globul1d.gif (92 バイト) 11 『論座』3月号の小論と関連ある議論について(3)――井上澄夫・ 「テロ」に見舞われるからイラク派兵反対、ということでいいのか?  (2004年4月1日掲載) 

「テロ」に見舞われるからイラク派兵反対、ということでいいのか?

井 上 澄 夫 

(戦争に協力しない!させない!練馬アクション、 沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック、 「自衛隊のイラク派遣と憲法改悪に反対し、戦争へ の非協力を宣言する意見広告」運動・事務局)

 「イラクは〈危険だから〉自衛隊は行くな、帰ってこい」という主張を私は批判している。(本通信第2期・その1を参照してほしい。)
 去る2月14日、輸送艦「おおすみ」が呉からクウェートに向けて出港するに当たり石破防衛庁長官が行なった訓辞に次のようなくだりがある。

〈世界のために、イラクの人々のために、そして日本のために、危険だからこそ自衛隊が行くのである。そのことを、私は否定いたしません。安全であれば自衛隊が行く必要はないのです。しかし自衛隊の持つ権限、そして能力、そして装備を持ってすればその危険を必ず回避できる。その活動を自衛隊が行うのは、それができる組織が日本国で自衛隊をおいてほかにないからであります。〉(2004年2月19日付『朝雲』〔自衛隊の準機関紙〕)

 つまり「危険だからこそ自衛隊が行く」のだが、装備(=武器)を持って行くのだから危険は「必ず回避できる」。武器で危険を回避しながら「助けを待ち望むサマワの市民」の要望に応え、「イラクの国民とともにイラクの復興のために汗を流す」のだというのだ。
 こういう主張を批判するには、イラク派兵の目的が「人道復興支援」であるという虚構を打ち砕くことが必要である。同じ訓辞で石破長官はこうのべている。

〈中東の地は、この日本国の石油の9割を供給する、そういう地域であるわけです。この地域がテロの温床になってしまったら、この日本の国民生活はどうなってしまうか。この日本の豊かさ、日本国民の幸せはどうなるのか。そのために日本は責任を果たさねばなりません。そしてそれができるのは日本国において自衛隊をおいてほかにないのであります。〉

 分かりやすい話である。石油の安定した供給を確保するために、日本政府は軍事力を行使するということだ。イラク派兵の目的は石油の確保であるが、資源の奪取を目的として他国に武装して乗り込むことは、言葉の真の意味において侵略である。これだけでイラク派兵に反対する根拠は十分だが、あえていささか問題を指摘すれば、石破長官(小泉首相も同じだが)は、日本経済はとてつもない石油の大量浪費によって成り立っているという現実には決して触れない。「石油の一滴は血の一滴」とかつて言われたが、その点では彼らにとって、戦前も戦後もないのである。

