(『世界』1979年5月号)

にもかかわらず……

――インドシナ動乱に想う――

日 高 六 郎

(原文には、かなり傍点のついた部分がありますが、以下の転載では、そこはゴシック太字に換えてあります。吉川注)

1

ベトナム社会主義共和国が、武力をもって民主カンボジア国に介入し、中華人民共和国が武力をもってベトナム社会主義共和国に介入してくる。そういうニュースがつたえられた直後、ひとつの声明が私のところへ送られてきた。それは、私の聞いたかぎりでは、小田実氏が起草し、吉川勇一氏が書きなおし、さらに数名の人々が参加してまとめあげたという。私はこの声明に署名をもとめられた。私は、その声明文の内容について、小異あるいは中異を感じながら、にもかかわらず、大同において賛成したので、署名者となった。若干の異見を十分に起草者に伝えなかったのは私の怠慢であって、それは私が陳謝すベきことがらである。
  私はここでいわば〈署名の社会学〉とでも言うべきことがらを、くわしく書いてみたいという誘惑にかられる。私自身、戦後数多くの声明文を書き、数多くの声明文に署名してきた。「とかく目高は群れたがる」というたいへん見事なひやかしのなかに、ある種の真実があることをはっきりと自覚しながら、にもかかわらず、私はそのことをしてきた。ふりかえってみて、私はすべての署名運動が見事に行なわれたとは思っていない。そこには、たしかに多くの問題があったし、そのことで署名運動の信用をおとしたこともあった。それは、自分で蒔いた種で、自分で刈りとるほかない。私は、より説得的な声明文を書き、よりひろい共感と支持を得たいという、平凡きわまることを考えてきただけである。
  この声明は、私の起草ではないけれども、起草者の発意については、私は十分信頼している。しかし残念ながら、それはそれほど広く人々に伝えられていないように聞く。私は、『世界』編集部のゆるしを得て、あえてその全文をここにかかげたいと思う。そして、そのあとで、私は、この声明についての感想というより、私のインドシナ動乱についての感想を述べたい。そのことのほうが、私の考えを読者に理解してもらうのに都合がよいと考えるからである。同時に、「声明」そのものから多くの人々によって自由な討論がまき起ることも、起草者の望むところだと信じているからである。

「声明

私たちは、最近のインドシナをめぐる情勢の推移を、深い憂慮をもってみまもってきた。個々の事実関係にはなお不分明な点があり、複雑な歴史的背景があるとはいえ、私たちがいだくつぎのような判断には、心ある人びとの共感をえられると期待している。私たちは、この憂慮と判断を国内および全世界の人びとに訴え、力をあわせて事態を打開する方向を切りひらきたいと思う。
  まず、カンボジアのポル・ポト政権は、独自な社会主義の建設を試みようとしたのであろう。しかし、社会主義の根本の一つをなすはずの民衆の自己権力、人民主権の理念が見失われ、それが抑圧の機構どなって人間の基本的権利を犯す結果を生んだ。
  しかし、一方ベトナムがカンボジアに兵器を送り、軍隊を派遣し、自己に有利な政権を樹立したりすることは許されない。それは人間の基本的権利の一つである自決権、この場合ならクメール民族の自決の権利をふみにじるものである。ことはあくまでもカンボジアの民衆の問題であって他国の武力干渉は正当化されない。
  また、中国が、ベトナムヘの「懲罰」を名目として、ベトナム領土に軍隊を侵入させ、軍事攻撃を加えたことは、同じく許されることではない。たとえ中国の声明どおり、その軍隊の早期撤退が実現したとしても、この侵入の事実と道義的責任がなくなるわけではない。
  こうした一連の過程で、最も被害を受けているのは、今主要な戦場となっているカンボジアとベトナムの一般民衆である。いや、民衆のみではなく、他国領土内に送りこまれ、戦闘に従事させられるべトナム、あるいは中国の兵士も同じである。そこでは、かつて兵士としてベトナム侵略に駆りたてられたアメリカ合州国の若者たちと同じく、生命をおびやかされるだけでなく、眼に見えぬ荒廃に内部をむしばまれてゆくことになるであろう。
  べトナムとカンボジア、中国とベトナム、そして、さらにその背景にあるソビエトと中国との対立、衝突――ここに見られるのは、社会主義を自認する諸国が、その根本の原理であるはずの普遍的な人間の解放、窮極的には国家の廃絶を前提としての人類の解放という大目標からはずれて、政策を国家エゴイズムに収斂させてしまっている姿である。そして現実に衝突が繰返されるなかで、第三次世界大戦の危機すら醸成されかかっていることを、多くの人びとは感じとった。こういう状態を私たちとしては黙過できない。
  私たちの立場はさまざまである。国籍、民族、伝統、宗教、主義主張にはそれぞれ違いがある。しかし、その相違をこえて、私たちは、ひとりひとりの人間があらゆる抑圧、差別、搾取を受けずに生きることを基本とし、国家をふくめて、いかなる制度もその目的実現のための手段にすぎないと考えてきた。とくに世界中の最も抑圧されている民衆が自らを解放し、自らの意志によって人間らしく生きること、すなわち、まず飢えから自由になり、他人の奴隷になることも他人を奴隷とすることもなく、自由、平等、自決の原理に立って生きること、これをものごとの基本としてきた。
  この立場から、私たちは、中国革命に共感を覚え、アメリカの侵略と戦うベトナム民衆の解放闘争に連帯し、あるいはまた自国を含め、さまざまな国での反抑圧、反差別、解放の闘いに参加し、あるいはそれを支持する行動をつづけてきた。
  今、私たちがひとしく憂えるのは、世界全体に広がる政治的退廃である。
  社会主義を自認する諸国が、世界で最も抑圧された民衆の生きる第三世界の解放にとって、大きな役割を果たしてきたことは事実である。私たちはそれを高く評価するが、それが今、これら諸国間の衝突抗争によって、大きな原理的、現実的危機にさらされていることも、否定しがたい事実である。
  それのみではない。かつてベトナムを武力で侵略し、国土を荒廃に帰させた国家や、それと協力した国ぐにが、その責任を棚上げにして、国際舞台の上で人権の代弁者のごとく振舞い、また、かつてこの侵略を支持し、ヘトナム反戦運動に敵対した勢カが、ベトナム難民問題や諸国間の衝突をとらえて、これら反戦運動の大義を中傷し、さらには、アメリカのベトナム侵略行為までも復権させようとしている有様は眼にあまるものがある。かくして、自由主義を自認する国ぐにには、第三世界にのしかかるその旧世界秩序の中に安住することで、自らを退廃させる。
  要するに、退廃は、社会主義、自由主義を自認する国ぐに、第三世界にわたって相互に連鎖反応をひき起こし、民衆一人ひとりの解放、自由、平等、人権という基本が忘れられ、蹂躙されてゆく。
  社会主義を自認する国ぐによ、その国家、人びとよ。無用な対立、抗争に一刻も早く終止符を打て。国家エゴイズムを超えた人類解放という普遍の大義に立て。それはあなたがたにとってだけ必要なことではない。第三世界の最も抑圧されたる民衆にとって必要なことである。
  第三世界の国家、人びとよ。おろかしい対立、抗争にまきこまれることなく、自らの足で立って解放をかちとれ。私たちはそれを心から期待する。それはあなたがたにとってだけ必要なことではない。社会主義、自由主義を自認する国ぐにの人間にとっても必要なことである。私たちは、私たちの立場から、できるかぎりの努力をしたいと思う。
  社会主義を信奉する諸国、第三世界の国家、人びとに対して、私たちがそうしたことを訴えるならば、私たちとしては、私たち自身の国家に対して、自由と平等の原理に立って、人権を基本にした政治をかたちづくることが急務だといっそう強く要求しなければならない。また人びとに対しては、そのためにともに努力しようと訴えねばならない。金大中氏の「原状回復」ひとつなしえない状況のなかで、他を論難することはできない。ベトナムにかかわって言えば、日本が「国際難民条約」を批准せず、ベトナム難民をひきとることなしに、自由の価値を説くことはできない。
  全世界の人びとよ、国境をこえて、ひとりひとりの人民のレベルで新しい連帯をかたちづくるための行動をおこすことが、今ほど必要な時はない。

一九七九年三月一六日」

この声明は三月一六日記者会見で発表された。署名参加著は、小田実、吉川勇一、福富節男その他五九名である。
  さてこの「声明」がつくられていくとき、多くの人々から、さまざまな見解が出されたと聞く。ときには激論さえもかわされたという。かつては、こうした激論が起れば、それこそタモトをわかつということもあった。しかし、署名に参加したものも、またしなかったものも、議論を大いに活発に行なったという。それは、多分、惰勢分析での認識の不一致よりも、いま私たちが日本で日本人としてなにを考え、なにをなすべきかということこそが根本問題だという共通理解があったからであるらしい。
  しかし、さまざまの見解が出たということは、簡単に言って事態のむずかしさを示している。「声明」の文章に、かなり多くの人々は「にもかかわらず」の但し書がいれたくなったのだろう。私もそのひとりだ。しかし、それは、現実の事態の進行そのものに、「にもかかわらず」の無数の連鎖が感じられるからだ。
  しかし、私はこの「にもかかわらず」こそ、私たちにいまあたえられた絶好の反省材料だと思う。その連鎖を追いかけていくと、もちろん第二次世界大戦後の歴史全体に延びていく。いや二〇世紀から一九世紀へ、あるいはそれ以前にさえも延びていく。そしていまそれについてなにかを書くとは、それ自体その人間の軽さを思わせるほどである。にもかかわらず、私は私の感想を、むしろその〈軽み〉において書いておきたい。「戦後左翼のすべてを根源的にしんかんさせる衝撃」といった書き出しで書くことで、かえって自分自身の自由な感想をゆがめたくないからである。

