【反天論議】 無党派運動の思想B

天野恵一『無党派運動の思想――[共産主義と暴力]再考』を読んで

                                       吉   川   勇  一      

『反天皇制運動じゃ〜なる』 1999年5月 日号に掲載)

 

 私もかつての運動体験やそこで考えたことにこだわって、時に応じてそれを反芻するほうだが、天野さんは、それをかなり上回るしつこさだと思う。誤解されると困るので言っておくが、これは賛辞であって批判でも揶揄でもない。

 とにかく始まりは、私の『市民運動の宿題』への天野さんの書評(『情況』一九九一年一〇月号)だから、天野さんとのこのやりとりは、もう八年近く、折に触れて連続していることになる。私は喜んでそれに付き合うつもりだ。天野さんはかつて、私のこの本に触れて「あまり言葉にされたことのない過去の積極的な体験をこそ、現在の運動のなかで意識化すべきだという吉川のこだわりかたは、私のこだわってきたことにつながっている。だから、私はそこに深く共感したのである」と書いた。(「生きなおされるべき『運動体験』」『インパクション 』一九九二年二月号)。これは私の天野さんに対する言葉でもある。

 今度の著書の冒頭には、「日本はこれでいいのか市民連合」への評価がある。その設立にかなり責任のある私としては、「日市連」問題にも触れなければならないのだろうが、それは別の機会にまわして、ここは私の名も登場してくる最終章「『連合赤軍』という問題――〈全共闘経験〉をめぐって」に関係したことだけを述べる。

 天野さんは、ここで前著『「無党派」という党派性』への私の書評の二点を引用して、前著の主張を補完している。そのうち、第一の、同志殺しや内ゲバを「他人事」と見る件については、私の疑念は氷解した。前著がすこし説明不足だっただけのことだと理解できた。

 だが第二の点は、あまり説得的な追加説明とは思えなかった。こんどの本で述べられている限りではまったく異存はないのだが、前著の「男は逃げるようにきえる。そして死地へ。それは、殴り込みの暴力に共感したなどという、つまらない話ではないのだ。多くのヒーローたちのこの『自己否定=自己処罰』の精神にこそひかれたからである」というような表現が、「もっと軽い気持ちの決意を書いたつもりだったのだが」といなされてしまうと、いささかシラケタ気分もちょっとした。ここはやはり天野さんの軌道修正のように思えた。

 懸案の二件はそれで終り。ここで言いたいことは、「4『戦争・軍』の思想」と「5『共産主義』化と暴力と民主主義」で新しく展開されている論についてだ。ここを読みならがら、私は私で、以前の体験と感情を想起していた。それは、一九五〇年代、日本共産党員として活動していたときのことだ。私は野間宏の『真空地帯』を読んだ後、飯塚浩二の『日本の軍隊』(一九五〇年、東京大学出版部刊)を読んだ。そして、自分でも意外だったことは、この『日本の軍隊』を読みながら脳裏に浮かんでくるものが『真空地帯』の場面ではなく、現にその中に身を置いて活動していた共産党の運動の日々の場面だったことだ。同じじゃないか、あの細胞会議の討論は! あいつの言ったことは、この将校の言ったことと同じじゃないか! そういう思いがつぎつぎと湧き、それを振り払うのにかなり苦労をした。

 たとえば、『日本の軍隊』の第一部の「討議」で、丸山眞男がつぎのようにのべている。

ルールは戦闘目的というか、非常に明確な目的があって、そのルールを或る程度引用してプロテストすることはできる。しかしこういうルールの背後には一種の自然法みたいなものがないと思う。つまり、軍隊というものにはその背後に人間性の尊厳というか、人間人格の平等というようなものによって支えられた基盤がないから、対戦闘目的とかいう合目的なものによって規定されたルールはあっても、それは反人間的なものを防ぐ保証にはならない。だから、そのようなものに対しては反人間的だという批判すら下すことは許されない。(前掲書 一〇八ページ下段)

こういう指摘が、党内の雰囲気の描写に読めてしまうのだった。そんなことを思い出しながら、天野さんの、「共産主義〈コミュニズム〉革命の思想に軍隊の論理は常に内包されているこの軍事の論理〈文化〉と行動と内部粛清やリンチが連動しているのである。……『連合赤軍』の『同志殺し』の問題は、特殊『連赤』という問題にどじこめずにこういう文脈の中で考えるべきである」という指摘を読んだ。

 これは、天野さんが私の本への書評でのべた注文(著者は「連合赤軍リンチ殺害」があかるみに出た時代の「前衛党も軍も必要」という主張も含まれた自分の発言を引いたところで、『前衛党の必要性』などとまったく余計なことをのべた部分」と語っているが、この「余計なこと」の中味をより具体的にどこかで論じていただきたいものである)とも関係する。

 この点だけ、答えておけば、それは、やはり天野さんの言う「自分の命がかかってしまう闘争へ決起しようという人間が、何人も出てくる運動状況のなかでは、そうした運動の方向を具体的に批判することが、できにくい気分がつくりだされてしまう」という時代の中で、それに影響されたことと、にもかかわらず、べ平連がそのような方向に向かうのに何とかブレーキをかけようという主張を少しでも説得的なものにしようとして、心底から信じてもおらず、深く考えてもいないことを口にしたという、安易で姑息な妥協的・追従発言だったと言わざるをえない。

 このほか、「沖縄」を論じた章では、絶対平和主義の立場を追求する天野さんの思想の経過が具体的に語られている。三月末、私は天野さんや太田昌国さんらとともに「提言の会」として「非武装国家・日本」への具体的道程を求めるシンポジウムをやった。例によって時間不足で、議論はあまり進化させられなかったが、一つの出発点にはなったと思う。それとも関連して、だいぶ以前のことになるが、天野さんの「非武装国家諭」について『統一』紙上で宮部彰さんが「残された論点」としている二点、とくに「国連の武装による平和」の論理への批判、「警察的軍隊」の論理への批判の問題を、今後すすめることを天野さんに期待したい。

 いずれにせよ、本書は、運動にかかわる多くの人に読まれて議論の種にしてほしいと思う好著である。

 天野さんの本の書評からますます離れてしまうように思われるかもしれないが、最後に一つだけ。最近、ふとしたことから元朝日新聞編集員の井川一久氏とやりあうことになりそうになっている。ことはポルポト政権下のカンボジアへのベトナム軍侵攻の評価をめぐってであり、具体的には、私や小田実、福富節男、日高六郎ら六一名が参加した一九七九年三月の共同声明などへの評価をめぐってである。この問題は直接、現下のNATO軍のユーゴ空爆への批判につながる。そして、共産主義、社会主義国、軍隊、暴力という、天野さんが今度の本でも問題にしつづけているテーマと直結するし、今のべた天野さんへの期待(注文)とも関連する。私は、かつて自分がかかわったこの立場にもこだわって、井川氏との議論を進めてみたいと思っている。(この問題の具体的資料は、このホームページ「論争・批判」欄に公開されている)。

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