news-button.gif (992 バイト) 241 小山誠三さんのお通夜。 それと川越付近の民話・伝説3編。 (2012年10月07日  掲載) 

 本欄前号でお知らせした友人、元飯能市長、小山誠三さんのお通夜に参加してきました。翌日の葬儀には予定があって行かれませんでしたので。
 1時間半もあればつくかと思ったマイカーでしたが、夕方の帰宅時間で、途中、何度も渋滞に巻き込まれ、2時間以上もかかり、6時の予定時間ぎりぎりの到着になってしました。もう一杯の参加者で、数百人。さすが、元名市長だったからでしょう、会場の外にあるテントからもはみだして、お焼香を待つ6〜7人横列が何組も出来ていました。知人にも会えるかと思っていたのですが、あまりの大勢の方で、とても探すことも出来ず、一人だけ、川越中学同級生の久下(新井)さんに会えてちょっと立ち話ができただけでした。
 夫人の八重子さんはいちばん前席のほうに座っておられたので、お話ができなかったのですが、入り口でご挨拶しておられるご子息の
郁也さんとお話が出来、そこで、前号に触れた『自然研究』掲載の郷土班の発表のコピーなどをお渡し出来ました。
(左がお通夜の室内)
 ところで、その数日後、元ベ平連の活動家だった知人から、前号に触れた『埼玉県の民話と伝説』(有峰書店刊)の全3冊が
贈られて来ました右の写真)その仲間の元ヤングベ平連の一人が今 、古書店をやっており、その店に在庫があったのだそうです。1冊だけで1万円ほどの中古書の値段がついている本なのですが、その二人の方から、私のホームページを覗いて、贈ってやろうと話が出たのだそうです。ありがたいことでした。早速、この本を眺めてみましたら、国鉄の川越線についての幽霊の話が出ていました。川越線は、高萩の飛行場に動員に通って、毎日乗っていた蒸気機関車の引く懐かしい列車で、面白く読みました。ほかにも、旧制中学にいた頃の川越付近の農村の民話や伝説がたくさんあって、手を離れなく、読み込んでしまいました。この川越線の幽霊の話ともう一つ 「梶原の池」の話だけですが、ここにご紹介しておきます。 「梶原の池」が出ている池辺という場所は、今では川越市池辺という住所になっていますが、元は、埼玉県入間郡太田村(のち大東村)池辺と言われ、入間川の土手に沿っている水田の農村でした。私が旧制川越中学に転校してから大学に入るまで、この池辺の家に家族たちと暮らしていたのです。ここに出ているきれいな池もよく知っており、毎日その脇を歩いて西武鉄道の南大塚駅まで通っており、当時はたくさんのメダカが泳いでいました。これも懐かしい場所の一つです。しかし、この伝説にある池の中に馬の鞍が入っているという話はまったく聞いたことがありませんでした。今、このあたりは川越・所沢大工業地帯になっており、大トラックが続けて走る場所になっており、はたして今もこの池はあるでしょうかと思っていたのですが、現在の地図を調べると、熊野神社の東側に池が出ているようです。

  川越線のおばけ

 国鉄川越線の大宮−川越−高麗川間は、昭和十五年(一九四〇)に開通したものだが、川越−大宮間は川越電気鉄道として、明治三十八年(一九〇六)に開通し、本県内で最初に電車を走らせた画期的な路線だった。のちに西武鉄道に合併し、さらに右のように国鉄に移管されて、今日に至っている。
 国鉄は線路を敷くとき、川越−大宮間はすでに電車が走っていたのだから、その線路を利用すればよいものを、そうしないで、全く新しく線路敷を買収して完成させたのである。それも、軍の命令だといって、いやも応もなく強引に通してしまったという。これはそのときの話である。
 線路の一部に、古谷本郷地内の基地と薬師堂がかかってしまった。なにしろ現在のように地元の意向を聞くわけでもなく、地図の上へ線をひいて、そこを強制的に買収していくのだから、右のようなことも起こるのである。
 線路を通すために薬師堂を東へずらし、基地の一部を削って、真中に線路を通してしまった。つまり線路が通ることによって薬師堂と墓地は両方に分断されてしまったわけである。地元の人々は何と恐ろしいことをするのかとはらはらしていたが、当時勢いのよかった軍のこととてただ黙って工事を見守っていた。
 さて、工事が完成し、汽車が通るようになった。最初のうちは何事もなかったが、しばらくしたある夜、汽車が古谷本郷地内へさしかかると、前方に振り袖を着た若い娘の姿が浮かんできた。運転手はびっくりして、あわてて汽笛を鳴らしつつブレーキをかけた。これは間に合わないな、と思った瞬間、娘の姿は霧のようにかき消えていた。
 念のため列車を停車させて、よく調べてみたがどこにも異常は認められなかった。運転手はうす気味悪くなって、ふるえる手つきでふたたび列車を走らせ、四方八方に気を配りながらやっとのことで終点駅まで運転してきた。
 彼はさっそく上司や同僚に、恐ろしかった体験を話したが、だれからも一笑にふされ、信じてもらえなかった。
 ところが、次の日の晩のことである。最終列車が古谷本郷地内を通過すると、いつものように最後部に乗り込んでいた車掌が、何気なくうしろを見ると、驚くなかれ、女の親子連れがちょうちんを片手に持って、列車を追いかけてくるではないか。列車はフルスピードで走っているのに、負けず劣らずついてくるのである。口々に何か大声で叫んでいる。いやはや、びっくりした車掌は、腰を抜かしてしまった。
 やっとのことで非常信号で運転手に知らせ、列車をとめてもらった。運転手は不思議そうな顔であたりを調べたが、女の親子連れは影も形もなかった。「少し眠くなったんだろう」などと言われて、また車掌の席へ帰ったが、生きた心地もなかったが、やっと終点の灯が見えたとき、はじめてほっとして生き返ったような気持になった。