2

単純なことから話をはじめよう。毛沢東は偉大な革命家であった。にもかかわらず、彼に欠点があり、政策上のまちがいがあったかもしれない。日本軍国主義がアメリカに戦争をしかけたことは正しくなかった。にもかかわらず、アメリカ合州国の当時の対日政策のすベてが正しかったとはいえない……こうした視点は、ふつう相対主義的といわれる。私は、相対主義の視点を重要だと考えている。
  自分だけが絶対に正しいと主張する政治家、あるいは権力志向者は、それが保守的であれ、進歩的であれ、私には気になる。絶対の正義を主張するものの危険は、それが同時に力(肉体力や智力や財力やその他さまざまの力が予想できる)あるいは政治的権力をもあわせ持つことができる程度にしたがって、ますます怖ろしい。もしそうした力を持つ可能性のないものが絶対主義者となったとしても、それが彼自身の幸・不幸に関係があるかもしれないけれども、社会的加害者となることは少ない。たとえば胎児性水俣病患者は、自分自身絶対的被害者であることを主張する力さえ持たないことで、状況の不正を告発することができる。患着の存在は、当然彼の家族の重い負担になるが、患者は彼の家族にたいする加害者というべきではない。患者もろとも家族は被害者である。
  しかし相対主義とは視点を持たないことではなく、主張を持たないことではなく、行動しないことではない。私は、過去において、ベトナム戦争反対の運動に参加した。私は、相対主義の視点を持ちつつ、いや持っているからこそ、アメリカ政府によるベトナムヘの軍事介入は、正しくないと考えた。アメリカ政府は、国際法上の権利義務関係をタテにとって、自分の立場を正当化しようとした。いまその論点を考慮にいれても、私はアメリカがわに九〇%の非があったと考えている。多分私が一〇〇%と言わないことを意外とする人が多いだろうと思うが、それはレトリックの問題に近く、さして大問題ではない。つけ加えるならば、べトナム戦争はアメリカ人民と兵士にとっては、一〇〇%利益のない無意味な戦争であった。
  私は、しかし、アメリカの知識人と民衆のなかからベトナム反戦運動が盛りあがったことに感動した。多くの青年が徴兵を拒否したことに感動し、多くのアメリカ軍兵士が脱走して、多くの日本人たちに保護された事実にも感動した。なかには、大いに善良な日本人たちを手こずらせた脱走兵士たちもいたけれども、である。じつは私が東大闘争のあと大学をやめ、突然フランスヘ住居をうつしたことも、一部分、ベトナム戦争反対運動と全く無関係ではなかったということを、ここでつけ加えておいてもいいだろう。
  インドシナの今回の動乱にたいして、ベトナム戦争に反対したものはどう考えるかという質問が、あちらこちらで発せられているらしい。なかには、社会主義に絶望したとか、社会主義そのものが問われているとかと、悲しんだ人もいたらしい。私の考えでは、そういう人たちには、ベトナム戦争反対の運動に熱心でなかった人も多く含まれているのではあるまいかと邪推している。もしたいへんなまちがいを言っているのならば、どうかゆるしてほしい。とにもかくにも、一九七五年、ついに世界最強を誇るアメリカ軍はベトナム全土から撤退せざるをえなくなったのである。なんという勝利! なんという奇跡!
  私は、べトナムの社会主義化のために運動したのではない。一強国が一民族に戦争をしかけ、自分の意志をおしつけ、民衆を弾圧殺戮している事実に反対したまでだ。戦場はいったいどこだったというのか。ベトナムであったのか、カリフォルニア州であったのか。
  しかし当時、もしベトナムがほんとうに解放されたとき――じつは、そのころ私にはそうした見透しに強い自信を持てなかった――べトナムにどのような社会が作りだされるかということに関心を持っていないわけではなかった。
  べトナム戦争のさなか、私はパリで、南ベトナム民族解放戦線の代表部や、ハノイ政府の代表部を訪問したことがある。とくに前者は、パリ郊外の住宅地の、ふつうの中流階級程度の、二階建の邸をそのまま事務所に使用していた。並木路にかこまれた美しい環境だった。私が着く時間を待ちかまえているように、六十歳近い、実直そのものの門番風のべトナム人男性が門の外に出ていた。私はその心づかいに感動した。代表部の人々と話しあったとき、あのようなおだやかさ、謙虚さ、そして強い確信に接したことは、私の生涯にかつて無かったという実感を持った。それにくらべて、自分はなにをしているというのだろう?
  ハノイの代表部は、もう少し事務的に整った感じがあり、そこでの事務のはこびはややお役所的であるように感じた。しかしそこでも私は大きな感銘をうけた。
  その後多くの人々から、さまざまなエピソードを聞いた。そのうちひとつ私がなるほどと感じた話がある。ベトナムは世界各国の人々からの支援を求めていた。パリは、とくにそのための重要な拠点であったと思う。そして文字通り、世界中の知識人、政治家、技術者、民衆、運動家が支援活動に参加していた。。ベトナムの代表部は、誠実で役立つすべての支援をうけいれていた。あの激しい中ソ対立のなかでも、ベトナム解放戦争の大義のまえには、中国もソビエトもべトナムを見すてることはできなかった。中国やソビエトがベトナムを手先に使っているのではなく、ペトナムが中国やソビエトの支援を引きだしていた。しかし、支援は、民衆の次元に深く根をおろしていた。解放戦線の代表部では、ときにふれ、支援者たちを招待して、ささやかなパーティをひらくこともあったらしい。そこには文字通り、白い肌、黒い肌、黄色い肌、褐色の肌の人たちがあつまった。そしてそこには、自由主義者、保守主義者、クリスト教関係者、回教徒、社会民主主義者、共産主義者があつまった。そこには、フランス社会党や共産党の幹部たちとともに、トロツキストや毛沢東主義者や無政府主義者も出席していた。もし彼らが、誠実で効果的な支援活動をする人々であれば、そしてもし彼らがスパイや裏切り者でなければ、だれでもが迎えいれられた。そのおおらかさは、一九七〇年代のはじめのころの日本の旧左翼や新左翼の敵対的関係を知っているものには、驚くべきものがあった。
  私はこうした話を聞くにつれて、解放のベトナム人民の社会主義建設に、多様性をふくむ寛容な方向を期待することができるかもしれないと考えた。
  いま現実がどうなっているのか、それは私にはほとんどわからない。一説では、そうしたおおらかさが継承されていると聞く。他説では、中央集権主義がかなりきびしく進行していると聞く。かりに後者の傾向があらわれているとしても、あの大戦争のあと、しかも南北異質の社会を統合していくむずかしい事業のなかで、それもやむをえない一過程ではあるまいかとも思う。しかし、そうした期待や願望はまったく私情にすぎない。見事な社会主義社会をつくるか、つたない社会主義社会をつくるか、それはまさにベトナム人民とその政府の力量と知恵にかかっている。ベトナム戦争反対運動に参加したものは、そのことに関与する必要も資格もない。それは彼ら自身の問題である。これを、民族自決という。
  私は、べトナム戦争当時、ひとつの政治観を持った。リンカーンは、「人民の、人民による、人民のための政治」と言った。小学生でも知っているこの言葉の、それぞれの意味はなにか。その関連はなにか。かりに、「人民の」というのは、民主主義政治の原理そのものであるとしておこう(政治学者のあいだでも、説は統一されていないと聞く)。問題は「人民による」と「人民のために」の関係である。私は、教室で若い学生たちに、そのどちらをより重要であると考えるかと尋ねた。挙手させてみると、半々にわかれる。目的的には、政治は「人民のために」でなければならない。しかし、状況的過程的には、もし「人民による」と「人民のために」とのあいだにくいちがいが生じたとき、私は「人民による」を優先させると話した。啓蒙君主や心やさしい藩主たちもまた「人民のために」心をくだいたはずである。しかし、善政によって民主主義政治をつくることができるのか。私は極端なことさえも口にした。「独裁者による善政よりも、人民による悪政のほうがよろしい」。
  私は、ベトナムの土地からアメリカ軍隊が撤退したことを歓迎する。そのあと、どのような政治が行なわれようと、それはベトナム人民の責任である。アメリカ合州国を後見人とした南べトナム政府時代の〈善政〉のほうがましだといった考えかたは、ベトナム人民への侮辱である。私は、ホー・チ・ミンの「独立と自由ほど尊いものはない」という言葉を愛する。

