75 6月に入りました。 (2012年06月07日  掲載)  

  6月と紫陽花 6月に入りました。今日は6月7日。連れあいの祐子が死んだのが2005年の6月7日でしたので、7年目ということになります。今年は梅雨に入ったとはまだ言われていないようですが、去年から生きているベランダの紫陽花の花はかなり膨らんできています。それとともに、かなり伸びてきていたサボテンにまで、初めて赤い花(?)を伸びて出してきました(右の写真)
 そこへ、見事に花を満開にしたきれいな大きな紫陽花の鉢
が2つ花屋さんから届きてきました。毎年、祐子の命日の前に送ってくださる知人からです(左の2枚)左のピンクの萼は八重咲き種の「メアリー」という名で、白い小さな萼の花は「山あじさい」という名だそうです。私は、青紫の色の紫陽花が好きなのですが、このピンクの萼の紫陽花も実にきれいで部屋が一気に明るくなりした。ありがとうございました。

 
鳩がついに巣をつくりました 前号の本欄74の「ベランダの鳩とカラスなど 」の中で、「糞で汚しています。平和のシンボルではあるのですが、ちょっと困ったものです」とを書きました。ところが、南の長いベランダの方ではないのですが、やはり南側のダイニングの部屋の狭いベランダの方に、小さな花鉢を並べておいたプラスチックの棚の下に、ついに鳩が巣を作り、なんと卵を産んだうえ、2匹の雛まで抱き始めたのです! (右の写真、その右側が2匹の雛) これには驚きました。急いで花の棚を元に戻し、もう鳩を驚かさぬよう、窓の中のカーテンを引いたままにしてあります。雛まで生んだのですから、もう、ぜひ育てもらいましょう。この写真を撮ってからすでに1週間は過ぎていますが、それ以後は見ていないので、雛がどうなっているかわかりません。しかし、親鳩はずっとこの花鉢の下に動かずにじっとしています。雛の上で暖めているのだと思います。新潟の朱鷺の雛も飛んだのですから、この鳩も続けてもらいたいものです。

 「十八年富士見会」の集まりなど 5月から6月にかけて、小学校や中学、高校(旧制)などのクラス会が毎年行なわれます。また、旧ベ平連などの知人たちの集まりも毎年、山梨県の忍野村でパーティが開かれます。なるべく私は参加するつもりで、今年もこれらの集まりに全部加わりました。旧ベ平連の集まりの方は、ガンに患ってしばらく参加できなかった人たちが2人も元気な顔を見せてくれて嬉しかったのですが、旧制浦和高校の文甲クラスの会では、毎年元気を見せていた友人が一人、昨年の秋になくなっていましたし、小学校の「十八年富士見会」(昭和18年に卒業した富士見小学校ですので、そういう名をつけています)のクラス会では、昨年は14人の参加だったのが、今年は10人参加で(左の写真)、この1年の間で3人の友人が死去していました。いずれも、来年も同じ時期に集まろうという話にはなったのですが、次第にメンバーが少しずつ減ってゆくのは、やむを得ないとは思いますが寂しいものです。

 第6回「原発はいらない西東京集会&デモ」  私の住んでいる西東京市では、昨年から何度も反原発の集会・デモを続けてきています。5月20日には第6回目のデモでした。私は5回までの行動には全部参加していたのですが、今回は先に述べた旧ベ平連の忍野村での集会に参加したために、残念ながら不参加になってしましました。今度のデモは、東伏見公園から三鷹駅近くまでという西東京市を超えて練馬、武蔵野市を通るコースでしたが、途中参加の方を合わせて約100名の方の参加をいただきたのことです。好天に恵まれたこともあり沿線・沿道のみなさんも手を振って応援、飛び入り参加してくださったり、小さいながらも楽しくデモを終えることができたそうです。5月21日に首相官邸に送った当日の集会アピールをPDFファイルで掲載しておきます。ここをクリックしてください。 次回の第7回のデモは8月に予定されています。改めてご紹介します。