 石油の供給源が「テロの温床」になったら困るとすれば、武力で「テロ」を排除しなければならない。それゆえ「危険だからこそ自衛隊が行く」ということになる。だが考えてみよう。中東と呼ばれる地域に莫大な量の原油が存在しなかったとしたら、どうなるか。大日本帝国政府がインドネシアを侵略したのは、石油が欲しかったからである。小泉政権の論理によれば、中東に原油が存在しないなら、自衛隊は大量の原油が埋蔵されている別の地域に押し込むことになる。だから「人道復興支援」は、どこまでも隠れ蓑にすぎない。
 「『サマーワで自衛隊は歓迎されている』という虚構にすがって派兵は強行されている」とすでに記した(本通信第2期・その2)。だが、化けの皮はすぐはがれる。2カ月前、サマーワ市中心部の商店街に、アラビア語と日本語で「日本の友人に親愛のメッセージを」と記した自衛隊歓迎の横断幕が掲げられた。その事実は麗々しく報じられ、友好ムードの盛り上げに一役買ったが、横断幕を作った「日本友好協会」の中心人物アンマール・ホダル氏は、最近こう市民に尋ねられる機会が増えたという(2004年3月28日付『朝日新聞』) 〈彼らが軍隊の姿をしているのはなぜ?〉
 本年2月12日付『朝雲』の写真特集「宿営地造り、始動へ」に「サマワ市街の文房具店に立ち寄り、文具などを買い求める先遣隊の隊員。2月2日」と題する写真が載っている。自衛隊員は店の中をのぞいていて、後ろ姿。迷彩色の戦闘服の背に日の丸が貼り付けられ、同じく迷彩色のヘルメットをかぶっている。銃は見えないが当然携えているだろう。
 さて、世界のどの町でもいいのだが、こういう格好の「客」が突如店に現われたら、どう思われるだろう。写真には店主か店員とおぼしき人物が写っているが、その顔は緊張していて、むろん笑ってはいない。あたりまえだ。
 この特集には「オランダ軍兵士とともにサマワ市街地の状況を視察する佐藤先遣隊長ら自衛隊員。市内は平穏だが、警戒は怠らない。2月2日」と題する写真も載っている。日付から推測すると、文房具店を自衛隊員が訪れたのは、佐藤隊長らが視察中のことかもしれない。隊長を護衛する自衛隊員もオランダ軍兵士も銃を持っている。なんのことはない。これは視察に名を借りた日蘭共同の武装デモである。ここで アーミテージ米国務副長官の次の発言を想起するのは意味がある。

〈サマワの作業で最も気を配るべきことは安全確保です。陸自は部隊行動基準のなかに危害射撃を可能にする規定を盛り込んだはずで、歓迎すべきことです。〉(『文藝春秋』2004年3月号)

 ところで、冒頭引用した石破長官の訓辞に「自衛隊の持つ権限」という言葉がある。しかし、そもそもイラクで自衛隊はいかなる権限を有するのであるか。押し込み強盗の親玉である米国政府に請われて一味に加わった武装集団=自衛隊に、イラクの民衆がどのような権限を与えたというのだろう。イラクの人々は、自衛隊に市街地を武装して「視察」する権限を与えたのだろうか。

 最近スペインで起きたことを無条件に賛美する論調に私は違和感を持つ。スペインの民衆が超親米のアスナール政権を退陣させ、新政権が撤兵を実現するかまえであることは、むろん歓迎すべきことだ。「日本でも次の選挙で」という主張もよく分かる。しかし、ただただ「スペインに続け」か?
 スペインで再び燃え上がったといわれる反戦が、主として「テロリストに狙われるから撤兵すべき」という思いによるのだとしたら、大問題だ。ロンドンの3・20には数万人が参加したそうだが、デモを組織したアンドリュー・バーギン氏がこう語っている。

 〈9・11事件以後は、グローバルな規模で、対テロ戦という終わりなき戦いに入った。欧州市民の反戦意識を水面下で駆り立てているのは、テロが自分たちの身にも直接ふりかかることへの恐怖心だろう。〉(2004年3月26日付『朝日新聞』)


 そうだとすると、ヨーロッパの反戦は総じて「テロ」の被害者になりたくないという動機によって支えられていることになる。80年代初頭、ヨーロッパを覆った反核のうねりの根底にあったのは、同様に《恐怖心》だった。
 当時は冷戦が続いていた。国境を接する東西ヨーロッパにそれぞれ中距離核ミサイルが地上配備され、もし撃ち合いが始まればもう絶滅するしかないという恐怖心が、人々の立ち上がりの動機だった。ヨーロッパで中距離核ミサイルが撃ち合われるという事態は、米ソがICBM(大陸間弾道ミサイル)を撃ち合う最終戦争よりはるかに身近に感じられ、恐怖が人々をとらえた。
 その結果、米ソ間に中距離核戦力条約が結ばれ、すべての中距離核が廃棄された。その限りではヨーロッパの人々は悪夢から解放されたのだが、アジア・太平洋地域の核状況は変わらなかった。