3

しかしそのベトナムがいまや隣国カンボジアに武力をもって介入したのである。
  これまたべトナム人民の「民族自決権」であると言うことはまちがっている。なぜなら、他国他民族の政治に介入しないということが民族自決を主張するものが負うべき義務だから。そして、問題がそこまで発展した以上、当事者以外の他国の人民にもそのことについて発言する権利が生まれる。前述の「声明」はそのことを指摘した。そしてベトナム軍のカンボジア介入を批判した。同様に、中国軍がべトナム領内に介入したことを批判した。いずれも、民族自決への侵害であるという視点である。
  しかし私は、声明の判断の大筋に賛成であるにもかかわらず、もう少しの説明が必要ではあるまいか、と感じる。
  日本の革新政党のなかには、ベトナムはただカンボジアのポル・ポト政権の暴虐に反対するカンボジア民衆の解放闘争を支援しているだけであって、ベトナム軍のカンボジア「進入」の事実はないと主張して、一〇〇%べトナムを支持している意見がある。ましてやベトナム軍のカンボジア侵賂などとは、とんでもないデマだというのである。私はこの見解をとらない。私は、べトナム軍はかなり大部隊でカンボジア領内にはいっていると推測する。また同じくベトナム支持派は、民衆の「大虐殺」などポル・ポト政権は「暴虐」をふるいつづけてきたため、すぐにも崩壊すると予想していた。しかしそのゲリラ的抵抗は、依然として続いているようである。一説では、それはポル・ポト政権がたしかに一部民衆への人権侵害があったとしても、とにもかくにも貧農層の支持を得ているということと、カンボジア民衆のべトナムにたいする伝統的な敵対感情――カンボジアはべトナムによって支配され差別されつづけてきた歴史がある――のためだという。
  それにしても、なぜ被侵略の苦しみを長く味わってきたべトナムが、アメリカを追い出すや否や、今度は自分が「侵略者」の立場に進みでたのだろうか。その転換はあまりに早すぎる。
  アメリカ軍撤退後の統一ベトナムの内政にはたしかに問題が山横しているらしい。しかし私は内政の困難を対外緊張に転じたという解釈はあたっていないと思う。困難は目に見えて倍加するからだ。また農業不作に苦しみ、カンボジアの米をねらった強奪戦争という説も単純すぎると思う。また、日本の一部政党人が主張しているように、ポル・ポト政権の挑発説も信用しにくい。常識的に考えて、ベトナムはカンボジアにくらべて軍事的にはるかに強いからだ。ソ連の指令説も信用しにくい。中国が中ソ対立を意識しているほどに、ベトナムは意外に、ソ連への従属を甘受していないようである。また、ポル・ポト政権の暴虐を見かねて、義によってカンボジア民衆解放にのりだしたという説も説得的ではない。国家間で義侠心だけで動くと考えるのは単純すぎる。ただし以上のことがらは、おそらく少しずつからまっているかもしれない。私の想像では、最も重要な点は、べトナムには、ラオスとカンボジアをふくめた、インドシナ社会主義連邦とでもいうべきものの建設構想があったのではないかということである。よく指摘されるとおり、べトナムはいま〈社会主義建設〉に力点をおいているという。カンボジアは、むしろ国家の独立とか領土の保全を重要視しているという。もちろん、そのなかでカンボジア式の社会主義建設の発想がある。しかし、〈独立〉の問題を重く考えているのは、すでにべトナムのインドシナ社会主義連邦的構想への抵抗なのではあるまいか。周知のように、ベトナム民族は中国文化圏の南端に属しているし、カンボジアはヒンズー文化圏にはいっている。人種的相異もある。もちろん言語は、系統的に全くちがっている。そしてその過去の歴史には、ベトナムの優位と支配があり、民族差別感は民衆のなかにまで浸透している。カンボジア人にとっては、「インドシナ」という概念は存在しない。それはまさに植民地宗主国フランスが、ラオス、カンボジア、ベトナムの地域にもたらしたものである。それをタテにしてベトナムがインドシナ社会主義連邦的なものを作ろうという発想では、カンボジア人民には受けいれにくい。中ソ対立もあろうけれども、もっと根本的には、ベトナムの路線とカンボジアの路線とのあいだに深い民族的対立があったのではあるまいか。
  さて、私は、なにやらべトナム、カンポジア紛争の背景説明をしてきたようである。次には中越戦争について、というのがことの順序のようであるが、私はこれ以上専門家でもない一市井人の勝千な推測をくりひろげることは中止したい。私の書きたいことは、じつはそうしたところにはない。そうした推測の上に立って、私はさらに飛躍して、インドシナ動乱からうけた私の仮説を提出してみたいのである。
  第二次世界犬戦後の三四年間、日本は平和であった。いまその原囚を分析することはやめる。しかし、全世界を眺めてみると、そこには大小の国家間の戦争があり、大小の国家内の内戦があった。そのひとつひとつをひろい出してみると、ひとはこの三十数年間が決して〈平和〉な時代ではなかったことに気がつく。さらに、戦争にまでは到らない数多くの軍事介入があった。軍事的脅かしもあった。
  戦争あるいは軍事介入は資本主義国間にもあった。資本主義国と社会主義国とのあいだにもあった。そして社会主義国間にもあった。軍事介入は、資本主義国から社会主義国へ、資本主義国から資本主義国へ、社会主義国から資本主義国へ、社会主義国から社会主義国へと行なわれた。(いわゆる第三世界に属している非社会主義国は、いちおう資本主義国のカテゴリーのなかへいれておく)。
  さて敗戦直後、日本の「民主勢力」――「革新勢力」という概念は、ずっとおくれて登場する――は、冷戦下の世界を〈平和勢力〉と〈戦争勢力〉とに分類した。そこには日本共産党系の意見が強かった。その他に〈第三勢力〉を考えようとの意見もあったが、それはむしろ平和運動の主流とはみなされなかった。
  そのころ、戦争の原因はすべて帝国主義的資本主義国にあり、社会主義国は一切の戦争に反対し、自分から戦争をはじめることはないとされていた。それは、倫理道義の問題ではなく、社会体制の本質によるとされた。
  戦後の戦争のなかで、最も長く、最も激しく、最も残酷にたたかわれたのは、アメリカ軍によるベトナム侵略戦争である。この事実の重みを忘れてはならない。たしかにその時点でアメリ力合州国は帝国主義的な戦争勢力であった。
  しかし、平和勢力対戦争勢力論に立つものからすれは、意外なことが起った。まず中ソ対立である。それは、局部的戦闘まで引きおこした。またソ連軍によるハンガリーおよびチェコヘの介入事件も起った。そして、今回、ベトナムとカンボジアが戦い、中国とべトナムが戦った。それにつれて、ソビエト軍の中国領土への侵入も憂慮された。
  「科学的社会主義者」たちはこのことをどう説明するのか。
  いま世界には、将来共産主義国をめざそうとする社会主義国が十六ヶ国あるという。そういう国は今後さらに増えるだろう。社会民主主義国はさらに増えるだろう。
  私は、インドシナ動乱のニュースを聞いて、「はたして」とも、「またしても」とも感じた。私は、それを偶発的事件と片づけてはならないと思う。また私は、中国がソビエトを非難して、他国に軍事介入したり、覇権主義的行動をとるものは、もはや社会主義国と言うことはできないと言ったり、あるいは日本共産党が今回の中国のベトナム介入を非難して、中国はもはや社会主義国ではないとまで極言することに賛成できない。この議論を採用すれば、ソ連も中国も社会主義国のカテゴリーから脱落し、世界の社会主義国の数は減るだろう。減ってもかまわない。しかし、私はやはりソ連も中国も社会主義国であると考える。見事な社会主義国ではないかもしれないが、しかし問題のある社会主義国もまた社会主義国である。
  資本主義国あるいは資本主義体制には、戦争への動因がふくまれている。しかしそれと同じ性格の動因ではないが、社会主義国にもまた戦争への動因がある。それは、単純な資本主義的帝国主義的市場獲得の要求とはちがうかもしれない。しかしインドシナ動乱からもすぐに気がつくように、そこには、国境の問題、異人種多民族の問題、資源の問題、内政の困難と対外緊張との関係、そして指導部の判断力と決断過程の問題、指導部が持つ情報量の問題、人民が所有する情報量の問題、政治的威信の問題、勢力圏の問題、資本主義諸国からの圧力と謀賂の問題、そして社会主義建設路線問題、さらに中ソ対立の問題など、国家間緊張、あるいは国内緊張を強める要因はじつに多い。社会主義国という名称だけで、こうした現実の困難が解決できるはずはない。地理的に隣接した社会主義国間に戦争が起ったとしても、なんのふしぎもない。「科学的社会主義者」は、はっきりと社会主義国も自分から進んで侵略的軍事行動をとることがあるのだと、認識すべきではないのか。もしそうでなければ、今後も必ず起るにちがいない社会主義国間の衝突のたびごとに、悲嘆したり、絶望したりをくりかえすほかない。問題は、社会主義国間に戦争など起るはずはないという独断をすてることだ。しかしにもかかわらずそれは、社会主義そのものの総否定ではない。社会主義国間戦争の要因をとりのぞくためになにが必要であるかを検討することが先決だということにつきる。これが、私の第一の感想である。

