1977年3月発行の 『現代人物事典』 (朝日新聞社刊)より吉川影絵1.GIF (2011 バイト)

吉川勇一 よしかわ・ゆういち  

  平和運動家。1931(昭和6)年3月14日東京生まれ。川越に疎開し、川越中学校、浦和高校を経て東大に入ったが、早くから民俗学に興味を持ち、学生時代すでに柳田国男の民俗学研究所の所員として、神津島の調査に当たったりしていた。しかし朝鮮戦争当時の時代の波は吉川のコースを学者の道から大きく転換させた。50年全国の大学をおそった「レッド・パージ反対闘争」の波のなかにまじめ一本の良心的学生として参加するなかで、当時の日本共産党(主流派)に加わり、以後運動家として身を立てる道に入る。後に「山村工作隊」に発展する「山村調査」のため50年12月三多摩に入るのが吉川の社会調査マンと活動家経歴との接点となった。51年には東大学生自治会中央委員会議長となるが、52年2月には、警察手帳事件として知られるポポロ事件がおこり、吉川は中央委員会議長として大衆闘争の頂点に立って闘う。ポポロ事件では国会の公聴会に出席、自由党の質問者を向こうにまわして一歩もひかず、当時の大衆の圧倒的共感を得る。『社会新報』は吉川を「初々しくて正直」と評したが、左翼特有の暗い影のない学生指導者として新鮮な印象を与えた。同52年、講和・日米安保条約反対闘争で退学処分。その後全学連、わだつみ会、日本平和委員会とプロの平和運動活動家としての道を歩む。原水爆禁止世界大会の初期に国際的組織活動に活躍。60年安保闘争で日本共産党方針への疑いが生じ、63年部分的核実験停止条約問題で日本共産党を除名される。65年べ平連結成のしばらくあとからべ平連に参加、66年からべ平連解散まで、小田実と協力してべ平連事務局長をつとめそれに情熱を注ぐ。長年の組織経験と抜群の実務能力と「初々しさ」とを過不足なく生かし、半ばの敬愛と半ばの批判をもって「官僚」とよばれながら「組織なき組織」であるべ平連を内部からまとめ切った実績は定評がある。べ平連解散後、『資料・「べ平連」運動』3巻(74年、河出書房新社)をまとめる。吉川は予備校教師をしながら、次の運動構築を模索中であったが、76年企業などの内部告発の受け手として「情報かけこみセンター」(AlC)をつくった。

(武藤一羊)

back.GIF (994 バイト)      top.gif (3079 バイト)