 さて今回はどうか。「テロ」におびえてイラクからの撤兵を要求するだけで、問題が解決するだろうか。
 なにゆえに「テロ」が起きるのかという問題意識が、今こそ必要なのではないか。問題の根源に迫り、そこに自分自身がどうかかわっているのか、かかわらされているのかという真摯な探求、自己凝視(それは必然的に歴史の学び直しを要請する)が必要だ。自分は「テロ」が起きることに無関係であるのかどうかの自問が不可欠なのだ。
 「テロ」がこわいからイラクに手を出すな、撤兵せよという理屈は、単に、身に火の粉がふりかかることを避けるというに過ぎない。どの〈私〉も、世界−内−存在であるとともに、歴史−内−存在なのだ。同様にある他者の存在を無視した自己中心の保身に問題解決の糸口があるだろうか。

 しかし同様の論調は、実はすでにこの国にもみられる。反戦運動はなにより身の安全を基本に据えるべきであるというのである。このような論では、今や警察権力が私たちの社会生活を公然と侵犯しつつある政府の《テロ対策の強化》を批判できないだけでなく、「反テロ」の論理に容易に取り込まれてしまう。日本で「報復テロ」が起きるかもしれないから、イラクから撤兵せよと言うなら、自衛隊は早く戻って来て「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の脅威」にしっかり備えてくれということにもなりかねない。各種世論調査は「テロ」に不安を抱く人が大多数であることを示しているが、政府とマスメディアがこれだけ連日扇動すれば、それは当然のことだ。

 「報復テロ」を招くからイラク派兵には反対だが、「北朝鮮の脅威」には毅然として対処せよというのでは、有事関連7法案に反対する根拠を自ら放棄することになる。ひたすら身の「安全」を掲げる「反戦」は、被害者意識だけに依拠し、自らの加害性を棚上げして、現在進行中の「反テロ戦争」を根源的に批判する眼(まなこ)を失う。
 60年安保闘争で強調されたのは、安保条約が改定されれば「日本が戦争に巻き込まれる」ということだった。いわゆる「巻き込まれ論」だった。それは、新安保条約が米日共同の戦争を準備し、日本が再びアジアの近隣諸国に対して加害者になるという認識を欠いていた。70年安保闘争はそのような認識を育んだが、無惨な敗北により加害者意識は十分継承されないまま、日本は再び戦争に踏み込んでしまった。

 イラク派兵は侵略戦争に踏み込むことだから絶対に反対であり、有事関連7法案は「朝鮮有事」や「台湾有事」を想定した戦争法案だから、日本の民衆としてどうしても成立を阻止しなければならないということを鮮明に打ち出すべきである。
 イラクからの撤兵を要求するのなら、どんな論によろうとかまわないというわけにはいかない。身の「安全」確保のための「反戦」論が浮上するのは、おそらくは、ひたすら被害者意識に立脚すれば、「反戦」運動が広がりやすいと踏んでのことだろうが、そんなふうにウケセンを狙って立論すれば、簡単に足をすくわれる。「テロ」がこわいなら、なぜ「テロ対策」に協力しないのかと問われたとき、どう答えるのだろうか。
 日本はそもそもなぜ「テロ」に脅かされることになったのか、そこから事態を把握すべきである。イラクの人々は占領からの解放をめざして奮闘している。そこへ重武装の軍隊を派遣して人々を脅しつけている日本は、イラク民衆の敵なのだ。だからこそ、あり得る反撃を「テロ」と呼ぼうが呼ぶまいが、また好むと好まざるとにかかわらず、私たちは反撃される立場にあるのだ。
  
 私たちに求められているのは、ひたすら「テロ」におびえることではない。
 今なすべきことは、私たちが小泉政権の戦争政策をやめさせることによって、《私たちがイラク民衆の敵であることをやめる》ことだ。そこを自覚して、私たちはイラクからの撤兵を要求すべきである。  

(ゆったり反戦通信・第2期 その3  2004年3月29日 より転載)

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