4

第二の感想。それは現存の社会主義国とナショナリズムとの関係である。
  うそかまことか、その情報に私は確信はない。しかし、次のようなエピソードを聞いたとき、私は思ってもみなかったことを連想した。
  中国軍がベトナム国境をこえたとき、べトナム軍は頑強に抵抗した。中国軍は容易にその一線を突破できない。ついに中国軍は人海戦術的に、犬量の兵士たちをつぎつぎに投入し、やっとその線を突破した。
  この話をした人は、中国には人口がありあまっているからなあと冗談めいた感想をもらした。しかし、私はこの冗談に反撥した。
  中国軍が国境線をこえたことに私が批判を持つということは、くりかえしのべたとおりである。にもかかわらず、私は中国軍兵士の大半は、祖国のためにたたかっていると意識していたろうと思う。少なくとも、そのように、自分で自分を納得させていたろうと思う。逆に、ベトナム軍の兵士も、同じ種類の自覚と納得を持っていた、あるいは持たされていたにちがいない。だからこそ激戦になる。もちろん戦場のことだ。うしろに督戦隊もいたかもしれない。日本憲兵が逃亡兵士にどんなにか残酷であったように。しかし、かりにそれを予想してさえ、なお両軍兵士は、ある意味で自発的にたたかったと思う。
  私がなにを連想したか。日露戦争での旅順の二〇三高地の激戦をえがいた、桜井忠温著の「肉弾」である。
  若い読者には、聞いたこともない著者名であり書名であると思う。戦中派の私は読んだ。戦前の多くの日本人も読んだと思う。忠君愛国主義に燃えながら、しかも事実を語るなかで、戦争の悲惨が伝わってくる。戦争文学の名作だと思う。
  乃木将軍は一刻も早く二〇三高地を攻略したいとあせった。しかし、どんなに兵士をつぎこんでも、ただ死傷者がふえるだけである。肉弾につぐ肉弾、突撃につぐ突撃、決死隊につぐ決死隊。そしてついに一九〇四年(明治三七年)一二月五日、二〇三高地は陥落した。日本軍の死傷者約一万七〇〇○人。
  私は、日露戦争に反対した幸徳秋水、黒岩涙香、内村鑑三などに敬服する。しかし、中国の土地を勝手にふみにじりながらも、ロシア帝国と大日本帝国とのナショナリズムの衝突を防ぐすべはほとんとなかったろうと思う。また、私は、ロシアを是とし、日本を非とは考えない。そこには五分五分の主張があった。そして、戦争は国民に悲惨をもたらすが、当時国民はその悲惨を上廻るほどに、戦勝に熱狂した。
  私は、第二次世界大戦以前から反戦主義者であり、第二次世界大戦後もまた「絶対」平和主義著でありたいと考えて生きてきた。相対主義を尊重する私が「絶対」平和主義者であろうとする一種の自己矛盾の説明をすると長くなるので、それははぶきたい。一言いえば、私は、アメリカ軍隊の侵略をうけたベトナム人民が、非暴力的抵抗の道、つまり「絶対」平和主義的抵抗の方法をとらず、武器を持ってたたかったことを支持している。その意味で、私の「絶対」平和主義はすでに相対主義の視点を持っている。しかし、十五年戦争と八・一五を経験した日本人としては、そして今日の日本のおかれている諸状況のなかでは、私は理念的にも現実的にも「絶対」平和主義に立ちたい。それは日本の安全と平和を守る〈力〉ともなりうると考えている。
  そういう「絶対」平和主義者である私でさえも、インドシナ動乱を、ただ戦争の悲惨、兵士の被害という視点でとらえるだけでは不十分な気がするのである。声明では、このことを次のように述べる。「こうした一連の過程で、最も被害を受けているのは、今、主要な戦場となっているカンボジアとべトナムの一般民衆である。いや、民衆のみではなく、他国領土内に送りこまれ、戦闘に従事させられるベトナム、あるいは中国の兵士も同じである。」しかし、想像してみると、国家と兵士との関係は、中国のばあいもべトナムのばあいも、私たちの感覚とは少しちがうのではないか。そのちがうというとごろの事実認識を、私たちはもう少し深く考える必要があるのではないか。私たちが私たちの国家主義批判の視点こそ正しく、中国あるいはベトナムの兵士たちは、国家主義教育によって洗脳されているにすぎないと判断することは少し的はずれである。
  私自身は、狭隘な愛国心には関心がない。私は、国家という言葉も現実も嫌悪している。私は中国生まれで中国育ちだが、バレー・ボールで日本チームと中国チームが対戦するとき、中国チームに応援している自分に気がつく。これは、ひじょうに珍しい例のようである。若者たちに聞いてみてもみなおどろく。その私が、にもかかわらず、やはりまともな愛国心というものは存在するし、それは尊敬すべき感情であると考えることがある。
  私の考えでは、亡国の民の愛国心が最も真正である。植民地支配体制のなかで一世紀も生きてみたまえ、人は愛国心を全く忘れるか、熱烈な愛国者になるほかない。「国家は独立を求め、民族は解放を求め、人民は革命を求める」という言葉が、中国の憲法のなかにあったと記憶する。昨日まで、独立を失なった国家であり、抑圧をうけた民族であり、差別されつづけた人民であるという歴史があったからこそ、この言葉は美しい。いま日本の保守党幹部が、「国家は繁栄を求め、民族は伝統を愛し、人民は福祉を好む」と言ったとしたら、私は吐き気をもよおすだろう。
  国家が独立し、体制がととのえられ、法制が完備し、産業がおこり、教育が普及し、福祉が増進し……それらのことはすべてよいことのように見える。しかし、そのよいことが進行していくなかで、愛国心はますます純粋に真正に美しくなるかというと、どうもそうではない。それは、次第にいかがわしいものに変質していく。最後には、「愛国心は無頼漢の最後の避難所だ」ということになる。亡国の時代から独立してまだ間もない人民と、愛国心を無頼漢の避難所と考えている人間とが、〈国家〉と〈人民〉との関係について、共通の了解に到達することは、どんなにむずかしいことだろう。
  中国、ベトナム、あるいはカンボジアの指導者、人民、そして兵士にとって、社会主義建設へ注ぐエネルギーと、国境近くの戦闘に注ぐエネルギーとは、全く同じ源泉に発しているかもしれない。一方が存在しなければ、他方も存在しない。そうしたことを考えるとき、「声明」の論理が、どの程度の深さで、声明が呼びかける「全世界の人びと」、とくに、中国、ベトナム、カンボジアの人びとの心の底にとどくのか、私には不安がある。
  私は、インドシナ動乱にたいして、ある新左翼のセクトが、中国とべトナムの人民が連帯して、自国政府に反対することを呼びかけているのを読んだ。人民の解放という論理を純化すれば、そういうことになる。しかしその発想は「自由」主義体制の空気を吸いすぎた自称革命家たちの空想であるというほかない。
  毛沢東もこの種のことで予見をあやまったことがある。彼は抗日戦争の勝利を保証するものとして、三つのことをあげた。中国人民の団結、世界の民主勢力の支援、そして日本人民と日本軍兵士の反乱、である。最後の期待は実現しなかった。それを毛沢東のおろかさと言うべきか、日本人民の不甲斐なさと考えるか、それは読者の自由である。
  人民のパンと自由の問題は、理屈では解決できても、実際政治ではたいへんな難問である。「声明」の指摘のとおり、「まず飢えから自由になり、他人の奴隷になることもなく」が人民解放の基本である。しかし、だれしもがすぐ想像できるように、中国であれベトナムであれ、「飢えから自由になる」社会をつくることだけでも大事業である。その大事業は一人民の無制約的な自由の要求と矛盾することがある。
  私は、たとえば中国人民の自由の抑圧についての報道はやや誇張されていると考えている。もちろん、文化大革命に多くの行きすぎがあったことは否定できない。しかし、人民の敵とされた人たちが、最近また復活登場してきている事実はどう理解したらよいのか。スターリン治下の大粛清とはいくらかちがうと見るほうが公平ではないか。しかしそれにしても、人民の発言の自由は、あるいは事実を知る権利は、私たちよりも制限されている。
  とくに重要な一点がある。国内政治への批判は、それが表現できるにせよできないにせよ、日々の労働と生活のなかで、おのずから起ってくる。自分で体験しているからだ。しかし、外交国際関係について、あるいは自国の軍事的準備や軍事的行動について知ることは、相当にむずかしい。これはソビエトであれ、中国であれ、べトナムであれ、人民にとって同じ事情にあると思われる。
  しかし、考えてみれば、その点での私たち自身の人民的決定権はどの程度に存在しているのか。私たちには国際惰勢のニュースは相当にあたえられている。たとえば、中越国境にどれだけの軍隊が集まり、どこで戦闘が起こり、どちらが勝利を収めつつあるかを、世界で最初に知っているのは、アメリカのペンタゴンであることはまちがいない。人工衛星のカメラの目がとどくかぎり、太平洋の波の何メートル下かを動いているソビエトの原水力潜水艦の影だってとらえているかも知れない。つまり、たたかっている兵士よりも、あるいはひょっとしたらその当事国の政府首脳よりも、ましてやその人民よりも、もっとすばやく、アメリカあるいはソビエトは全情況をとらえている。そしてその情報のなかから発表してよい部分が、たちまちテレビ・ニュースとなって、世界の各家庭の茶の間に持ちこまれる。
  しかし、アメリカ政府自体がなんらかの重大な軍事的決定を下そうとするとき、アメリカ大統領はアメリカ人民に討議集会をひらく余裕をあたえるだろうか。ナンセンス! 有事立法や国家機密保護法のほしい日本の防衛庁長官は、はっきりとそのように断言するだろう。アメリカが核弾頭を発射するかどうかの最後の決定権をにぎっているのは、アメリカ大統領である。もし、アメリカ人民のひとりびとりに是か非かを押すボタンがあたえられ、過半数か、三分の二か、四分の三かの人民が賛成したら、核弾頭を発射してもよいという法律がつくられたとしたら! じつは、私自身は、一人のアメリカ大統領の意思にすべてがゆだねられているほうがより危険だと考えているものだが、多分、進歩的政治家や政治学者たちのなかにも、頭をかしげるものがいるかも知れない。話は冗談めくが、いったいこういう事態においては、資本主義国の人民も社会主義国の人民も、なんの発言権もないのが現状である。(もちろん、事前に、国際情況について討論しやすい雰囲気がどちらにより多くあるかと言えば、いわゆるいまのアメリカ合州国やヨーロッパの資本主義諸国、それにつづいて日本ということは、私も率直にみとめたい。その意味が決して小さくないということもみとめたい)。
  国家の軍事的決定に反対することは、いま世界のどこの国でもほとんど不可能である。あのベトナム反戦運動が盛んであったアメリカ合州国のばあいでも、脱走する兵士よりも脱走しない兵士の数のほうがはるかに多かった。それが愛国心によるだけではなく、懲罰のおそれや将来の私的利益のためであったとしても。
  私は、「声明」の基調に正しさをみとめながら、人民間のインターナショナリズムの力を過信して、事態が好転することを期待することの安易さを信じるのは危険だと思う。「国家エゴイズム」の力は強大である。国民は、その力に、強いられてではなく、白発的に、喜んで、奉仕する。しかもその自発性は、新興国家のばあいいっそう強い。
  私は「国家エゴイズム」にひきずられる国民を悲しいと思う。にもかかわらず国家は強い。国家に抗する人民の数は少なく、力弱い。そういう人民こそ、美しく正しいとしても。それが現実である。その現実から私たちは出発するほかない。

