57 60年ほど前の古い写真をご紹介します。 (2010年10月22日  掲載)   

 この春、慶應義塾大学の高草木光一教授の授業で、反安保闘争の話などを含めて、これまでの反戦運動についての話をしました。その報告がまとめられるので、それらと関連する古い写真を探しすることにしました。その中から、少し珍しい写真を3点ご紹介しておきます。

 以下は、その慶應義塾大学での授業の中の、写真に関連した部分の話の記録です。

 ……『サンデー毎日』1952年3月23日号に「三冊の警察手帳──“東大事件”論議の速記録から」という記事が掲載されています右の写真、 下は中央部分の拡大。この写真の下には、「警視庁予備隊の学園侵入に抗議する尾高教授(中央背広姿)右隣りの学生は吉川君」と写真説明がついてあります)。当時の「ポポロ事件」に関する記事です。「ポポロ」は大学内の学生劇団の名前で、イタリア語の「人民」に由来しています。大学のなかで劇団ポポロの上演があったときに、警視庁本富士署の私服刑事三人が観客のなかに入り込んでいた。以前から私服刑事が大学のなかで学生活動の状況を調べていたのです。学生運動の活動家たちが、いつかとっちめてやろうと身構えていたところに、まんまと私服が現れたというわけです。捕まえた刑事はそのまま帰しましたが、警察手帳三冊を取り上げました。
 その警察手帳を見たら、たいへんなメモだということがわかります。ある学生、たとえば吉川がいつ誰と蕎麦屋に入ってどんな話をしていたといった微細なことまで、全部手帳に書いてある。学生だけではありません。「キリスト者平和の会」の堀豊彦(
1899-1986)教授に関するレポートも手帳のなかにある。これは学問の自由に対する侵害だと考え、自治会が警察手帳の内容をプリントして配ったものですから、学内で大騒ぎになった。
 一方警察は、手帳強奪事件であると主張した。数日後に機動隊が大学のなかに入ってきて、たまたまそこにいた学生を引きずり倒して逮捕した。学生のほうはカンカンになって、大問題に発展します。
 国会では、衆議院でも参議院でも、文部委員会、法務委員会でこの問題を取り上げました。当時学長だった矢内原忠雄(
1893-1961)さんをはじめとする教授たちや、学生自治会の代表だった私や友人たちは、国会で証言することになります。『サンデー毎日』の記事はそのレポートです。
 そこにも掲載されている、私が衆議院で証言をしているときの写真を見ていただきます。
(左上の写真)
 当時、ふだんは詰襟の学生服を着ていましたが、このときは国会証言ということで背広を着ています。ところで、私の着ている洋服がちょっとおかしいと気がついたでしょうか。わかりますか?
 何がおかしいか。ポケットにペンが挟んであって、ペンのキャップが写っています。そのポケットが背広の自分の右側についている。ふつうは左側でしょう。何で右と
左が逆になっているのか。よく見ればボタンの位置も違うはずです。これは背広の裏側なんです。当時の私は背広をもっていないし、買う金もない。そこで父が昔使っていた擦り切れた背広を、母が表裏ひっくり返して縫い直して仕立ててくれた。だから、ボタンの右と左は逆になってしまうし、ポケットは右側に来てしまうわけです。
 いまだったら、何を着ているんだと眉を顰められるでしょうが、その頃は別にどうということはない。背広を裏返しにして新しく見せて着るのはふつうのことでした。……


 また、反安保闘争について話す中で、学生時代の反両条約へのデモのことも、以下のように少し話しました。 

   ……これ以前の1952年4月28日、大学生だった私は、「平和・安保両条約発効に抗議する」学生ストを提案し、学校の禁止した学内デモを指揮したということで、退学処分にされていたから……。

   このデモの時の写真が、毎日新聞社『新日本 原点の記録』(1970年刊)の中に載っていました(左下の写真)まさにこの日、1952428日の講和・安保両条約発効の日の東大内でのデモの写真で、前列左から、吉川勇一(学生帽、学生服です。当時、東大学生自治会中央委員会議長)、傳裕雄(都学連委員長、東大、のち「学研」の労働部長、中村久生(同書記長、東京学芸大)、妹尾(全学連副委員長、東京外国語大)、中島武敏(前東大学生自治会中央委員議長、のち、日本共産党の衆議院議員)で、珍しい並びのデモの写真でした。