 「伊勢藤」に行って来ました 前号で、「吉武輝子さんのお通夜 と『伊勢藤』」という文を載せました。そのあと、この「伊勢藤」に行きました。『市民の意見』の132号(2012年6月1日号)の拙文、「反戦交遊録G」には、亡くなられた吉武輝子さんと藤枝澪子さんのことを書きましたが、それと合わせて、伊勢藤のことも載せました。以下にその部分をご紹介しておきます。伊勢藤 - 外観写真:

 「…… 静かな酒店「伊勢藤」での話
 吉武さんの葬儀があった毘沙門天の正面、路地を入った奥に「伊勢藤」という古い風情のある飲み屋がある。昔、私が通った店だったので、前まで行ってみたのだ
が、昔のままで、あらためて行ってみたいなと思い、つい先日寄ってみた。
 以前は、「酒は静かに……」と牧水の色紙を飾り、うるさい客には、そろそろお酒はお仕舞いにしましょう、と主人が勧めるのも有名な静かな店だった。ベ平連の初期、事務所が神楽坂にあって、小田実さんや鶴見良行さんらと何度も通っており、参議院議員の宇都宮徳馬さんや、国際会議の外国代表たちを連れて行ったこともある。
 何でこんな酒場の話をするのかと言われそうだが、ベ平連が家賃を払って最初に借りた神楽坂上の事務所は、実はこの「伊勢藤」の主人が持つ8畳ほどの小屋だったのだ。「殺すな」の意見広告も、ここで運動は展開されたのだった。
 久しぶりに入った店の主人は
50歳代で、当時の人と違っていた。尋ねてみると、それでしたら父でしょう、5年前に80歳で死にましたということだった。「に事務所を借りたことがあるのだが……」と言ったら、たしか吉川さんという人がいたな、という名前まで出されてびっくりした。ベ平連運動についての拙著をあげたら、母はまだ元気ですから、とても嬉しく思うでしょう、と言われた。
 あらためて入った店は、古いとおりのいい店のままであった。」

 この文には書きませんでしたが、5時の開店にすぐ入ってから、いい気持ちで何本かお銚子を 頼んでいたため、支払いを済んで店を出たまではよかったのですが、そのあとは足がふらふらし、とても電車はダメと、タクシーで市民の意見30の会の事務局へ出かけました。7時から意見広告運動の事務局会議があったからです。事務所に入ったことは入ったのですが、もうすっかり酒がまわってしまい、とても会議などに参加などはできませんでした。他のメンバーは呆れ返って「吉川さんが酔っ払って事務所へ来るなんて、初めてのことだね、どうしたんです?」などと言われることになりました。
 30年近くまえに、この家からベ平連が事務所を借りていた頃、小さな子どもが毎日にのように事務所へ顔を出して遊んでいたのですが、実はその子どもが今の店の主人だったわけでした。一家はベ平連への支援の人たちだったのです。1年以上ほどこの事務所を借りた以後、大家さんは金が必要となってこの事務所を含む家を売らざるを得なくなり、ベ平連も転居する必要になりました。この頃の『ベ平連ニュース』には、こんな記事も載っています。
 ……大家さん夫婦は大変なベ平連ファンである。一年前、何十軒もの周旋屋を歩きまわったあげくに、ようやく今の事務所をみつけたとき、周旋屋は「ベ平連? さァて持ち主がなんていいますかね」と首をかしげたが、持主は「きみ、べ平連を知らないのか。ニューヨーク・タイムズ広告をのせた、ほら小田実や開高健がやっているところだ」といった調子で、即座に借りることができた。/ベ平連の人たちはみんな各々の仕事を持っている。だから人が集まってくるのは午後から夜にかけてである。ときには十二時ごろまで会議が続くときもある。しかし、大家さんは「大変ですね」と同情こそすれ、決して嫌な顔をしたことはない。わたしたちはこんないい大家さんから離れることはつらいが、気持よく「さよなら」できる日がまだ決まらないのが、また心苦しくもある。……(『ベ平連ニュース』第17号 1967年2月1日号より) 
 
という状況で、今の主人と話しながら、私は珍しく酔っ払ったわけでした。伊勢藤では、
灘の「白鷹」だけです。