2. 『ニュース』の内容の自慢のこと、徹夜の作業がつづいてしまったこと、高畠さんのお別れ会に行かれなかったことなど。 (2004年8月1日記)

今度の『市民の意見30の会・東京ニュース』の表紙はカラー印刷

 私が参加している「市民の意見30の会・東京」の機関誌『市民の意見30の会・東京ニュース』の編集を引き受けています。最新号、No.85は、7月30日に印刷が完了、その日のうちに発送作業が行なわれました。遅くも、明日月曜(2日)には、会員の皆さんのところに届くことと思います。今度の号は、「市民の意見30の会・東京」のホームページの「ニュースから(2)」欄の目次でお分かりのように、内容は非常に充実しているものといささか自負しています。イラク戦争の問題や憲法改悪阻止の運動の問題などについて、巻頭の5ページにわたる小林直樹さんの論文や、古川純さん、花崎皋平さんの論文はぜひ読んでいただきたいものだと思いますし、また、イラクでの日本人ジャーナリストの殺害、イラクやパレスチナでの自爆テロなど、非戦闘員の一般市民を 犠牲にするような抵抗闘争の手段に対し、私たち日本の反戦運動に参加するものとして、抗議や批判ができるかという問題をめぐる、青柳行信さんと国富建治さんの問題提起も、ぜひ、考えてほしい問題です。
 今度の号の封筒を開けた読者の方は、まず、表紙に驚かれただろうと思います。なんと、右の写真のようにカラー印刷なのです。表紙の絵は、切り絵作家の金子静枝さんの作品です。東京は連日猛暑。せめて、ブーゲンビリアの花棚がつくる木陰のそよ風を味わっていただきたいと、印刷費は当然高くなるものの、エイッという思いで印刷所にカラー原稿を送ってしまいました。

谷川俊太郎さんの新作反戦詩掲載

 もう一つ、今度の号で今までになかったこととしては、詩が載っているのです。それも、なんと、谷川俊太郎さんが、この『ニュース』のためにとくに書いてくださったイラク反戦の詩なのです! 
 谷川さんの反戦の歌で有名なのは、『死んだ男の残したものは』でしょう。ベ平連のホームページの1999年の「ニュース」欄に次のような記事が出ています。


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谷川俊太郎作詞・武満徹作曲の『死んだ男の残したものは』の発表は65年4月の市民集会で(99/09/05

 「死んだ男の残したものは  こわれた銃とゆがんだ地球,ほかには何も残せなかった 平和ひとつ残せなかった……」 今でも時々、中年以上の人が、つぶやくように歌っているのを聞くことがあります。熾烈化するベトナム戦争のさなか、1965年の4月に谷川俊太郎作詞、武満徹作曲でつくられた反戦歌です。

 かくれたファンは結構いるようですが、この歌がどうして作られ、どこで発表されたかはあまり知られていません。

 8月末、日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』のテレビ・ラジオ欄に連載されていた長田暁二さんの「八月のうた 平和のうた U」で、これがとりあげられ、次のような事情が明らかにされています。

「…… 現代日本を代表し、世界の作曲界の一翼を担った武満徹(一九三○〜九六年)のところに、詩人の谷川俊太郎(一九三一年〜)がこの詩を持ってきて「明日の市民集会のために曲をつけてほしい」と頼み、その日の晩にできた曲です。武満はこれを「メッセージソングのように気張って歌わず、『愛染かつら』を歌うような気持で歌って欲しい」という手紙を添えて関係者に渡したといいます。一九六五年(昭和四十年)四月二十二日、お茶の水の全電通会館ホールでおこなわれた「ベトナム平和を願う市民の集会」で、バリトンの友竹正則の歌で発表された静かな反戦歌です。

 この歌は、井上陽水夫人の石川セリが九五年にコロムビアから発売した CDアルバム「SERI〜TORU TAKEMITU POP SONGS」の中や、九七年にフォーライフからリリースされたフォークの小室等のCDアルバム「武満徹ソングブック」の中にも収録されています。……」

 この1965年4月22日の全電通会館での市民集会とは、本「ニュース」欄のNo.26、67にある「世田谷懇談会」の土師政雄さんや、明石博隆さん、そして社会主義政治経済研究所の前野良さんらが計画した集会とデモでした。この行事は、べ平連発足以前に東京で行われたベトナム反戦の最も早い市民行動でした。(このことは、吉川勇一の個人ホームページの中の土師政雄さん追悼文にも、ちょっとでてきます。→ http://www.jca.apc.org/~yyoffice/saikin15hajimasao.htm

  『赤旗』には、さすがに書いてありませんが、この行動を組織した中心メンバーは、ほとんど、日本共産党を「反党修正主義者」として除名された人たちでした。

 

 ところが、昨年、渋谷の宮下公園であったイラク反戦デモの出発集会で、若いミュージック・グループの人びとが、この歌を歌ったのを聞きました。40年ほど前の歌が甦ったのです。このことを谷川さんにお知らせし、そして、もしできることなら、今のイラク戦争での新しい反戦の詩を書いていただけないか、とお願いしてみました。谷川さんは、すぐ「やってみたいと思います」というご返事を下さり、締め切り前に詩が届けられたのです。
 『ニュース』では、2ページの見開きで掲載しましたが、いつも『ニュース』のためにカットを描いてくださっている鷺谷真理子さんが、この詩のために、これまたすばらしいカットを描いてくださいました。(左の図) このページはわざと小さく、読めないように掲載しました(意地悪ですね)。谷川さんの詩や鷺谷さんのカットをよくご覧になりたい方は、ぜひ、『ニュース』をお申し込みください。
 谷川さんは、歌えるような詩にしてくださいました。それで、作曲を小室等さんにお願い出来たらと思い、中山千夏さんと一緒に小室さんにお願いしてみたところ、快諾してくださいました。完成までに少し時間がかかるかと思いますが、ご期待ください。谷川さんの詩も、小室さんの作曲も、みな、運動のためという趣旨で、無料です。