5

第三の感想。国家エゴイズムは、体制を間わず、あらゆる諸国間にうずまいている。しかしそれとは別に、いわゆる先進資本主義国と社会主義諸国との関係について、今後、とくに政治・経済・社会機構だけではなく、その文化、また指導者と人民を支配しているエトスにいたるまで、価値判断以前の事実認識が相互に求められていると思う。これはまことに平凡な提案である。そしてさらに、事実認識に基いた深い人間的理解と洞察が必要だと思う。理解と洞察は、もちろん相手がわのもつ価値の支持とか反対とかとは関係がない。
  そのためにいわゆる自由主義者のがわにも、マルクス主義者のがわにも要求したいことがある。いまはむしろ後者に求めたいことから書いてみたい。
  まず、現在の社会主義諸国に関するかぎり、マルクス主義のいわゆる歴史的発展段階説を適用することをやめるということである。私は、マルクス自身が考えたような、資本主義社会から社会主義社会へという発展の基本的法則にあたるような事態は、まだ世界では一度も起っていないと考えている。つまり資本主義が成熟の極に達して、必然的に社会主義体制へと移行していくという図式である。いまの先進資本主義諸国が社会主義体制へ移行したとき、はじめてその第一例が生まれる。ソビエトをふくめて、現在の十六の社会主義国の成立過程は、マルクス主義の古典的な歴史的発展段階論の実証としては、不適当である。
  むしろ、いまは、資本主義体制と社会主義体制とが並存していると見るほうがよい。歴史的継次というより、空間的並存である。二つの、相当にちがった国家あるいは社会が共存しているだけなのだ。
  「科学的社会主義者」でもない私が、それらの人々にそのような考慮を求めることは行きすぎたことだと思う。しかしあえていわせてもらうならば、資本主義から社会主義へ移行することは歴史の必然だとして、現存の社会主義をその実例として引きあいにだすことは、先進資本主義国における社会主義化の問題の妨げにこそなれ、利点にはならない。敗戦直後、おそらく八○%の日本の大学生たちは日本の未来の社会主義を信じ期待していたと思う。いま大学生の八○%は、日本の社会主義化を拒絶している。つまり、社会主義国が地球上に増加していったこの三十数年のあいだに、である。
  中国にせよ、ベトナムにせよ、その他ラオスやカンボジアにせよ、少しさかのぼってキューバにせよ、成熟しきった資本主義など皆無のなかから、社会主義国をつくり出した。いろいろ理屈をつけても、それは模範的なマルクス主義的発展段階論とは全く異質である。国家の独立、民族の解放、人民の革命。人民は革命を求めるというとき、私の耳には、中国人民が飢えからの解放を求めていた声がまず第一に聞えてくる。それは中国人民への侮辱ではない。十億の民を飢えから解放させることが人類史上の大事業でなくてなんだろう。しかし飢えからすでに解放され、肥満体となることを心配し、むしろそのことによって人間的想像力が貧寒になっている日本の若者たちが、飢えからの解放ということだけで社会主義の礼讃者にならなかったとしても、それも仕方がないことなのだ。
  スターリン批判、ハンガリー事件等々から中越戦争まで。日本のマルクス主義者の眉間のしわは深くなった。私はベトナム戦争によって、日本の多くの自由主義者の眉間のしわがそれほど深くならなかったことにくらべて、まだしもマルクス主義者の人間的誠実を感じている。しかし、私は、この期に及んでいまだに資本主義から社会主義への単純な図式に固執しているマルクス主義者の知的怠慢にたいしては、失望しないわけにいかない。
  スターリン批判以来、私が学生や若者たちに口ぐせに言ってきたことがある。「資本主義の腐敗はおそろしいほどに深い。しかしいまの社会主義国がユートピアであるなどと考えるのも幻想だ。私は、日本の未来社会を社会主義社会と名づけるかどうかにほとんど関心を持たない。いまよりましな未来社会が生まれたら、それをどう名づけようがどうでもいいではないか。そして、いままでの社会主義国がすでにユートピアを実現していたならば、いったい私たちはそれを真似する以外になにもないという、たいへん淋しいことになる。いまの社会主義国の達成したところを認識し洞察しながら(それはいまの資本主義国が達成した最良の部分を認識し洞察しながら、ということにも通じる)、同時にいまの社会主義社会の失敗や挫折や非人間的粛清やのすべてを直視しなければならない。そういう事態を阻止する方法はなにか、知恵はなにか。そのことが日本の若者たちの肩の上にある。創造のよろこびは小さくないはずだ。もし日本が、新しい未来社会のひとつの形を世界の人民に提出できたならば、日本人民としてこれ以上誇らしいことはあるまい。そのために、もし社会主義者であろうというものがここにいるのだったら、〈平等〉の問題だけではなく、それにもまして〈自由〉と〈友愛〉の問題を考えてほしい。フランス大革命の実質的実現を考えてほしい。
  私の考えはいまでも変っていない。だから、私は中越戦争が起ってもそれほどには動揺しない。
  日本の戦後史のなかで、とくにその初期の段階で、日本の左翼政党およびとくにマルクス主義者たちが、資本主義から社会主義へという歴史法則と、それにもとづいての価値の順位に固執して、あるときはソビエトを、あるときは中国をユートピア的に礼讃しつづけてきたことはまちがっていた。私自身相対主義的であろうと努力してきたつもりであるが、私にも反省すべきことはあったかもしれない。しかし、中越戦争のような事態が起ってさえ、なおベトナムの一〇〇%の正義、中国の一〇〇%の不正義を叫ぶ革新政党があることはどうしても納得できない。あえて引用する。『前衛』の四月号に、「中国・べトナム・カンボジア」という座談会がある。これはべトナム一辺倒の立場に立っている。そして中国政府の「華僑」政策を痛烈に批判している。私は、この批判の一部にあたっている面があるかとも考えているが、全面的には承服できない。しかしおどろくべきことが次に言われている。〈力を背景にした「ごろつきの論理」〉という見出し(「ごろつき」とはもちろん中国のことである)にもおどろくほかないが、そのあとで次のようなことが言われている。「日本では、一九六七年二月、三月に善隣会館事件という典型的な暴力事件がおこった。これは「文革」当時の中国の文献を見ても、”心は祖国、毛沢東に向いていた“(笑い)のですね」。当時、中華人民共和国支持の中国学生たちが、「心は祖国、毛沢東に向いていた」ことがどうして嘲笑すべきことなのか、私には全く理解できない。日本共産党が、「心は日本人民、日本共産党に向いている」とどこか外国で書いたとして、それを嘲笑する者がいたとしたら、私はその人間を軽蔑したい。あの不幸な善隣会館事件がこのような形でここで引用されるのはどうしてなのか。長く住みついていた中国人学生を日本警察の手をかりて追いだしたのは、いったいだれだったのか。そのとき、「チャンコロはかえれ」という罵声がとんだという。そのことを泣きながら私に訴えた若い日本共産党員を、私はいまでもおぼえている。共産主義者なら持つべきはずのインターナショナリズム、共産主義者なら感じつづけているはずの日中戦争についての歴史的反省。そうしたものはどこに行ったのか。そして、いま中越戦争にさいして、またこの不幸な事件が持ちだされる。ひどすぎると思う。
  ところで中越戦争以後、日本共産党の幹部の一部では、中国の核実験を肯定したことはまちがいではなかったろうかという意見が出ているといううわさを聞いた。かつてはソビエトヘの一〇〇%支持。中ソ対立のなかでは中国への一〇〇%支持。中印紛争では中国一〇〇%支持。日中両共産党の対立が起ると、べトナムヘの一〇〇%支持。そしていまかつての中国の核実験の評価の変更にまで波及しかねないと聞く。私は、ソビエトの核実験にも中国の核実験にも反対した。だからといって、私はいまになって日本共産党が中国の核実験反対の立場に変ったとしても、うれしい気持にはなれない。少くとも原水禁運動分裂の責任はどうするのだろう。なぜもう少し相対主義的視点が「科学的社会主義者」のなかから生まれないのか、ふしぎである。ただし、レトリックとしていえば、私のほうこそ、「絶対」的核兵器反対論者だときめつけられるかもしれない。私は、たとえば中国の核実験の背景については、一定の理解も洞察も持っていたつもりだ。そのことも発言したつもりだ。そこに私の相対主義がある。すでに私は私を「絶対」平和主義者のがわにおきたいと考えている論理をいくらか説明した。それと同じ意味で私は「絶対」的核兵器反対論者と言われても、その指摘を拒否しない。ただし日本共産党がほんとうに中越戦争を契機にして中国の核実験に反対しようと考えはじめているというのであれば、私はそれは相対的視点というより、便宜的視点と言ったほうがよいと思う。
  資本主義につづく社会主義という図式と、いまの中国を「ごろつき」とののしることと、どこでつながるのか。資本主義の成熟のなかから生まれなかった社会主義にかりに未熟、生硬の面があったとして、それをなぜ社会主義者は「ごろつき」とまでののしらなければならないのか。私は「科学的社会主義者」が未熟生硬の社会主義――そして、そのことは、彼らだけの責任ではないのだ――をユートピア的にえがくことをやめてほしいと思う。同じくべトナムだけが正しいという絶対主義をやめてほしいと思う。いままでの論理が日本共産党のイメージ・ダウンとなるだけなら、それは仕方がない。しかしそのことは、社会主義という理念そのものへのイメージ・ダウンになるだけではない。それは、人類に見事な未来社会などありうるはずはない、存在するのは国家と国家とのむきだしの力の格闘以外にないという、国家主義思想のイメージ・アップになるのである。そのことに、私は反対する。

