61 満80歳になってしまいました (2011年03月11日  掲載)  

  (最初の執筆を始めたのは3月11日(金)でした。)あと3日で満80歳になってしまいます。時間がひどく早く進んでゆく感じをしています。厚生労働省は、日本人男性の平均寿命は79.59歳と発表していますので、それを越えたことになります。同省の昨年の簡易生命表(あと何年生きるかの平均長さ)ですと、80歳の男性は8.49年だとなっています。つまり、平均で、私はまだ8年半生きることになりそうです。いろいろ計算してみますと、そのくらいの長さですと、どうやら、経済的に可能らしいのですが、それ以上になると経済的に完全に破綻となりそうです。何としても、それ以前に連れ合いのところまで送ってもらいたいと思っています。
 満77歳の喜寿のとき、私は『民衆を信ぜず、民衆を信ずる』という拙著を発行してもらいました(第三書館)。今年は、傘寿の直前に、私だけの著書ではないのですが、新しい本『一九六〇年代 未来へつづく思想』 を出していただきました。2011年2月に岩波書店からの出版されたもので、慶應義塾大学の高草木光一さんの編集で、昨年初夏に同大学でありました原田正純さん、最首悟さん、山口幸夫さんとの授業の記録で、高木さんと他の3人の方との共著ということになります( 右上の写真)。A5版287ページで定価2,500円+税です。内容の目次は次の表のとおりです。


     目 次

  一九六〇年代から考える…………………‥………高草木光一
  T 一九六〇年代という時代
  U 一九四五年と一九六八年
  V 小田実の「市民」概念

 原水爆禁止運動からべ平連へ………………‥……吉川勇一
    はじめに
  T 原水爆禁止運動
  U 六〇年安保闘争
  V ベトナム戦争とベトナム反戦運動
  W 脱走兵援助運動、反軍・叛軍闘争
  X 市民運動の未来へ

 水俣と三池……………………………………………原田正純
  T 水俣病五〇年
  U 世界の水俣病
  V 三池炭塵爆発による一酸化炭素中毒
  W 歩いてきた路――水俣学へ

 東大闘争と学生運動…………………………………最首 悟
  T 一九六〇年代―― 「私」の収斂と発散
  U 所美都子のフェミニズムと全共闘
  V 助手共闘から「いのち学」 へ
   おわりに

 三里塚と脱原発運動…………………………………山口幸夫
   はじめに
  T ぷろじぇ――もう一つの道の模索
  U 三里塚闘争と高木仁三郎
  V ただの市民が戦車を止めた運動
  W 反原発から脱原発運動へ
   おわりに――「坂の上」志向の「知の構造」を問う

 あとがき(高草木光一)
  関連年表
  人名索引

 

  (つぎからは3月14日(月)からです。)
 