 意見広告運動の最後の作業の誤算

 というようなわけで、『ニュース』の割付作業の最終日は、とうとう徹夜になりました。ところがです。これでしばらくは仕事から解放される、たまっているDVDが見られるかな、などと思ったのは甘かったのでした。今進行中の反戦意見広告運動の掲載日が早まったのでした。もともとの目標は、8月15日に掲載の予定でした。ところが、二つの事情が重なり、急遽8月6日掲載と繰り上がったのです。事情とは、一つはオリンピックです。15日となれば、新聞はオリンピック報道でうずまり、意見広告はその中に埋没して目立たなくなってしまうだろうということです。もうひとつは、自衛隊の第三次イラク派遣が8月8〜10日頃に予定されたということです。今度は、青森、岩手、宮城など、東北地方に駐屯する部隊がイラクに向かいます。それで、急遽、仙台など東北地方の反戦グループと連絡をとり、『毎日新聞』全国版のほかに、青森で発行されているローカル紙『東奥日報』と、宮城中心の新聞『河北新報』の3紙に、8月6日同時掲載ということに決めたのでした。「市民の意見30の会」や「市民意見広告運動」のホームページでお知らせしているように、意見広告運動は、昨年5月以来3度目になるのですが、毎回、賛同者と募金額は増加を続け、今回は3,600(人+団体)以上から1200万円以上が送られてきています。広告紙面のレイアウトは、前2回と同じく。デザイナーの鈴木一誌さんによるもので、この賛同者(団体)の名前を並べ、その濃淡で「殺すな」の文字を浮き立たせるデザインです。  
 ところで、当然ながら、そのためには賛同団体、賛同者の名前をアイウエオ順に並べなければなりません。毎日何十件と送られてくる申し込みの振替をパソコンのファイルに入力する仕事は、今回は4人のボランティアによる分担で、遅れることなく処理されてきました。これはありがたいことでした。あとは、入力されているフリガナで 、アイウエオ順にソート(並べ替え)をし、何回も送金してくださった同じ人のだぶった名前を削る作業だけで終わり、その最後の作業は私が引き受けるということになっていました。ま、1日はかからずに終わるだろう、と思っていました。ところがです。28日に受け取った名簿のファイルを見て、ガックリ来ました。ボランティアの人たちには、氏名のフリガナの入力は、「必ず」姓と 名の間に空白を入れてくださいと注意してあったのですが、それが見落とされたようで、全部姓と名がくっついて入っているのです! ま、こんなことに興味がないという方は飛ばしてくださって結構なのですが、フリガナの姓と名がくっついているとどうなるかをご説明してみます。

名簿のアイウエオ順並べ替え作業でまた徹夜

 たとえば、島 靖雄、島 貞雄、島倉明美、島川二郎という4人をアイウエオ順に並べるとすると、島 貞雄、島 靖雄、島川二郎、島倉明美 となるでしょう。ところが、フリガナの姓と名がくっついていた場合、それでソートをかけると、シマカワジロウ、シマクラアケミ、シマサダオ、シマヤスオの順になってしまうのです。フリガナの姓と名の間に空白が入っていれば、正しく並べ替えが出来ます。そ うするために、3,600件を超えるフリガナ名簿を、いちいち、姓と名に分ける作業が必要になってしまったのです。その晩は、徹夜になることを覚悟しました。ですが、その日にまた新しく着いた振替の名前を追加し、匿名希望の人を削除し、ダブリを消す作業だけで朝の5時になってしまい、フリガナの姓名を空白で分ける作業には、もう一晩徹夜を覚悟しなければならなくなりました。新聞の掲載日が決まっており、締切日も動かせないのですから、この仕事は延ばすわけにはゆきません。鈴木デザイン事務所の方に渡す期限を一日延ばしてもらい、30日の晩も徹夜の作業をやりました。この日は、上記『ニュース』の発送作業日だったのですが、それは他の事務局の仲間や、その仕事に臨時に応援に来てくださった方々にお願いして、私は、早めに帰宅し、パソコンに向かい合うことにしました。
 というわけで、連続2日ではないものの、1日おいて2度の徹夜仕事をする羽目になりました。そして、なんとできたのです。昨日朝、アイウエオ順に並べた3,602人(団体)の名簿をメールで鈴木さんの事務所に送ることが出来ました。やれやれでした。

高畠通敏さんのお別れ会に行けませんでした

 8月1日(日)の午後には、先日なくなられた高畠通敏さんへのお別れ会が、立教大学でありました。それには、もちろん参加するつもりでいたのですが、上記のような次第で、疲労困憊、欠礼せざるを得なくなりました。高畠さんとは、ベ平連の活動に関して、ぜひお会いして意見を交換したいと思っていたことが何点かありました。一つは、安保拒否百人委員会での座談会で高畠さんが述べられているベ平連批判の問題、そしてまた、1969年の大阪での反戦万博(ハンパク)での「声なき声の会」のベ平連批判の問題などです(これらについての資料は、ベ平連のホームページの「News」欄のNo.351に出ていますので、関心のおありの方は、そちらをご覧になってみてください)。しかし、それもかなわなくなりました。残念です。