6

私は、未熟生硬などと書いた。しかし私はそのことをただ歴史的条件として書いたのだ。
  私は、資本主義から社会主義へという時間系列に重きをおかず、資本主義圏と社会主義圏(その他さまざまの空間圏があることはいうまでもない)という空間領域として見ることをすすめた。しかし、ことわるまでもなく、人間社会の空間で、歴史の足跡をとどめていないところはない。
  資本主義社会あるいは自由主義社会に住むものには、つねに社会主義社会における自由が気になる。とくに言論、表現、報道、集会等の自由は、たしかに先進資本主義国のほうがゆたかであると思う。そこでデマの自由があり、あるいは思いがけないほどの表現や集会の不自由があるとしても。
  そしてそれらの自由は、自由が獲得されてきた歴史を背景としている。しかしそうした歴史を念頭にいれると、マルクス主義者たちとは逆に、自由主義者たちにとって、いまの社会主義諸国はおくれた国に見えてくる。つまり、社会主義国という全体主義国家がこれから次第に自由主義国家に進歩発展していくのが歴史の必然的法則であるかのように考える学者や知識人が存在する。
  いうまでもなく、いまの社会主義国は、建国のさい、世界の強国といわれる資本主義諸国の産業水準からはるかにおくれていた。しかし、ソ連は六十年の、東欧は三十数年の、中国も三十年の社会主義の歴史をもつ。産業水準の面では、アメリカや日本や西独におくれていても、他の面では注目すべき特質あるいは成果をそなえている。その側面の報道は、報道の自由な資本主義国でも必ずしも豊富ではない。
  私は、ときには、二つの文化圏のどちらに住みたいと考えるかは、ひとりびとりの個人的性格によってちがうのではあるまいか、と考える。
  ユーゴースラヴィアから、西ドイツやフランスに多くの労働者が出かせぎに出ている。クリスマスのころになると、多くの労働者が母国にもどってくる。お土産をかかえた労働者で、国際列車は一ぱいになる。彼らは、いまは先進資本主義国で働いでいるが、いくらか金をためたら、ユーゴに帰ることを望んでいる。もし社会主義国の生活が苦痛に満ちているのであれば、彼らはユーゴに帰らず、西欧に定住することを希望するだろう。それも不可能ではない。そしてたしかにそういう労働者もいる。しかし大半は祖国に帰っていく。
  社会心理学的な調査によると、次のようなことが傾向的にわかっている。ユーゴではとにかく生活ができる。医療の心配はない。老後の心配もない。子どもたちの教育費の心配もない。衣食住は、つつましいながら、まずまずである。それらのことは社会主義国に共通の保障である。たしかにその点では、金のないものにとっては、社会主義国で生活しているほうが安心である。もうひとつ、労働が過酷でない。怠けていても、なんとか大目にみられる。そこから社会主義国独特の官僚的非能率も生まれる。しかし、社会主義国の青年が西欧に出ていちばんこたえるのは、競争社会のきびしさ、はげしさである。能率のものさしが職場を支配している。それに耐え、人よりも働き、人をおしつけてでも上昇したいものにとっては、競争社会はおもしろい。しかし、のんびり働き、のんびり生きていくことを好むものは、社会主義社会が性(しょう)にあう。
  これは、「科学的マルクス主義者」のいう、社会主義社会の労働者は能率的で勤勉そのものという評価とは大分ちがう。生産性向上というだけでは、資本主義社会のほうが、どうやら優位にある。
  しかし、いまや資本主義社会のなかでも、能率主義中心の競争社会への批判がはじまっている。能率本位のものさしで社会主義社会の批判をしても、それは批判になるのか。競争社会でがんばりたい人間もいるだろう。おれはいやだよという人間もいるだろう。そうなると、その選択は個人の性格とも無関係ではない。
  さてこれは軽い話題である。自由について、もう少し深刻な話題を提供したい。
  ある日、メキシコ在住の音楽家黒沼ユリ子さんからおもしろい話を聞いた。ソビエトのあの悪評高いチェコ侵入の直前のことである。黒沼さんは長くチェコで音楽修業をしていて、チェコの事情に精通している。いわゆる「人間の顔をした社会主義」のドプチェク政権の自由化政策は、はじめ国民に喜ばれた。とくに西欧にあこがれを持つ青年たちや知識人に大いに歓迎された。そして国境出入の自由が大幅に緩和された。そのときどういうことが起ったか。オーストリーや西ドイツの市民たちが、自家用車でどっとチェコにはいってきた。そして、安い野菜、果物、とくに肉類を大量に買いしめ、帰って行く。西ドィツの青年たちは、「マルクで女を買おう」という合言葉で、チェコの若い女性と寝るために国境をこえてくる。物価がやすく、しかもヤミドルが幅をきくチェコで、女はおどろくほど安い値段で肉体を提供する。明らかに国民生活に大きな混乱が起りはじめた。
  だからと言って、ソビエトがチェコに軍事介入してきたことを黒沼さんは支持しているわけではない。しかし、〈自由化〉と口ではいうけれども、現実になにが起るか、いわゆる金だけがものをいう資本主義にとりかこまれているとき、社会主義国にとって事柄は決して単純ではない。
  外貨を獲得するために観光客に門戸を開放することは、東欧諸国の政策となっている。しかし、そこに秩序があり制限がある。それをさして、旅行の自由がないという言いかたはどんなものか。
  私は、数年まえ中国を訪れた。中国でも旅行者や観光客の受けいれは無制限ではない。そしてどこでもを歩くことはできない。そこに〈自由〉がないというのは、自由主義者の社会主義批判のひとつの根拠である。しかし私は考えた。もしいまの状況で、世界各国の青年に、あるいは日本の青年に、完金に中国旅行の自由をみとめたとしよう。彼らが、中国人と同じ値段で、食堂で食事をし、旅館にとまり、汽車にのり、バスにのり、旅行できるとしよう。いまの日中の貨幣価値をそのままとすれば、これほど安い旅行は考えられまい。そこでおそらく数十万、数百万の青年たちが好奇心にみちあふれて、中国を訪れるだろう。その旅行者たちは、カメラやテープ・レコーダーはもちろん、あらゆる「文明の利器」をもちこみ、中国民衆にみせびらかすだろう。そして、必ず、ひそかに売春もはじまるだろう。私は自由をこの上なく大切に考える人間だが、そのような自由を中国政府がみとめないからと言って中国を非難する気持にはなれない。
  そのような自由をみとめている国が日本の隣国にある。キーセンを買いに行くことは日本人にとって完全に自由である。しかしまたその隣の北の共和国では、そうした自由な旅行はゆるさない。韓国に旅行の自由があり、共和国に旅行の自由がないということで、共和国を非難できるか。しかしその韓国では、この『世界』という雑誌は店頭で売ることを禁止されているのである。
  中国で別れの夜、二週間行をともにした通訳の人たちと酒をのみながら談笑した。通訳が聞くには、「中国のよいところ、わるいところ、不十分なところ、みな皆さんは見たと思います。ところで資本主義のよいところはどこにありますか。」そのとき私たちのあいだで、一寸答えがとぎれた。羽田へ帰った夜、前田俊彦さんや吉川勇一さんなど、久しぶりで新宿のバーで酒を飲んだそうである。そのとき前田さんは膝をたたいて言ったという。「そう、資本主義には堕落する自由がある、とあのとき答えたらよかったのに!」
  私は、この前田老の言葉をあとで聞いて、そこに両面の真実があると感服した。中国から帰ってみると、日本はあまりに猥雑である。しかし、逆にいえば中国はあまりに清潔であった。私たちについていた二十三歳の男性通訳者は、私たちが性の話を持ちかけるたびに、処女のように顔を赤らめた。てれは日本の青年がとっくに失なった羞恥心である。私は彼に強い好意を持った。しかし同時に、前田老のいう「堕落する自由」が中国民衆のなかに、あるいはこの青年のなかに、もう少しあってもいいのではなかろうかと考えたこともある。戦争中、日本では自殺率は極端に低くなっている。いま日本では子どもたちの自殺率の増加が大きな問題となっている。同年齢層の自殺率の大きさは、もっと重大な問題である。自殺率の極端に低い戦時社会は不幸な社会だった。自殺することを考える余裕さえなかったのだ。自殺率の高くなったいまの日本も幸福な社会とはいえない。しかしある程度自殺するものが出ることはやむをえない現象である。ほどほどの自殺の自由があるのが、むしろ健全な社会なのかもしれない。同様にほどほどの堕落の自由があるほうが健康な社会であるのかもしれない。私が旅行していたときの中国に、そうした堕落の自由がなさすぎることに、私はかすかな不安を感じた。いま日本では、政府の最高責任者がどんな汚職でもできるほどに、堕落の自由が繁栄している。私は、そこにもまた強い不安を感じる。

