜きにして、私はもはや共産主義についてひとこも語れない。

 (以上)

参考 「論争・批判 3」の井川さんとのやりとりの項に、私は、1979年1月18日号の『沖縄タイムス』などに載った「国境を超えるということ――インドシナの事態について――」(『共同通信』配信なので他の地方紙にも多数掲載された)という文を含む「国境を超える運動」という文(新村猛・松浦総三編『あえて言う――中国とソ連への直言』1979年3月刊)を再録しました。その『沖縄タイムス』の文の1年ほどあとで、ほぼ同趣旨の文を『月刊プレイボーイ』3月号に載せました。

 これは、「論争・批判 3」の資料として載せていなかったので、ここに再録します。

インドシナ半島の事態で思うこと

吉川勇一(もとべ平連事務局長)  (『月刊プレイボーイ』1979年3月号)

 最近のベトナムをめぐる状況は残念だとしかいいようがない。中国・ベトナムの紛争、ベトナム・カンボジアの紛争、そしてベトナム難民の大量流出、「大虐殺」噂、等々。解放後のさまざまな困難は予想はしていたものの、社会主義国間の武力衝突まで起こるとは思っていなかった。

べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)があった当時、私たちは米軍からの脱走兵を援助して、数十名を国外に脱出させたことがあった。その時、つくづく思い知らされたのは、国家という化け物がつくる“国境”という強大な力の存在だった。国境を物理的に越えることはできても、その両側の国ぐにの政治やら思わくやらに、私たちは絶えずぶつからざるをえなかった。社会主義国とて例外ではなかった。そして、ベトナムの勝利自体も、この国境というものを、具体的意味でも象徴的な意味でも超えることができていない。

もちろん、それが容易に実現される筈のものでないことは百も承知なのだが、それでも、今の紛争の中で、中国の側が戦争中の援助をあげて、ベトナムを恩知らず、とののしり、一方、ベトナムの方が「俺たちはお前たちのためにも血を流してやったのだ」と反論したなどということを聞くと、やはり、これはかなわん、いい加減にしてくれ、という気がしてくる。少なくとも、私たちベ平連がやった反戦市民運動の美学とは、何としても相容れないことは確かであ る。

事態にはよく判らぬ点が多く、判断は困難である。こういう時は仕方がない。私は、大きい国と小さい国の対立では、国力のより小さい方に言い分があるのだろうと考えることにしている。男と女の喧嘩でも、概して男の方が勝手すぎる場合が多い。

事態はひどく憂鬱なのだが、しかし実のところ、こうした思いも、私が20代はじめに体験したハンガリー事件に比べると、それほど大きな衝撃ではない。私たちは、割とさめて(「さめて」に傍点――吉川)いたのである。

べ平連の目的は(何年ぶりかでこれを書くのだが)、@アメリカはベトナムから手を引け!Aベトナムをベトナム人の手に!B日本政府は戦争に協力するな!の三つだった。私たちはこれを実現しようと、かなり懸命に力を尽した。職を追われた者、逮捕された者、有罪判決を受けた者、機動隊の暴行で重傷を負った者も数多い。それでも、私たちは、ベトナムという国にすべての思いを“入れ込む”ことをしなかったのだと思う。運動は「ベトナム人民のために」ではなく「私たち自身のため」のものだということが、運動の中で自覚されてきたからである。私たちはベトナム人民の勝利から、 ずい分多くのことを教えられ、援けられたのであって、こちらが彼らを援けたのではない、ということを知ったのである。

脱走兵援助が有名になったあと、べ平連の代表として作家の小田実と小中陽太郎のふたりが、北ベトナムから招待されたことが一度だけあった。その時彼らが案内されたハノイの革命博物館に脱走兵援助の時の写真が大きく飾られていた、という話を聞いた。それは嬉しい話ではあったが、またその時、それはいつからいつまで飾られているのかな?という気がしたことも確かだった。もし今でも飾られているのだったら、ベトナムの人たちには本当に悪いのだが、べ平連の活動が、特に北ベトナムの当事者からはそれほど評価されていないな、という感じが以前からあった。でも、ベトナム反戦運動が、彼らを“支援”するためではなく、私たち自身のためのものだと自覚してみれば、どうでもいいことであった。

だから、今の悲劇的事態をとらえて、反戦運動に加わった者の不明をあざ嗤ったりする者がいると、わかっちゃいないな、と思うし、憤りもする。私たちは目的の@とAは達成したが、Bだけはできなかった。日本政府が協力して南ベトナムのカイライ政権に戦車を送ろうとした時、相模原の米軍補給厰で戦車の前にねころんで逮捕された友人が、有罪の判決を受けて下獄したのは、つい半年ほど前のことだ。反戦運動に加わったという理由で、知り合いの米人が日本から強制追放されたのはつい2月ほど前のことだ。日本の中では、ベトナム反戦運動はまだ終っていないのである。

反戦運動を嗤う者がいたら、その暇にベトナム難民を大量に引取るよう、政府にデモでもかけたらよい。“単一民族”国家だなどという事実でもない理屈で政府は引受けをしぶっている。

「難民(亡命者)の地位に関する条約」にも、さらに国連総会で採択された「難民(亡命者)の地位に関する議定書」にも、この国は加入していないのである。

今、日本の国境は、具体的意味でも象徴的意味でも、三里塚の成田空港にあるように、私には思えている(もうひとつ、長崎県の大村収容所もそうだ)。この“国境”何とかつぶしたいな、そう考えながら、時ど]き、私は三里塚でのデモに加わっている。

(このあと、「吉川勇一氏略歴」が続いているが、省略)

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