news-button.gif (992 バイト) 9. 「 『蜂六会』のこと」(2005年9月30日掲載)

 以下は、まだ現役の本なので入手困難というわけではありませんが、風間龍さんが亡くなられたので、風間さんのことについて触れた文章を『市民運動の宿題』の中から転載します。

「蜂六会」 のこと
 こうして戦後最大の規模と広がりをもった大衆運動、原水爆禁止運動が成立する。この運動の初期の経過については、多くの文献があるから、ここでは記さない。あまり明らかにされていないエピソードを二、三のべるに留める。
 第一回の原水爆禁止世界大会が広島で開催されるのは翌一九五五年のことだが、私はそれから第十回大会まで、連続して事務局の国際部を担当した。主催団体である原水協の事務局員ではなかったが、それを構成する有力組織の一つとしての平和委員会から、毎年夏になると原水協に派遣された。近頃の言葉でいえば、出向社員という形だ。
 民衆運動が、戦後初めて主催する国際集会として、解決すべき課題は無数にあった。その一つが大会に絶対必要な通訳、翻訳など語学要員だった。今でこそ、サイマル・インターナショナルはじめ、多くの通訳派遣業の会社が大盛況だが、五五年当時、そんなものはなく、あったとしても政府機関か大企業専用で、平和運動が頼んだところで見向きもされなかっただろう。
 総評、日教組などで国際局の仕事をしている何人かの語学の達者な人の協力は得られることになったものの、それだけでは到底足らなかった。
 そこで、通訳を急速学生アルバイトとして募集した上、短期間で役にたつよう養成するという仕事をすることにし、私がその実務を引き受けることになった。この無謀ともいえる思いつきに賛成し、実現のための条件をととのえてくれたのは、日本平和委員会の書記局員だった津々良渉氏だった。ごく安いアルバイト料は支払うものの、それは大会の期間中、実際の仕事をするだけの間で、その仕事をするには二週間ほどの通訳養成の講座に事前に出席することが義務づけられ、その間はアルバイト料なしという、経済的には割にあわぬ条件での募集だったが、各大学に募集の回状を回してみると、応募者は続々と現れた。筆記試験、面接試験の末、七〇人ほどの採用を決めたが、大学は、東大、早稲田、東京外語、津田、日本女子大、東京女子大、法政、一橋、など、都内の一流大学の多くに及んでいた。
 そして開かれた特訓講座の講師は、現在関東学院大の教授をしている風間龍、外資系化粧品会社の日本社長をした後、現在、外国人に日本語を教えている野中孝一の両氏で、両氏は情熱的に学生たちに通訳の特訓講義をはじめ、私はその講座の事務主任という形になった。今から考えるとずいぶん無茶な計画で、そんなことで国際会議がよく準備できたと思われるだろうが、当時の学生は今の大学生に比べて実力はかなり高く、そして何よりも金目当てのアルバイトという姿勢ではなかった。みな、原水爆禁止の事業に参加するということに大きな意義を認め、喜んで講義にも出たし、辛い仕事にもあたった。もちろん、素人集団の国際舞台だから、大慌てや、大笑いをするような失敗もあったが、しかし気持ちのいい仕事だった。この経験は翌年の第二回大会以降も引き継がれ、次第に効率も高くなっていった。
 この初期の大会での通訳、翻訳、タイピストなどの学生アルバイト陣からは、その後傑出した人物が多く出ている。一番著名なのは、「こちらヒューストン」など、テレビの同時通訳で第一人者となっているサイマル・インターナショナルの副社長、小松達也氏であり、また、TBSテレビのニュース・キャスターも務め、日本語版『ニューズウィーク』誌の編集長もやっている東京国際大学教授の浅野輔氏、同じく、TVによく登場するジャーナリストの有馬真喜子氏、『暮らしの手帖』パリ特派員の増井和子氏、そして、毎年アメリカから若手ジャーナリストを広島に招待する秋葉プロジェクトを創立し、現在社会党「ニューウェーブの会」の衆議院議員になっている秋葉忠利氏、オーストラリアの大学で政治学を教えている福井治弘氏などだが、そのほかにも、学界、ジャーナ
リズムで活躍している人は実に多い。
 このグループが「蜂六会」という会をつくり、一年か二年に一度、集まりを今でももっている。『若葉蜂六』という機関誌もときどき発行されている。「蜂六」とは、もちろん、八月六日の「ハチロク」であり、「若葉」とは第一回世界大会のときのバッジ、彫刻家の本郷新氏がデザインしたマークの若葉から来ている。風間・野中両講師はもちろん、国際部長だったもと東京工大助教授、のちに群馬大学学長をつとめた畑敏雄氏、原水協理事長だった故安井郁氏の夫人田鶴子氏、国際部の主任だった現アジア太平洋資料センターの代表、武藤一羊氏などもよく顔を出しているし、すでに亡くなった原水協事務局長、黒田秀俊氏も存命中は出席した。しかし、何よりも、当時のアルバイト学生諸君である。今はもう、五十代半ばに達している、それも私のような活動専門の人間でなく、まったくの普通の市民なのだが、世間で名を知られるようになった人物も、家庭に入って主婦業をつとめるものも、企業に入って会社員になっているものも、集まってくるたびに話題となるのは、核兵器と戦争への強い批判であり、かつての体験を自分の子どもたちに伝えようとしている努力である。
 アルバイト先での集まりが、十数大学を横断する出身者を四〇年近くもつなぎ合わせるという、こういう集団も珍しいと、私は思う。初期の原水禁運動が、健全なものだったことを示す一つの証拠だとも思う。
 ついでながら私事を記しておくと、この運動の過程で、私は結婚した。釆目した中国紅十字会の李徳全女史を『平和新聞』の記者として取材する中で知り合った女性とだった。一人二五〇円也の会費制の会で、ビールとおつまみ、サンドイッチだけだったが、仲人が平野義太郎氏夫妻、司会が、のち立川市長にもなった牧師の阿部行蔵氏、出席者は小学校から中学、大学までの恩師に、羽仁五郎氏、戸沢鉄彦氏ら平和運動の大先輩に、多くの友人といった豪華メンバーで、そこへこの原水協の通訳グループが何十人も出席(見物?)に来て、椅子が足りなくなってしまった。このときばかりは、自分の結婚式で、事務局ではなかったから、正面に座ったままヤキモキする以外になかった。二七歳だった。

(拙著『市民運動の宿題』思想の科学社 1991年刊 より)

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