7

二つの文化圏と考えてみようと私は提案した。しかしここにもまた別の微妙な配慮が必要である。
  いま日本では、〈公害〉問題がひとつの文明史的問題として意識されはじめている。人間と自然とのあいだの生態学的な循環。それはたしかに人類の未来を決定する大問題である。しかしこうした問題を第三世界の人々と話すとき、露骨な反撥があらわれる。その反感を彼らは、「われわれは〈公害〉を欲する」 We want pollution! と表現する。
  とてつもない石油エネルギーの消費大国がなにをいうか。もし技術的手段が限定されていて、今後石油の消費増加にともなう大気汚染を防ぐ方法がないと仮定しよう。公平な方法は、石油消費量を、国々の人口比で分配するということだろう。そうなれば、日本の石油消費量は、多分いまの何千分の一かになることは確実である。その覚悟をしないで、公害の危険を説くのならば、第三世界の人々が「ウイ・ウォント・ポリューシヨン」と叫ぶのは当然である。
  私は、ヨーロツパにおける近代国家成立以来の諸国間の戦争にまで目をひろげたい。それらの諸戦争と同質ではないが、しかし国家間の戦争にはきわめて似た力学が働く。ヨーロツパの多くの国々の戦争にさいして、自国の一〇〇%の正義を国民に宣伝しなかった国があったろうか。
  しかし、ヨーロツパでは、イギリスやフランスなどで民主主義的市民革命がおこった。いわゆる議会制民主主義が発達してくる。国民の自由も拡大してくる。それらは人類の貴重な遺産である。しかし、石油エネルギーではないけれども、大英帝国の民主主義と繁栄を支えたものが、七つの海に日の没することのない植民地からの収奪であったことも歴史的事実である。
  歴史は矛盾をはらむ。イギリスの民主主義は人類にとって一大進歩であった。にもかかわらず、それは植民地諸民衆の抑圧の上に成立した。にもかかわらず、そのイギリスの市民社会の自由の雰囲気のなかで、マルクスは大英博物館に通って、「資本論」を書きあげた。しかしその大英博物館には、たとえばエジプトから大英帝国がうばいとってきた見事な歴史的記念品がならべられている。それは、いつかはエジプト国民に返還されてしかるべきものではなかろうか。しかしにもかかわらず、イギリス国民の歴史的文化財を愛する熱意は、それらを現在まで完全に保存してきた……
  イギリスで発行されるタイムズやガーディアンなどの諸新聞が、あるいはパリで発行されるル・モンドが、世界の情報を比較的公平に報道していること、それはそれで評価してよい。しかし、だからといって、アジアの社会主義諸国の新聞の一面性を嘲笑するとすれば、それは傲慢であり、偽善である。中国やベトナムに言論・報道の自由がないという資格が、かつての植民地宗主国にあるのかないのか、学問・思想・良心の自由があると自任しているのならば、その自由をかりて、十分に研究すべきである。そして、ことはイギリスや7ランスの問題ではなく、とくに私たち日本自身の問題であることは、改めてここで指摘する必要さえない。
  おくれて登場してきた社会主義諸国の国内問題は、たしかに民族自決の事項に属している。しかし彼らが当面している諸困難の源泉をさぐると、彼らの植民地時代あるいは半植民地時代の後遺症にぶっつからざるをえない。帝国主義諸国の少くともいくばくかの責任は免れない。資本主義圏と社会主義圏とをふたつの文化圏と見たほうが賢明だと私が言ったことも、じつは、一方で「マルクス主義者」の社会主義の優位性という歴史理論、他方では「自由主義者」の共産主義的全体主義の蒙昧性という社会学に反対したいからであった。そのことは歴史論議としては、まさしくヨーロッパ市民社会のなかから生まれた市民的自由の光栄と残酷を同時に見ようということである。そのことを忘れるならば、二つの文化圏間の人間的理解と洞察の基盤は失われる。
  フランス大革命のあと、恐怖政治の時代がつづいた。にもかかわらず、七月十四日はいまだにフランス国民によって祝われている。解放のあと、ある種の非人間的反動の例があらわれることは、悲劇である。それは批判されてよい。しかし、そのことだけで、七月十四日を抹殺する必要はない。十一月十七日を、十月十日を、四月三十日を抹殺する必要はない。いや、抹殺してはならないのである。
  国境を侵犯する軍事介入に私は強く反対する。そして第二次大戦以後も、国境をこえる侵略戦争や軍事介入の数々があった。アメリカにはベトナム侵略戦争があった。ソビエトにはハンガリーやチェコヘの軍事介人があった。フランスには、アルジェリア戦争やインドシナ戦争があった。イギリスとフランスによるエジプト出兵があった。中印国境紛争もあった。しかし傾向としては、大国は目下のところ自制的となってきている。アメリカは、どこかの地域でもう一度ベトナム戦争を行なうつもりはあるまい。イランの変動にたいしても軍事介入をさけた。軍事力に自信がないからか。いや、私の考えでは、そうしたことが政治的にも経済的にも引きあわないことがわかってきたからだと思う。
  大国の直接行動の自制は、平和の問題について悪い材料ではない。しかし、私は、今後中小国家間での〈限定戦争〉はもっとヒン発すると思う。短期間で終了する限定戦争が起るということは、それが核戦争や世界大戦にみちびかないという意味では、一見人類にとっての脅威を低める。しかし、私はその背後に死の商人の臭気を強く感じる。中小新興国家間の紛争や戦争は、死の商人にとっては歓迎すべき機会である。彼らは、陰謀によって積極的にそうした機会を作りさえするだろう。その死の商人の背後に、先進的大国が存在している。
  国家エゴイズムの衝突を批判することも重要である。しかし、それによって利益を得る利潤獲得者は、彼ら自身武力を売るだけで直接使用しない。しかしそれで彼らは免罪されていいのか。こうした死の商人たちにこそ私たちの批判の焦点をあてる必要がある。そしていまさら、さて日本は、などとはもうこれ以上書くまい。日本財界の現在の大目標は武器輸出の全面解除である。この「署名」はそこを省略していると思う。
  今後中小国の国境紛争、あるいは軍事衝突のたびに、どちらが国境線をこえたかという一点だけをとらえ、一方に一〇〇%の不正義、他方に一〇〇%の正義をあたえるような行司的役割を果すだけでは不十分である。
  そうした「野蛮」を批判しているつもりでも、他方国際ニュースを世界中にばらまいている「自由主義的」情報機関が、ひょっとして死の商人たちの大きな謀略に乗ぜられているということも起りかねない。こうして、高見の見物者としての自由で上品な安楽椅子の紳士たちによって、戦争も限定的に管理され、世論も常識的に管理される。中小国は代理戦争をたたかっているのではない。それらの国々はそれぞれ自発的に真剣にたたかっている。ただそれによって利益を引きだす代理者がいるのである。戦争は、いまや政治の延長ではない。戦争は、まさに経済の延長である。この経済の日常性とたたかうことが、私たちの最大の課題である。国境紛争だけが平和の問題ではないのである。