以上まで書いたところで、地震になり、執筆はストップしてしまいました。連続して書き出したのは3月14日、誕生日の当日になってからのことです。
 まず東日本大地震のことから ひどいですね。私自身、地震の大きさに驚いていたのですが、TVで見せられた東北地方などの地震、津波の画面に息をのみました。各地の、犠牲者、大きな被害を受けた方に、言葉も出ないような思いです。地震の原因自体はもちろん自然現象であり、誰かに責任があるわけではありません。しかし、被害を大きくさせたかどうか、救援を有効に出来るかどうか、今後の被災者が「最低限度の」ものにせよ「健康で文化的な」生活が出来るかどうかは、自然現象のことではなく、人間の行動に左右されるものです。原発の事故などは、まさに人災のものです。私たちがつくった「市民の意見30」では、その第1の項目で、「1 自然破壊はもう沢山。この社会を『核』のない社会にしよう。そのための手立てをつくそう。核兵器も原発も、核燃料再処理工場も要らない。再処理工場の建設はやめよ。非核原則の厳守。」としてあります。政府、各党、そして東電などの企業の責任は、眼を大きく開いて注目しておかねばなりません。 
 私の個人的被害 まず家族について言えば、私のすぐ下の実弟は、障害を持つ長男とともに福島県の楢葉町に暮らしてきました。第一、第二の両方の福島原発からの避難範囲内に住居があり、現在、いわき市の避難地に移って生活しています。千葉県の市川市に家族のいる別の自宅もあるのですが、今のところそこへの移動の安全な手段がないのです。それが一番心配です。たった今、2度目の「水素爆発」が起きて、多数の負傷者がでたと報じられたばかりです。
 私自身の被害もなくはありませんでした。私がいるのはマンションの5階の部屋ですが、地震の動きはかなり大きなものでした。しかし、ありがたいことに、身体的な負傷はまったくありませんでした。あえて言えば、血圧が最高レベルに上がっていたぐらいです。被害としては、3重になるスライド式の書棚が沢山おいてあるのですが、そのうちの3段がスライドから外れて飛び出し、うち一つは破壊して折れた棚などもありました。入っていた本は全部飛び出し、床を歩くことが出来なくなり、パソコンの周りがそれで、本に埋もれてパソコンを動けなくなりました。それよりも、まず、その倒れた書棚の前に私がいたとしたら、かなりの怪我を受けたはずです。とても重いものですから。そのほか、壁の時計が落ちてガラスが壊れ、北朝鮮で買った人形やインドネシアで買ったガルーダの木彫などが棚から落ちて、首が折れたり、背中が取れたりして壊れました。食器のどんぶりやお皿なども数十枚が粉々に壊れました。
 「バッカじゃなかろか!」 都心で車で行くなんで! まずは散らかった部屋の整理、掃除をすべきところなのですが、この日、午後6時に、飯田橋のそばに研究所を持っているデザイナーの鈴木一誌さんのところを訪ねる約束がありました。今年の5月の憲法記念日の反戦意見広告運動のレイアウトについて相談する集まりがあったのです。集まりはキャンセルになるのかもしれないとは考えたのですが、どこに電話をしてみてもまったく繋がらず、私は意見広告運動の責任者として、行かないわけにはならないなと思い、車で飯田橋まで行くことにしました。エレベーターもとまった5階から降りて、とにかく車で都心へ出ました。かなり車は込んでいましたが、どうやら6時少し過ぎに飯田橋の研究所に着けましたが、やはり、今日はキャンセルになったよ、誰も来ないよ、と鈴木さんから言われました。少し話をして、6時半に帰路につきました。それかが大変でした。都心から自宅の西東京市へゆくまで、経験のなかったような大渋滞でした。反対の都心へ向う方向の道も同じでした。5秒のろのろ走ると3分、5分と止まっているという状態です。1時間半たっても新宿を少し過ぎた程度です。どこかで夕食をとろうと思ったのですが、ドライブインのレストランはほとんど臨時休業になっており、スーパーやコンビニに寄ってみても、握り飯やサンドイッチなどもちろんなく、冷凍のスパゲッティとお湯を入れてつくるインスタントらーめんぐらいが少し残っているだけでした。
 それでも11時過ぎに自宅に着けたのは、いいほうだったようです。しかし、電話はやはりどこにも繋がらず、ガスもストップ、水と電気は動いて助かりました。ガスがないので入浴はダメだな、と思っていたのですが、ハッと気がついて、玄関横のガスのメーターの傍に確か強い地震のときに自動的にストップするスイッチがあったのではないか、と思ったのは、午前3時のことでした。懐中電気で探してみると、このスイッチを見つけ、押し込んでみたらチャンとガスが出てくるじゃないですか! 入浴から出たのは午前4時でした。それからTV。眼を離せなくなりました。就寝したのは午前6時でした。
 翌日以後、電話が利用できるようになってから、弟妹や友人などにこの日のことを話しましたが、無事はよかったねとは言われましたが、車で都心へ出かけた話は誰も同情してくれず、みな「バッカじゃなかろうか!」と言われたのでした。マ、私自身も、やはりバカだったのだろうな、と思うのですから、しょうがありません。
 友人が助けに来てくれた 翌土曜日、知人の原田隆二さんが食物を抱えて来てくれました。そして、部屋に散らかった大変な本をかき集め、壁前にとにかく積んでくれました。どうやら仕事場の部屋も歩くことが出来るようになりました。さらに、日曜日には、別の知人が来て、壊れたスライドブック棚を修理し、もとに嵌め入れて、なんと、完全に元同様に動くように直してくれました。これはありがたいことでした。使えない本棚になっていたら、かなり多くの本を処分せざるを得なかったでしょう。まだ棚に並ぶことは出来ていませんが、これからボチボチ並びながら自分で入れてゆくよりしようがありません。
 そして、このパソコンも動かすことが出来るようになりました。メールも覗いてみましたが、3日半だけ開かなかっただけでしたのに、三つあるアドレスに溜まったメールは、なんと500通ほどでした(もっとも、大部分はSPAMなのですが……)。
 80歳になってしまいました 昨日は、夕刻、理髪店へ寄って髪を揃えてもらい(少しはあるのですよ)、そして本日、こうしてついに満80歳になってしまいました。今朝は「輪番停電」とかで、私のちいきでは朝の6時から電気は止まることになっていた。だから、寝るまでに、ありとあらゆる鍋に水を張っておき、懐中電気や電池ラジオの準備もしていたのですが、停電にはなっていなかった。なんにせよ、80歳の誕生日の日は、えらく異常な日のことだった。動いた電車のダイヤルは、普段の2割ぐらいで、ニュースによれば、あちこちの駅は大混乱とのことだった。
 午前中には、同じ市にある主治医の医院へ行き、定例検診をしてもらい、高血圧薬などを処方してもらいました。あとは、TVの、福島原発の二度目の水素爆発や負傷者多数のニュースを眺めながら、こうしてパソコンの前に坐っているのです。