 それからというもの、毎晩のようにこうしたことが報告され、列車の乗務員も、夜の勤務は気味悪がって、だれもつく者がいなくなってしまった。国鉄当局でもすっかり困ってしまい、地元の人々に聞いたり、いろいろ調べてみると、古谷本郷の先祖代々の人々が永眠している場所を、線香一本供えずに削りとって線路を通してしまったので、たたっているのではないかということになった。
 さっそく近くにある濯頂院で、関係者一同が出席して慰霊祭を行なったのである。それからというもの、そのようなことはなくなったという。
 ただ墓地の近くの人に言わせると、ある家で葬式があったが、いざ出棺というときになったら、夕立になってしまった。雨が上がったのは夜遅くなってからだったが、予定どおり線路脇の基地へ埋葬した。
 このときの光景を汽車の運転手が見ていて、話したのが人から人へとうわさをするうちに尾鰭がついて、右のような話になったのだろうとも言われている。

 参考=鈴木喜一氏、植松久生氏談話

 

 ■大東地区

 梶原の池

 鎌倉幕府を開き、武家政治を始めた源頼朝は、勇猛をもってなる東国武士団に囲まれて育ったので、身心の鍛練や娯楽を兼ねて、しばしば狩りを行なった。建久四年(一一九三)三月にも入間野で狩りをしたが、このとき藤沢二郎清親が百発百中の命中率を示し、雉五羽と真名鶴二十五羽をしとめて、頼朝から、たいへんほめられている。
 あるとき、頼朝は那須野(栃木県北部)へ狩りに行っての帰路、川越の池辺あたりまで来たところで、当座の余興として、主だった家臣と馬の疾走競争をした。なにせ那須から旅を重ねてきたので、人間も馬も疲れていたが、負けずぎらいの頼朝のことだから、それを強行したのである。
 参加した者も、内心ではあまり気が進まなかったが、手心を加えてご主君をわざと勝たせるようなことをすると、あとでどんなおとがめを受けるかわからないので、全員全力疾走した。ところが、頼朝の馬が途中で悲鳴をあげてしまい、動かなくなってしまったのである。やむをえず競争を中止して、馬を休ませることにした。
 池辺一帯は、彼の有力な家臣のl人である梶原平蔵景時の所領で、その辺の地理をよく知っていたので、さっそく頼朝を案内して清水の湧き出る小さな池へつれてきた。ただちに馬に水を飲ませたり、冷たい水を何回もかけて足腰を冷やしてやった。しばらくすると、馬はすっかり元気をとり戻したので、ふたたび競争が開始された。
 頼朝は最初から出足よく、ぐんぐん他の家臣を引き離し、とうとう優勝してしまった。彼が小踊りして喜んだことはいうまでもない。これはきっと、さきほど馬を休ませた池の水が、きいたからに違いないと、梶原平蔵に言葉をかける一方、それまで愛用してきた馬の鞍を沈めて感謝の恵を表し、あわせて武運長久を祈ったのである。
 だから、この池の底には馬の鞍があって、池の主となっていると信じられており、それ以来、「梶原の池」と呼ばれるようになった。現在池辺の熊野神社の東にある池(池辺二六五番地)がそれで、弁天さまがまつられている。

 参考=太陽寺盛胤「多濃武の雁」埼玉叢書第二 昭和43

 

 なお、ますます小山さんのお通夜と離れてしまうのですが、郷土班との関係で、もうひとつ、別の本に出ていた私が住んでいた池辺の、これもよく行っていた「おっぽり池」の話も追加しておきます。

 
 オッポリ池
 川越市池辺

 池辺に昔のままではないがオッポリという池が残っている。昔大男がこの池に突然現われて、ノッシノッシとやってくる中に、たまたま小便をしたくなったので、一方の足を小ヶ谷(川越市)の田甫の中に、一方の足を大葦(狭山市下奥富)の山林の片端について小便をした。
 その小便の勢いが大へんはげしかったので、小便の落ちた池辺地内には底知れない池ができた。この池を誰いうとなくオッポリと呼ぶようになった。小便しながら大男の体が左へかしいだので、その足は深くのめり込んで、その足跡は深い池となった。この池もオッポリとよんでいる。軽くついた右の足跡は、大葦の小高い岡の麓の浅い池として残ったが、この方は清水がトウトウとわき出たので、清水の池と人は呼んだ。
 大男が両足をついた小ヶ谷と大葦の間は約十キロ、池辺のオッポリ池はその中間の東寄りにあるが、池辺と大葦、小ヶ谷間はいずれも約五キロの等距離にある。そうすると、大男は西の方からやって来て、東向きになって小便をしたことになる。
 池辺のオッポリ池は面積約四〇〇坪あって、付近一帯の田甫をうるおしていたが、昨今は地下水の低下で、池の大部分が雑草が生い繁っている。小ヶ谷地内の池は、堤防改修のため昨今埋めたててしまったので、その一部には住宅まででき、残る部分は底地帯となって、芝生が繁って、子供の遊び場と化している。大葦の池は。昭和二十年頃までは、下流の田甫に用水を供給していたが、これまた地下水の低下で、今はゴミ捨て場となって、昔の面影はない。なお大葦の名は大男の足跡から名づけられたという。

・「埼玉県伝説集成(別巻)」 韮塚一三郎編著 北辰図書 1977年