8

さて私は最後に小さな感想を述べて、この長すぎた文章を終りにしたい。
  「声明」は直接に全世界の人々に呼びかけている。資本主義国、社会主義国、第三世界の人民に呼びかけている。
  しかし、社会主義国の人民にどう呼びかける方法があるというのか。十億の中国民衆にこの「声明」を手渡す方法があるのか。非合法的にこうした「声明」を持ちこむことがいいのか。
  具体的な方法はあるまい。私は私の経験にもとづいて、ただひとつの方法しか思いうかべることができない。
  一九七五年四月、私は安藤彦太郎団畏に従って中国を訪問した。私は三十数年ぶりに中国を訪れ、文字通り感慨無量であった。当時はもちろん文化大革命の時代である。いま公式の中国政府見解では――非公式あるいは実質的見解は別として――文革は、六分四分か、七分三分でよい結果をもたらしたとされている。私の現在の考えも、この中国政府の公式見解に近い。文化大革命に暗い影があったことは否定できない。しかしその継続革命の感想は、私の心に強く残っている。ただし私はここで文化大革命を論じるつもりはない。
  私たちは――中国のとくに日本研究関係者たちと――世界情勢についてくりかえし討論を行なった。意見は相当対立した。私たちは日米安保条約と自衛隊の危険性を強く指摘した。これについては、中国がわは内政問題だから日本人民が決めるべきことがらだ、しかしわれわれの考えでは、皆さんはソ連の危険を過小評価していると答えた。
  そのとき吉川勇一氏がおどろくほどきびしい批判を出した。フィリッピンのマルコス大統領は独裁者としてフィリッピンの民主主義を大弾圧している。ところが、中国を訪れたマルコス大統領夫人は、丁寧にあつかわれ、毛沢東主席もねんごろに夫人をもてなしたと聞く。これは行きすぎたもてなしではないか……その語気ははげしかった。私は胸の動悸が早くなることを感じた。とにかく私たちは招待をうけた客人である。そして批判の対象は文化大革命当時の毛沢東主席である。私には、ここまで主席批判を行なうことは、礼を失していると感じた。しかし吉川氏の議論にも一理はある。中国がわは、国家と国家の友交と、人民と人民の連帯は次元がちがうという公式的見解で答えた。
  私は議論の是非をここでとりあげたいのではない。おどろいたことには、中国がわの要人たち、日本語のたいへん上手な要人たちは、顔色ひとつ変えなかった。静かに吉川氏の議論に耳を傾けていた。反論するときにも、荒々しい声をあげなかった。それは礼儀としてそうしたというより、真剣に吉川氏の批判を聞き、真剣に吉川氏に答えるという態度であった。
  吉川勇一氏は一市井人である。相手は官職についている要人である。だから純粋に民間外交とはいえない。しかし雰囲気はまことに民間人的な話しあいに近かった。もちろん、私たちは公式見解しか聞かれなかった。相手がわが吉川氏のように自由に話す立場にないことは当然である。しかし相手がわは自由に話さなかったけれども、たしかに自由に聞いていた。吉川氏の勇気と中国人のふところの深さに、私は身体がふるえた。
  中国に行き、ベトナムに行き、茶坊主的お世辞を述べる日本人は多い。私たちは終始そうではなかったが、私たちへの信頼は日を追って深くなる感じがあった。最後の日、通訳は、「みなさんはほんとうに精神が自由で活気のある人たちでした」と語った。彼らの実感であったと思う。
  こうした誠実さと率直さで、日中人民あるいは日越人民のほんとうの友好は、ほんの少しでも進むのではあるまいか。これは私に可能と思われる方法の一例にすぎない。現地に長く滞在し、しかもこうした誠実さと率直さで中国人あるいはべトナム人と語りあえる民間的日本人が増えることも、大いによいことだろうと思う。
  中国十億の人民にそれは伝わるのかどうか。それは私にはわからない。しかし、私の予想では、私たちが想像する以上に、情報の流れは広く早いということがあると思う。
  「声明」は、国家エゴイズムと人民とをいくらか図式的に分離しすぎていると私は感じる。新興国では、そこには一体感があり、くりかえし述べたようにそれを一概に批判することはまちがいである。
  にもかかわらず、国家はあやまちを犯すことがあり、人民はあやまちとは知らず、自発的に国家の命令に従っていくことがある。そうしたときでさえ、一人の個人、あるいは少数の人々が、そのあやまちに気がっき、深くなやみ、そのなやみを表現するということはあるのだ。そのひとつの例をあげておきたい。
  パリに長く住む日本人画家田淵安一氏に「西欧人の原像」という著書がある(一九七六年、人文書院)。そのなかから引用しよう。

ポーランド、ソ連、ルーマニァ、ハンガリー、チェコの東欧側に、フランス、イタリイ、それに招待著側のユーゴなどの諸国から集まった三十人ちかい芸術家が、ここユーゴ領コルチュラ島の漁港ヴェラ・ルカでモザイクの共同制作をはじめたのは十日ほどまえのことだった。……みな裸になって、働き、泳ぎ、酒をのみ、議諭し、……この小島に時ならぬ平和共存の共同社会が出現した。共同制作の主題をきめるために初日の顔あわせをしたとき、ポーランドのカントールが叫んだ。われわれの主題は『自由勝手』でいこうぜと。『想像力に政権を』、五月のパリの学生たちは壁にそう書きのこした。社会主義に人間の顔を与えよう、こう夢みる『プラハの春』を、……僕はこの眼でみてきたところだった。パリやプラハの先頭旗手たちは想像力こそ古いヨーロッパを変革する原理なのだという希望に溢れ、コルチュラ島に集まったわれわれをつつんでいたのも、楽天的な熱っぽい雰囲気であった……」

ところが、そのとき、突如としてソ連軍のチェコ軍事占領のニュースがとびこんできたのだった。チェコのコチック夫人は、そのとき嗄れ声で呟いたという。
  「権力。権力。どんな理念も権力のまえでは、しょせん、ことぱでしかないのです」
  そのニュースがはいったとき、ソ連の画家ヴァシリエフもこの島にいた。彼はどうしたろうか。田淵氏は次のように書いている。
  「ソ連の画家ヴァシリエフがチェコの画家コチック夫妻の寝室の扉をたたいて、このことを知らせたのは今朝の五時だったという。涙をたたえたヴァシリエフは、わたしは自分の国を恥じると、固く手を握りしめながら語ったとコチックは僕に伝えた……」
  ニュースを先に聞いたヴァシリエフは、早朝、すぐさまチェコのコチック夫妻の寝ている部屋を訪れて、そのように語ったのである。その即座の行動はヴァシリエフの心の痛みそのものだったにちがいない。
  このエビソードになにをつけ加える必要があるだろう。国家エゴイズムをこのようにも敏感に批判する精神が存在するのである。
  しかし、ヴァシリエフの怒りと悲しみにどれだけの力があるかと問う人もいるだろう。私は、無力であることは無意味であるかと問いかえしたい。
  有効性を越えて、という言葉がある。まさしく有効性を越えることで、私たちには思いもかけなかった有効性が訪れるかもしれない。しかしかりに無効のまま忘れさられてしまっても、それを記憶する少数の人間は、私をふくめ、そしてこの文章を読んで下さった人々をふくめ、存在しているのである。
  私は、一九四八年「現代の争いと文学者の良心」という一文を書いた。それは東西の冷戦のさなか、「平和勢力と戦争勢力」論などが支配的な時代であった。私は、文学者がアンガージュせざるをえない政治について、あるいは文学者におしよせてくる政治について書いた。生硬な表現ではあるが、私は次のように書いた。

 「……それ故文学者にとっては、政治とは、現実に世界の地図をぬりわけている『二つの世界』のいずれかを支持するという形ではなくて、この二つの世界を貫いて、そのいずれにも根をはっている筈の、一切の習慣的因襲的なものに抵抗するという形において、採りあげられよう。しかもこの抵抗は文学の外側から文学に課せられた課題ではない。それは文学それ自身が文学に求めようとする要請にほかならない。」

三〇年たって、インドシナ動乱の「なぜ」と「またしても」と「はたして」の渦巻きのなかで、私は現実をより深く知り、そこからより深く学ぶためにこそ、相対主義的な「にもかかわらず」の重層をたどっていくことの大切さを知った。それは、私にとってはひとつの成熟であったといえる。しかし、そうした視点の原点はと問われるならば、私はだまって私のこの文章を提出したい。中国にも、ベトナムにも、カンボジアにも、ソビエトの画家ヴァシリエフのような人物が、いま現在必ず存在していると私は信じる。歴史は軽くは動かない。歴史は、人びとの心の底からの深い悲しみや憤りがかすかにつながっていくことで、少しずつ動いていくように思う。

(ひだか・ろくろう 京都精華短大教員)

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